真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「全国一斉休校」要請の独裁的決定とその由来(安倍晋三著をもとに)

2020年03月05日 | 国際・政治

  コロナウィルスの拡大を受けて、安倍首相は小中学校や高校などの「全国一斉休校」を要請しましたが、私はこの決断に安倍首相の独裁的な性格があらわれているように感じます。それは、2月16日に、官邸で第1回新型コロナウイルス感染症対策専門家会議を開いておきながら、「全国一斉休校」という対応については、何等専門家会議に諮らず、自ら決めているからです。大事なのは、コロナウィルス拡大防止にどんな手を打つべきかということであるはずです。それを、専門家会議に諮らず、何の準備も法的根拠もないのに強引に決定しました。日本の首相である自分には何でもできるという驕りを感じます。

 安倍首相は、学校現場や各家庭、さらには学校と関わる様々な組織や団体に、どんな問題が発生するか、また、その苦悩や大変さがどんなものかわかっていなかったのではないかと思います。
 また、あまりに唐突であった上に、一ヶ月以上という長期間の休校要請の根拠もわかりません。専門家からは「あまり意味がない」との苦言が相次いでいるという報道もありました。
 だから、世の注目を集める大事な決定は、自ら下すという独裁性があらわれているのではないかと思います。そしてそれは、安倍晋三著の「新しい国へ 美しい国へ 完成版」(文藝春秋)でも、読み取ることができるのです。

  「第七章 教育の再生」の”学力回復より時間のかかるモラルの回復”と題した文章に、下記のようにあります。
じつをいえば、日本の子どもたちの学力の低下については、わたしはそれほど心配していない。もともと高い学力があった国だし、事実いまでも、小学生が九九をそらんじていえるというのは、世界のトップレベルに近い。したがって、前述したような大胆な教育改革を導入すれば、学力の回復は、比較的短期間にはかれるのではないか。
 問題はモラルの低下のほうである。とりわけ気がかりなのは、若者たちが刹那的なことだ。前述した日本青少年研究所の意識調査(2004年)では、「若いときは将来のことを思い悩むより、そのときを大いに楽しむべきだ」と考えている高校生が、アメリカの39.7パーセントにたいし、50.7パーセントもいた。若者が未来を信じなくなれば、社会は活力を失い、秩序は自ずから崩壊していく。
 教育は学校だけで全うできるものではない。何より大切なのは、家庭である。だからモラルの回復には時間がかかる。ある世代に成果があらわれたとしても、その世代が親になり、つぎの世代が育つころにならなければ、社会のモラルは回復したことにはならないからである。
 かつては家庭と地域社会が子どもたちのモラルを醸成する役割を果たしていた。人と人との助け合いをとおして、道徳を学び、健全な地域社会が構成されてきたのである。
 そこで考えられるのが、若者たちにボランティアを通して、人と人とのつながりの大切さを学んでもらう方法だ。人間は一人では生きていけないのだ、ということを知るうえで、また、自分が他人の役に立てる存在だったということを発見するうえでも、ボランティアは貴重な体験になる。
 たとえば、大学入学の条件として、一定のボランティア活動を義務づける方法が考えられる。大学の入学時期を原則9月にあらため、高校を卒業後、大学の合格決定があったら、それから3ヶ月をその活動にあてるのである。
 ボランティアの義務づけというと、自発的にやるからボランティアなのであって、強制するのは意味がないとか、やる気のない若者がやってきても現場が迷惑する、というような批判がかならず出る。しかし、みんなが助け合いながら共生する社会をつくりあげるためには、たとえ最初は強制であっても、まず若者にそうした機会を与えることに大きな意味があるのではないか。

 ここには、日本でモラルがなぜ低下したのかという分析がありません。モラル低下の原因を学問的に考察すると、かならず政権の政策なども当然問われることになると思います。だから、あえて分析しないのかも知れません。
 そして唐突に、モラルの回復のためにボランティアの義務づけが提示され、”若者たちにボランティアを通して、人と人とのつながりの大切さを学んでもらう…”などというのです。きちんとした分析をせず、効果的な政策が考えられるとは思えません。
 安倍晋三著「新しい国へ 美しい国へ 完成版」(文藝春秋)は、こうした独裁的な考え方で貫かれているように、私は思います。

 その出発点ともいえる考え方が、「第一章 わたしの原点」”千万人といえども吾ゆかん”に示されています。
わたしが政治家を志したのは、ほかでもない、わたしがこうありたいと願う国をつくるためにこの道を選んだのだ。政治家は実現したいと思う政策と実行力がすべてである。確たる信念に裏打ちされているなら、批判はもとより覚悟のうえだ。
 「自ら反(カエリ)みて縮(ナオ)くんば千万人といえども吾ゆかん」──わたしの郷土である長州が生んだ俊才、吉田松陰先生が好んで使った孟子の言葉である。自分なりに熟慮した結果、自分が間違っていないという信念を抱いたら、断固として前進すべし、という意味である。
 これは、安倍首相が、「独裁者」を目指してきたともいえる文章だと思います。

 また関連して「第二章 自立する国家」の”はじめて「国家」に出会った幕末の日本”にも、見過ごすことのできないことがことが書かれています。下記です。
歴史を振り返ってみると、日本という国が大きな変化を遂げるのは、外国からの脅威があったときである。この百五十年ぐらいの間でいえば、1853年ペリーの来航にはじまる開国がそれだ。それまで各藩主がそれぞれの領地を治めていたが、この時代から、ひとつの国家としての国防を考えなければならなくなったのである。
 じつはこのときの独立は非常に危うかった。当時の知識人の危機感の背景にあったのは、、阿片戦争である。1842年の第一次、1860年の第二次阿片戦争の敗戦によって、中国が賠償金支払いを課されたうえに香港を割譲させられていたからである。
 日本もそうなるのではないか、と恐れた人々のなかでも開明的な人々──佐久間象山をはじめ、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬らは、海防の大切さをいちはやく指摘した。
 じっさい、日本が中国のように領土を割譲させられなかったのは運がよかったというしかない。1858年、日本は日米修好通商条約を締結したあと、イギリス、ロシア、オランダ、フランスと同様の条約を結ぶことになるが、これらはひどい内容であった。来日する外国人はすべて治外法権に等しい特権をもつのにたいして、日本には関税自主権もなかった。また各国にたいして最恵国待遇を与えるいっぽうで、日本は最恵国待遇を与えられない、というじつに不平等な条約であった。
 明治の日本人は、この不不平等条約を改正するのに大変な苦労をした。ようやく改正が叶ったのは、1894年(明治27年)に日米通商航海条約を結んだときだったが、それでも、まだ対等とはいえなかった。日本が関税自主権を回復してアメリカと本当に対等になったのは、日露戦争に勝利したあとの1911年(明治44年)のことである。
 明治以後の日本は、西欧列強がアフリカやアジアの植民地分割をはじめているなかにあって、統治するほうに回るのか、統治される方になるのか、という二者択一を迫られていた。自由と民主主義を標榜するアメリカですら、フィリピン、ハワイへの進出をはじめようとしていた。明治の国民は、何んとか独立を守らなければ、列強の植民地になってしまうという危機感を共有していたのである。

 この文章には、歴史の事実の勝手な解釈やごまかしがあると思います。
 150年以上も前に処刑された尊王攘夷急進派の吉田松陰を、平然と「先生」と呼ぶこともさることながら、佐久間象山や勝海舟、坂本龍馬などの幕末の指導者の中に、吉田松陰を含め、”開明的な人々”と主張する歴史認識にも驚きました。
 安倍首相は、吉田松陰を含めることによって、あえて薩長を中心とする尊王攘夷派と幕府の深刻な対立を等閑視し、明治維新や新政府の政治の印象をよくしようとしているのではないかと思います。
 でも、吉田松陰は、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことに激怒し、老中間部詮勝殺害を画策したたため、自らの長州藩からも危険視されて野山獄に幽囚された人です。幽囚中にも「伏見要駕策」を練って、松下村塾の門下生に指示を出すほどの超過激派です。一貫して権力奪取のための武力討幕を主張し、公武合体論や開国論を潰すことに注力した人物だと思います。

 佐久間象山や勝海舟、坂本龍馬は、吉田松陰の主張するような武力討幕者ではないと思います。特に佐久間象山は、時の将軍徳川慶喜に公武合体論や開国論を説いたことで知られています。そのため、吉田松陰と考えを同じくする尊王攘夷急進派で、幕末の四大人斬りの一人とされる河上彦斎(カワカミゲンサイ)に暗殺されているのです。
 また、勝海舟はもともと幕府の役人であり、基本的に幕府側の人だと思います。勝海舟と交流のあった坂本龍馬は「船中八策」で知られていますが、その中には、”天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還)”と同時に”有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革)”ともあります。討幕ではなく、大政奉還によって新しい日本をつくろうとしたのだと思います。
 だから、吉田松陰を”開明的な人”として、佐久間象山や勝海舟、坂本龍馬などとならべることはできないと思います。それは歴史の修正だと思います。

 また、 
じつはこのときの独立は非常に危うかった。当時の知識人の危機感の背景にあったのは、、阿片戦争である。1842年の第一次、1860年の第二次阿片戦争の敗戦によって、中国が賠償金支払いを課されたうえに香港を割譲させられていたからである。
 日本もそうなるのではないか、と恐れた人々のなかでも開明的な人々──佐久間象山をはじめ、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬らは、海防の大切さをいちはやく指摘した。
 というのは、吉田松陰や尊王攘夷急進派に関しては、あり得ないことだと思います。なぜなら、吉田松陰に限らず、当時の尊皇攘夷急進派に、もしそういう危機感があったのなら、海防の充実に専念すべきで、討幕に血道を上げ、戊辰戦争のような国内戦争をやっているときではないからです。日本の独立が、一層危ういものになることは明らかなのに、なぜ日本を二分するような戊辰戦争などやったのか、説明ができません。それも、攘夷を迫っての討幕の戦争です。外国との通商に反対し、外国を撃退して鎖国を通そうという排外的思想集団、尊王攘夷急進派の指導者、吉田松陰のどこが開明的なのでしょうか。

 さらに、
統治するほうに回るのか、統治される方になるのか、という二者択一を迫られていた。自由と民主主義を標榜するアメリカですら、フィリピン、ハワイへの進出をはじめようとしていた。明治の国民は、何んとか独立を守らなければ、列強の植民地になってしまうという危機感を共有していたのである。
 というのも間違っていると思います。安倍首相のいう”何んとか独立を守らなければ、列強の植民地になってしまうという危機感”に関して、尊王攘夷急進派の誰かの証言や文書資料があるのでしょうか。
 江戸時代、オランダは長くヨーロッパ唯一の貿易国でしたが、オランダ船が入港するたびに様々な海外情報を得ていた幕府の役人に、そういう危機感があったということは分かります。でも、武力討幕によって新政府を樹立した尊王攘夷急進派の人たちに、そういう危機感があったとは思えません。

 以前「吉田松陰の『幽囚録』と侵略戦争」で取り上げましたが、吉田松陰の『幽囚録』には、逆に明らかに他国に対する武力侵略を意図する下記のような記述があるのです。
日升(ノボ)らざれば則ち昃(カタム)き、月盈(ミ)たざれば則ち虧(カ)け、国隆(サカ)んならざれば則ち替(オトロ)ふ。故に善く国を保つものは徒(タダ)に其の有る所を失ふことなきのみならず、又其の無き所を増すことあり。今急に武備を修め、艦略ぼ具はり礮(ホウ)略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(スキ)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(チョウキン)会同すること内諸侯と比(ヒト)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(イ)れ貢を奉ること古の盛時の如くなら占め、北は満州の地を割(サ)き、南は台湾・呂栄(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、愼みて邊圉(ヘンギョ)を守らば、則ち善く国を保つと謂ふべし。然らずして群夷争聚の中に坐し、能く足を挙げ手を揺(ウゴカ)すことなく、而も国の替へざるもの、其れ幾(イクバ)くなるか。…”
 吉田松陰の松下村塾に学んだ伊藤博文、山縣有朋その他の尊王攘夷急進派の人たちが、明治新政府の要職につくと間もなく、台湾出兵江華島事件があり、その後、日清戦争が始まりますが、それは” 何んとか独立を守らなければ…”というような考えに基づくものではなく、吉田松陰の考え方に沿った、日本の領土拡張の考え方であったと思います。明治維新以来、日本は吉田松陰の考え方に基づく領土拡張政策を進める国、言い換えれば侵略国になったのだと思います。

 その吉田松陰を「先生」として尊敬する安倍首相は、松下村塾の流れをくむ尊王攘夷急進派の政治家ではないかと思います。だから、尊王攘夷を掲げ、幕府の要人を暗殺したり、「異人は神州を汚す」といって、異人斬りをくり返しておきながら、幕府を倒し権力を手にするとすぐ開国に転じたり、孝明天皇がどうしても受け入れなかった討幕をやっておきながら、明治天皇を抱き込み、自分たちの思い通りにできる天皇制絶対主義の国の「皇国日本」をつくるという狡賢さを引き継いでいるように思います。
 もちろん、明治新政府の政治家の中には、理想的な皇国日本を思い描き、真面目に皇国臣民たろうとした人もいたのでしょうが、政権中枢の人たちにとっては、天皇は統治の手段として存在したように思います。
 天皇絶対主義は表向きで、実は天皇を政治利用して一般国民を抑圧し、自らの権力を維持・強化すること、そして日本を自らの思い通りにしようということであったように思います。
 そう考えざるを得ないのは、明治新政府のもとで、山県有朋の山城屋和助事件三谷三九郎事件公金流用問題があり、井上馨に尾去沢鉱山事件藤田組贋札事件相つぐ変死事件があり、総理大臣にもなった黒田清隆には、北海道開拓使庁事件妻殺害疑惑があり、元長州藩士で京都府庁の参事であった槇村正直の小野組転籍事件などが次々に起こっているからです。
 そして、明治新政府がつくり上げた「皇国日本」は、日本の敗戦まで変わることがなかったからです。私は、日本の第二次世界大戦における敗戦は、明治新政府によって準備されたと思っています。

 だから、吉田松陰を「先生」として尊敬し、何かと明治新政府の政治を美化して、日本国憲法が公布されたことを記念する祝日「文化の日」を「明治の日」に変えようとする安倍首相を律するのは、法や道義・道徳ではなく、力は正義であるという考え方だと思います。汚職や選挙違反にかかわる疑惑が指摘されても、平然と言い逃れ、法を無視して事実を隠蔽する姿勢や、摘発された閣僚や国会議員も、自らの仲間であればかばうという姿勢に、それがあらわれているのではないかと思います。


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