『「日本国紀」の副読本』百田尚樹・有本香(産経セレクト)の百田氏と有本氏の対談の中で、百田氏は、藤尾文相の”韓国併合は合意の上に形成されたもので、日本だけではなく韓国側にも責任がある”との発言を引き、”藤尾文相の言っていることは正しい。”と断言しています。
でも、日本にとって不都合な多くの歴史的事実を無視したそういう歴史認識は、国際社会では通用しないと思います。私は、以前「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)や「外交文書で語る-日韓併合」金膺龍(合同出版)その他から、閔妃殺害事件やハーグ密使事件などに関わる文章を抜萃しつつ、韓国併合に至る経緯を辿ったことがありますが、それらの事件は、当時の関係者の多くが認めていることであることを知りました。
また、有本氏は、日本軍「慰安婦」について、
”いまだに「一方、朝鮮・台湾の若い女性のなかには、戦地におくられた人たちがいた」と当時の事情を無視して書いている神経もすごい。「戦地に送られた」と書いていますが、「送った」のは誰かをあえてボカしています。しかし、日本軍でも日本政府でもありません。業者ですね。しかし「この女性たちは、日本軍とともに移動させられ、自分の意思で行動することはできなかった」と「日本軍」という単語を書くことで、日本が若い女性を戦地に送ったかのように印象操作しています。”
などと、根拠を示さず語っていますが、明らかに事実に反します。『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(財)女性のためのアジア平和国民基金編』は、日本政府による日本軍「慰安婦」の調査結果をまとめたものですが、日本軍「慰安婦」に関わる公文書が数多く掲載されています。河野談話で語らざるを得なかったように、軍や政府の関わりを否定することはできないのです。また、「従軍慰安婦資料集」吉見義明編(大月書店)には、”軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件”というような軍の文書や、軍の定めた慰安所規定、また、日本軍「慰安婦」派遣に関する軍の電報のやり取りなども取り上げられています。そうした数々の資料や多くの証言を無視し、逆に”いまだに「一方、朝鮮・台湾の若い女性のなかには、戦地におくられた人たちがいた」と当時の事情を無視して書いている神経もすごい。”などという有本氏の主張は、いかがなものかと思います。日本軍「慰安婦」に関わる教科書の文章は、”印象操作”などとはまったく無縁で、関係機関の文書や関係者の証言に基づいたものです。だから、”当時の事情を無視して”いるのは有本氏の方です。
日本政府が、国際機関(国際法律家委員会や国連人権委員会)から勧告を受けている事実や、日本軍「慰安婦」として性交渉を強いられた女性の存在する国々の国会決議などを踏まえれば、こうした何の根拠も示さない主張は、国際社会の信頼を損ない、日本の将来を危うくするものだと、私は思います。そして何より、日本の若者を惑わせる主張だと思います。こうした主張が、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の展示を中止に追い込み、さらに「表現の不自由展・その後」の開催を、再び難しくする要因の一つになっているのではないかと思います。政権の姿勢を反映してか、行政や警察も簡単に脅しに屈し、表現の自由を守ろうとしてはいないように、私は思います。
また、百田氏の
”「三・一独立運動」(1919年3月1日)は単なる暴動なんですよ。韓国では「偉大な独立運動」として3月1日を国民の記念日にしていますが、本当に「独立運動」だったかは大いに疑問です。初期のデモを別にすると、後の暴動は単なる騒擾事件ですよ。逮捕された者たちは首謀者も含め非常に軽い罪でした。”
というような主張も、事実に反し、見逃すことはできません。
三月一日の早朝、韓国では、東大門と南大門などの主要地域に、下記のような壁新聞が張り出されたといいます。
ああ、わが同胞よ! 君主の仇をうち、国権を回復する機会が到来した。
こぞって呼応して、大事をともにすることを要請する
隆煕13年正月 国民大会
それは当時、殉死を覚悟して韓国の主権守護にあらゆる手を尽くしていた高宗前皇帝が、突然死をとげたからであるといいます。韓国の人々は、いくつかの理由で、高宗前皇帝の突然の死が、日本人による毒殺であると受け止め、不満を爆発させて起ち上がったということなのです。
また、「三・一独立宣言文」には、”威力の時代は去り道義の時代がきた”という言葉があります。さらに下記のような約束事も書かれています。
”一、今日われわれのこの挙は、正義、人道、生存、尊栄のためにする民族的要求すなわち自由の精神を発揮するものであって、決して排他的感情に逸走してはならない。
一、最後の一人まで、最後の一刻まで、民族の正当なる意思を快く発表せよ。
一、一切の行動はもっとも秩序を尊重し、われわれえの主張と態度をしてあくまで光明正大にせよ。”
道義・道徳を尊重するように呼びかけているのです。
”国権を回復する機会が到来した”と呼びかける壁新聞を張り出し、上記のような約束事を明記した独立宣言文を発表し、上海に臨時政府を設立した運動が”単なる暴動”でしょうか。
さらに、総督府はこの独立運動を弾圧するために、軍隊や憲兵はもちろん、警察、鉄道援護隊、在郷軍人、消防隊まで動員し、運動が終息するまで武力による弾圧を続けて、多くの死傷者出すことになりました。にもかかわらず、”逮捕された者たちは首謀者も含め非常に軽い罪でした。”というのは、事実に反すると思います。
以前にも取り上げたことがありますが、「朝鮮独立運動の血史1」朴殷植著・姜徳相訳注(平凡社)には、二百を超える韓国全土の府郡で呼びかけに応えて、独立運動が起こったとあります。また、義兵として加わった人民は200万を超え、死亡者は7,509人であったとあります。
三・一独立運動の発祥地で知られるタプゴル公園には、現在、独立宣言文を読み上げている柳寛順(ユガンスン)のレリーフがありますが、彼女は拷問をうけ獄死したと言われています。そして、韓国には、日本が使用した拷問のための様々な道具や拷問が行なわれた部屋などが、今も残さているのです。
下記は、「朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚」森田芳夫著(厳南堂書店)から抜萃しましたが、日本のポツダム宣言受諾を知った朝鮮総督府の阿部信行総督は、総督府職員一同を会議室に集め、終戦の詔勅のラジオ放送を一緒に聞いた後、「諭告」を読み上げたといいます。その諭告の中に、 ”我等臣子 肇国ノ神勅ニ徴シ 神州不滅ノ確信ノ下 子々孫々 万古天皇ヲ仰ギテ将来ノ文化建設ト道義確定ニ依リ 世界ニ示範スベキ精神的理想国家完成ノ一途ニ堂々邁進スルノ決意アルヲ要ス”とあります。神話的国体観に基づく決意の重要性を語り、”疆内官民克ク之ヲ励メヨ。”と呼びかけているのです。朝鮮の地において、日本の神話に基づく国体観による強引な政治が行なわれていた証しだと思います。
また、当時、朝鮮治安の責任者西広警務局長は、”終戦決定と同時に、第一に政治犯・経済犯を釈放すること、第二に朝鮮人側の手によって治安維持をさせることを考えていた。”という事実が、日本の支配が武力に基づくものであったことを物語っていると思います。
また、西広警務局長は、”この時局をにない治安維持をなしうる人材として、呂運亨(ヨウニョン)・安在鴻(アン・ジェホン)・宋鎮禹(ソン・ジヌ)氏”を思いうかべたとのことですが、武力行使が出来なくなった日本人では、治安維持が難しいので、日本の韓国併合に抵抗した独立運動家に頼るしかなかったということだと思います。
さらに、阿部総督が諭告を読み上げた直後から、早速”総督府をはじめおもな官庁で、重要書類の整理焼却がはじまった。”というような記述も見逃すことができません。なぜ、まず最初に、”重要書類の整理焼却”をしたのか、国際法を順守していれば、必要のないことではないかと思います。重要書類の焼却処分は、敗戦前後、日本国内でも徹底して行われたことはよく知られていますが、不都合な事実は隠蔽するという姿勢が、今に続いているように思います。
百田氏や有本氏は、こういう朝鮮終戦の記録が、日本人の手によって残されていることを無視してはいけないと思います。
同書の著者森田芳夫氏は、京城日本人世話会で活躍し、厚生省引揚援護庁や外務省引揚調査室などに席を置いた人だといいます。そして、厚生省事務次官太宰博邦氏や外務省アジア局長後宮虎郎氏、中央日韓協会副会長・元京城日本人世話会会長穂積真六郎氏が文を寄せています。終戦時の朝鮮を知ることの出来る貴重な本だと思います。私は、日韓関係を語る人には、ぜひこうした本の存在を知ってほしいと思うのです。
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第三章 終戦時の朝鮮
一 総督府の終戦対策と朝鮮建国準備委員会
1 遠藤・呂運亨会談
日本のポツダム宣言受諾は、朝鮮民族解放の受諾でもあった。ポツダム宣言には「カイロ宣言の条項は履行せらるべく」と明記され、カイロ宣言には「やがて朝鮮を自由かつ独立のものたらしむる決意を有す」と述べられている。
朝鮮総督府警務局は短波放送をきいて、日本が国体護持の条件付でポツダム宣言を受諾したことを八月十日には知っていた。しかし東京の政府からは何の通知もなかった。終戦になれば、連合国が進駐し、日本軍は武装解除され、日本の主権は失われる。現在清津(チョンジン=朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道の道都)に上陸しているソ連軍が汽車で南下すれば、京城までは二十時間で達し得る状況にある。当局としては、ソ連軍がただちに刑務所の朝鮮人政治犯を釈放し、赤色政権を樹立するであろうこと、また、その際かならず起こるであろう略奪・暴行およびそれに雷同する一般民衆の動きも考えねばならなかった。
朝鮮治安の責任者、西広警務局長はこの対策として、終戦決定と同時に、第一に政治犯・経済犯を釈放すること、第二に朝鮮人側の手によって治安維持をさせることを考えていた。西広局長の頭の中には、この時局をにない治安維持をなしうる人材として、呂運亨(ヨウニョン)・安在鴻(アン・ジェホン)・宋鎮禹(ソン・ジヌ)氏らがうかんだ。
・・・
これよりさき、十四日夜、遠藤政務総監は、京城保護観察所長・長崎祐三氏に電話をかけて、明十五日午前六時に、呂運亨氏とともに、政務総監官邸に来るようにと通知した。 呂運亨に対し治安時維持の協力を依頼することについて、政務総監と警務局長とは、かねてから話し合っていたものと見られる。長崎保護観察署長に通知したのは、呂運亨氏が思想犯前歴者として保護観察の対象にあったからである。
八月十五日午前六時半ごろ、長崎保護観察所長は呂運亨氏およびその通訳の京城地方法院の白允和検事をつれて、大和町の総監官邸を訪ねた。呂運亨氏は日本語ができるが、うまくないので通訳を必要としたのである。
遠藤総監は、呂運亨氏を第二面会室に通し、
「今日十二時、ポツダム宣言受諾の詔勅が下る。すくなくとも十七日の午後二時ごろまでには、ソ連軍が京城に入るであろう。ソ連軍はまず日本軍の武装解除をする。そして刑務所にいる政治犯を釈放するであろう。そのときに、朝鮮民衆は付和雷同して暴動を起こし、両民族が衝突するおそれがある。このような不祥事を防止するために、あらかじめ刑務所の思想犯や政治犯を釈放したい。連合軍が入るまで、治安の維持は総督府にあるために、あらかじめ刑務所の思想犯や政治犯を釈放したい。連合国軍が入るまで、治安の維持は総督府があたるが、側面から協力を御願いしたい」
と述べた。これに対し、呂運亨氏は、「ご期待にそうよう努力する」と答えた。
そのとき室にはいってきた西広局長も加わって、釈放を前に思想犯・政治犯に妄動しないようあらかじめ話してほしいことと、民衆の中で、とくに青年・学生が暴動の中心となるおそれがあるので、かれらに冷静を持するよう説得してほしいことを呂運亨氏に依頼した。なお遠藤政務総監は、呂運亨氏から安在鴻氏に対して「ともに治安維持に協力するよう」伝言を依頼して席を辞した。
それから西広局長は呂運亨氏に「治安維持協力に必要なら、朝鮮人警察官を貴方の下に移してもよい」といった。呂運亨氏からの食糧問題についての質問に対して、西広局長は「十月までは大丈夫である」と答えた。また「治安維持法に問われて警察署・憲兵隊に留置されているものを釈放してもらいたい」との要求に、「それはもちろんである。刑務所にいるものさえ釈放するのだから」と答えた。「集会の禁止をといてほしい」という呂運亨氏の言に、西広局長は集会の自由を約束した。なお、呂運亨氏は「釈放者に対して、まじめに建国に努力するよう、自分から一言のべたい」と希望した。
・・・
2 八月十五日の京城
八月十五日の午前中には、京城府内の要所要所に「本日正午重大放送、一億国民必聴」の掲示が大きく出された。民衆は「終戦」という予感と、「対ソ宣戦布告」の二とおりの解釈をもち、事態の重大感に緊張していた。正午のラジオ放送は雑音が多くて聞きとりにくかったが、だいたいの内容はわかり、つづく解説とともに、京城府内にはり出された新聞社の掲示によって、一般は日本の無条件降伏の実相と連合国が朝鮮の独立を約束していることを知った。
総督府では、正午、職員一同を第一会議室に集めて、終戦の詔勅のラジオを聴取したのち、阿部総督の諭告があった。
諭告
本日畏クモ停戦ニ関スル詔書ヲ拝シ、臣子トシテ 恐懼慚愧 九腸寸断ノ思ヒニ堪ヘズ
顧ミルニ 皇国ノ自存自衛ト道義ニ基ク大東亜民族ノ運命開拓トヲ目的トスル聖戦ニ於テ 開戦以来幾多ノ将兵ハ万里異境ニ勇戦敢闘シテ 屍ヲ陸海空ニ曝スモノ其ノ数ヲ知ラズ 大ニ皇軍ノ精強ヲ世界ニ周知セシメ 銃後ノ国民亦 無防備都市ニ爆焼ヲ蒙リ 無辜ノ非戦闘員ニ犠牲甚大ナリシニ拘ラズ 一億団結 能ク職域ニ奉公シ 戦争ノ完遂ニ協力セリ
我ガ半島ニ於テモ 此ノ間 軍官民協同一致 内鮮一体鉄桶(テットウ)ノ団結下ニ 戦力ヲ増強シ 戦線ニ在りリテハ 幾多ノ特攻勇士ヲ輩出シ 又多数ノ志願応召ニ依リ 皇軍ノ有力ナル一翼ヲ形成シ 銃後ニ在テハ連年ノ気象不順ニ拘ラズ 食糧ノ増産供出ニ国策ヲ奉行シ 工場 鉱山 将又 運輸 通信ノ各部門 何レモ其ノ使命トスル職能ヲ発揮シテ戦力増強ニ寄与シ 殊ニ家郷遠キ内地其ノ他ノ異域ニ赴キ 軍事産業ニ従事セル多数ノ勤労者アルヲ想フトキ 感慨切ナルモノアルヲ禁ズル能ハズ 蓋シ内鮮間ニ於ケル古来ノ血縁的文化的深縁ニ加フルニ 併合施政以来三十有余年 皇沢(コウタク=天皇ノめぐみ)浴ネクシテ民生化育シ 融合一体 能ク今次聖戦ノ大義ヲ共感把握シ 之ニ殉ズルノ志向熾ナリシニ由ラズンバアラズ
然ルニ 皇国官民 四カ年ニ近キ必死敢闘ニ拘ラズ 竟(ツイ)ニ敵側ヨリ未曾有ノ破壊力ヲ有シ人類ヲ滅亡セシメ文化滅尽スルノ作用ヲ備フル新爆弾ノ使用ヲ見ルニ及ビ 茲ニ 臣民ノ康寧ト世界ノ平和ヲ冀ハセ給フ 聖上陛下ノ大御心ニ依リ 詔書渙発アラセラルルニ至レリ 一億臣民 万斛(バンコク)ノ熱涙ニ咽ビ 異郷ノ万骨 為ニ哭スルモノアラム
開戦依頼 国民ハ戦争完勝ノ一途ニ生活ノ努力ヲ集結シ来リタルガ 今ヤ其ノ目的消失シ 民生之ガ為ニ秩序ヲ弛緩セシメ 国民ノ志気亦沮喪セムコトヲ惧ル 是ニ於テカ 我等臣子 肇国ノ神勅ニ徴シ 神州不滅ノ確信ノ下 子々孫々 万古天皇ヲ仰ギテ将来ノ文化建設ト道義確定ニ依リ 世界ニ示範スベキ精神的理想国家完成ノ一途ニ堂々邁進スルノ決意アルヲ要ス 時局ノ急転ニ際シ 民生ノ苦難因ヨリ想察スルニ余リアリ 疆内(キョウナイ)官民 徒ニ坊間ノ流言ニ怯ヘ 疑心暗鬼 自ラ動揺混乱ニ陥リ 同胞相剋スルガ如キ軽挙ヲ戒メ 親和敬譲(ケイジョウ)社会ノ紐帯ヲ鞏(カタ)クスベシ
殊ニ官吏ハ 冷静沈着事ヲ判ジ 泰山前ニ崩ルルト雖モ動カザルノ真勇ヲ以テ時勢ニ当リ 全知全能ヲ尽シテ 其ノ職任ヲ最後迄 完遂スルヲ要ス
凡ソ非常ノ時機ニ際会シ 毅然トシテ其ノ本分ヲ尽ス者コソ 大丈夫ノ名ヲ辱ズカシメザルニ値シ 此ノ気概アリテコソ克ク不滅ノ国体ヲ護持シ得ルモノト謂フベシ 意思アル所必ラズ道アリ 精神一到何事カ成ラアザラム 一難万勇ヲ生ジ 敢然トシテ之ヲ完破スル所 所謂大死ノ一番 大活現成ノ境地ナルヲ知リ
昭和二十年八月十五日
朝鮮総督 阿 部 信 行
総督は、涙で声をつまらせながら諭告をよみ、全員粛然として悲痛につつまれて式は終った。
その直後には、総督府をはじめおもな官庁で、重要書類の整理焼却がはじまった。もう京城府内には、国民服やモンペをやめて白衣をきた多くの朝鮮人が、町に出てゆうゆうと歩いていた。
この日、政務総監から内務次官あてに「停戦の大詔を拝せるが、朝鮮内の諸般事項につき、中央より何分指示あるものと思料するも念のため」と打電したが、なんの回答もなかった。ラジオ放送では、一般官民の妄動をいましめ、職責の完遂を期すると同時に、日本人・朝鮮人ともに冷静沈着ことに処し、きたるべき新段階に秩序ある準備を心がけるよう強調した。
また、非常事態の警備に任ずるために、警備召集令状が発せられた。「戦争が終って召集とは」といぶかりつつも、応召者は軍隊の門をくぐり、銃をになって深夜に京城府内の警備についた。
なお、その日に李鍝公の陸軍葬が行われた。李鍝公は、李太王の第二子李堈公の次男である。当時三十四歳、陸軍中佐で、広島にあった西部軍管区司令部の高級参謀でああった。八月七日、乗馬で出勤の途中、原子爆弾にあい七日死去、御遺骸は軍用機で京城に運ばれた。その葬儀に天皇の御名代として参列する宮内省式部次長坊城俊良氏は、飛行機で十四日深夜に京城についた。葬儀は十五日午後一時から葬儀委員長井原第十七方面軍参謀長、祭主額賀朝鮮神宮宮司によって京城運動場で行われた。軍司令官・総督・政務総監が参列し、京城神社をはじめ、京城にいる神職がほとんど出て奉仕し、葬儀は厳粛に終了した。