以前、日韓外相会談で慰安婦問題の解決に合意した時、安倍晋三首相は、官邸で記者団に下記のようなことを語ったといいます。
”先ほど朴槿恵大統領と電話で会談を行い、合意を確認致しました。今年は戦後70年の年にあたります。8月の首相談話で申し上げてきた通り、われわれは歴代の内閣が表明してきた通り、反省とお詫びの気持ちを表明してきた。その思いに今後も揺るぎありません。
その上で、私たちの子や孫、その先の世代の子供たちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない。今回、その決意を実行に移すための合意でした。この問題を次の世代に決して引き継がせてはならない。最終的、不可逆的な解決を70年目の節目にすることができた。今を生きる世代の責任を果たすことができたと考えています。”
私は、元日本軍「慰安婦」の方々に直接向き合うことなく、”最終的、不可逆的な解決”などという言葉を使ったこの日韓合意そのものに多くの疑問を感じているのですが、今回、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止となったことにかかわって、大阪府の吉村知事が、定例記者会見で、この国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の実行委員会会長を務める愛知県の大村知事について「辞職相当だと思う」などと述べた、ということにほんとうに驚きました。
吉村知事は会見で、少女像などの展示について「反日プロパガンダ」だと指摘し、「愛知県がこの表現行為をしているととられても仕方ない」と述べ、公共イベントでの展示は問題だとの認識を示したというのです。私は、「辞職相当」は吉村知事のほうではないかと思います。
また、日本維新の会代表の松井一郎・大阪市長も、展示された少女像を「表現の自由とはいえ、事実とあまりに懸け離れている単なる誹謗(ひぼう)中傷的な作品」と批判し、「強制連行された慰安婦はいません。あの像は強制連行され、拉致監禁されて性奴隷として扱われた慰安婦を象徴するもので、それは全くのデマだと思っている」と、持論を展開したことが伝えられています。韓国のみならず、中国(台湾)、フィリピン、インドネシアなどに多くの「性奴隷」と判断される証言があるにもかかわらず、”全くのデマ”という根拠は何でしょうか。
さらに、名古屋市の河村市長も、少女像の展示について「どう考えても日本人の心を踏みにじるものだ。即刻中止していただきたい」と要請したことが伝えられています。そればかりでなく、河村市長は、企画展に対するインターネットを利用した批判や、主催者側への抗議の電話が相次いだことについて「それこそ表現の自由じゃないですか。自分の思ったことを堂々と言えばいい」と企画展そのものに対する圧力を、表現の自由の問題として論じていることに、驚きました。
こうした知事や市長の日本軍「慰安婦」に対する認識が、国際社会で受け入れらるものでないことは、あらためて言うまでもないことだと思います。
歴史の事実を直視し、日本軍「慰安婦」の問題が、国際法違反の戦争犯罪であったことを認めて、公式謝罪と法的賠償をしないかぎり、日本の”恥”は、いつまでも、過去のものにならず、”私たちの子や孫、その先の世代の子供たち”が、恥ずかしい争いを続けることになるのだと思います。厖大な軍の資料を焼却処分したり、非公開扱いにしたりしながら、元日本軍「慰安婦」の証言を無視し、力ずくで日本軍「慰安婦」の問題をなかったことにするような姿勢は、国際社会では決して受け入れられないことを知るべきだと思います。
日本軍「慰安婦」の問題の歴史的事実を客観的に理解する一助になると思い、「元兵士たちの証言 従軍慰安婦」西野留美子(明石書店)から、「ある告白」の一部と、「十七年間の果てに」の全文を抜粋しておくことにしました。
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1 証言からたどる従軍慰安婦
ある告白
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── 私の、いわば恥部に当たるこの話は、本当はしたくありませんし、したこともありません。けれども、慰安婦であった朝鮮人女性が、ありのままの事実を言えば個人の恥となり、民族の恥とばかりに故郷から締めだされる現実の重さに比べれば、私の告白などちっぽけなものです。──
田中博さんは、そうつぶやいた。
── 1943年3月、私は応召され、五月初め頃から南京城門警備に当たりました。鵄第三〇六五部隊です。
南京城門警備に平穏な日々が続いて、休日に外出が許可されるようになりました。外出は必ず二名以上が一組になり、単独行動は一切許されません。大部分の兵隊が、二人一組で市内にある慰安所に行きました。私が行った慰安所は、中国風の石積みの建物でした。そこには、中国人の慰安婦がいました。
部隊では、相当数の兵隊が、南京周辺の「掃討作戦」にでかけていきましたが、そのとき手にした貴重品や法幣(紙幣)を「徴発」して持ち帰り、これを慰安婦に与えて、モテようとしたこともありました。
1937年から1943年のあいだに、私は満鉄ハルピン鉄道局に勤めた時期があります。私はハルピンの”朝鮮ピー”の女とも、”エミグラント(白系ロシア人)”の女とも金を支払って関係しました。また、旅行先の奉天で”朝鮮ピー”を買ったこともあります。
当時、独身者であった私には、それは、セックスを処理するためのごく普通のことでした。それは、公認、黙認の制度でした。ですから、それが女性にとって苦界であり、屈辱であり、金銭による暴力であることや体制の覇権主義によって仕かけられた罠であったことなど、当時は理解することはできませんでした。
奉天の慰安所に行ったときのことです。「つとめ」を果たした”朝鮮ピー”が、終わってすぐに腹痛を訴え、苦しみだしたことがありました。私は驚いて女の腹をさすり、胸をさすり、なんとか治るように、身振り手ぶりで話しかけました。女は、たどたどしい日本語で喜びました。”朝鮮ピー”になって間もなかったのではないかと思います。私の心配が伝わったのか、帰るとき玄関まで送ってくれました。
いくたびかの経験のなかで、このことが、今も心に残っております。──
「なぜ今さら、慰安婦のことばかりとりたてて問題にするのですか。私たち日本軍の兵士だって一銭五厘の強制連行ですよ。行きたくて行ったわけじゃない。殺したくて人殺しをしたわけじゃない。我々の仲間は大勢死んでいる。人権もへったくれもない軍隊生活のなかで、お国のためにと奪われたのが、人間であることだったのですよ。慰安所は、そうした荒んだ兵士に残された唯一の人間であることを回復する場だった。私は、彼女たちに感謝しています」
ある老境に入った元兵士は、顔を強ばらせて言った。「感謝している」ことで、従軍慰安婦を正当化しようとする彼は、あくまでも兵士の立場から「慰安婦」を見ていた。彼の話から、かれが接した女性たちの、人間として女性としての誇りを、そして彼女たちの祖国の尊厳を、少なくとも自分も奪った一員であったという意識は見えなかった。
もちろん、こうした声だけが聞こえてくるわけではない。戦争犯罪の一つとして従軍慰安婦問題をとらえる元兵士もいる。
・・・
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十七年間の果てに
「日本軍兵士で、従軍慰安婦を知らぬ者はいませんよ」
いくたびこのことばを耳にしたであろうか。戦後半世紀近くもたとうとしているのに、従軍慰安婦については、すっぽり抜け落ちたまま長い歳月が流れた。
結果的に隠ぺいを助けたといえる”語ることを阻んだもの”は何か。
「いやあ、とても妻や娘には話せませんでしたよ」
それが性をはらむ問題であったことも、元兵士たちの口を固くした。慰安所に通う自分の姿を思い出すことは、戦争の記憶のなかのさまざまな非人間的行為を呼び覚ますことでもあった。戦争におけるかずかずの非人間的行為は、敗戦から今日にいたるまでのあいだ、内なる部分で「個」を苛んできた。
「戦争だもの、しかたないさね」
そう口にしつつも自分を苛むものは何か……。自問自答が繰り返された。「女たちだって、金がほしかったんだから」と、元従軍慰安婦に対する補償に難色を示す元兵士もいる。その一方、「日本軍の一員であった自分自身の戦争犯罪である」と自責の念にかられる元兵士もいる。
「従軍慰安婦」の実態は、元兵士の内なる部分におし隠してきた記憶のなかにこそ鮮明に残されているのではないか。
「従軍慰安婦をみるには、戦場の兵士の追い詰められていた姿をみないとわからないんじゃないでしょうかねえ……」
軍隊に入隊してから日本に帰るまでに、十七年間という歳月を費やした小島隆男さんはつぶやいた。
── 私が軍隊に入隊したのは、1939年(昭和十四年)の暮のことです。六年近くを中国の山東省で過ごしましたが、敗戦になってもなお私に「終戦」はきませんでした。五年間という歳月をソ連軍の捕虜として極寒の地シベリアで過ごし、「ダモイ(帰国)」と言われ、喜んだのも束の間、着いたところは、中国の撫順戦犯管理所でした。そこでさらに六年間を過ごすことになったわけです。
十七年ぶりに帰国した私は、まさに浦島太郎でした。二十二歳で入隊し、日本に帰ったときには四十歳を目の前にしていたのですから。
中国の戦犯管理所の生活の最後の年、1956年のことです。千人を超える我々は三つのグループに分かれ、一ヶ月をかけて中国国内をまわったことがありました。工場や病院、農村などを見てまわったなかに、女性の更生施設がありました。「婦人生産教養所」というのでしょうか、戦時下、慰安婦をしていた女性たちを社会復帰させるための施設でした。
一人、まっ青な顔をした女性がベッドにいましてね。そのそばに子どもがいるんです。事情を聞きましたら、彼女は梅毒で、五年間も治療しているのにまだ治らないということでした。そこにいるのは、帰りたくても帰る家がない、帰る故郷すら分からない、家族も身寄りもない……そんな女性ばかりでした。
その指導所で、病気を治したり、社会に出ていかれるように手に職をつけたりするわけですが、女性たちの姿を見た私は、胸が潰れそうになりました。戦争中、彼女たちを含むどれほど多くの女性たちが、日本軍兵士の性のはけ口になってきたことか。日本軍が作った慰安所は、戦中はその性を蹂躙し、戦後になっては女性たちの生を蝕んでいたのですから。
そのとき私は、戦犯管理所で目にした一枚の写真を思い出していました。一人の中国人女性が、腕を振りあげて訴えているのです。町を歩いていたときに日本軍に拉致され、逃げないように腕に焼き印を押され、慰安所に投げこまれたと……。
私は、中国の戦犯管理所の六年間で、自分が戦争中に犯したすべての罪を告白しました。帰国してからも話す努力を重ねてきましたが、とても言いつくせないかずかずの罪行のなかで、二つだけ、私には二度と口に出せなかったことがあります。その一つが、慰安婦のことでした。
あれは、強姦に変わりない……。
兵隊たちが列を作って待っているんですよ。ズボンを脱いで、自分の番を待っているんですよ……。
田舎のほうの駐屯部隊近くの慰安所には、三、四人しか慰安婦がいない。休みの日には、兵隊は列を作り、ずらりと並んでいる。部屋のなかには三人の兵隊がいて、一人はズボンを履こうとしている。一人は女と寝ている。一人は、ズボンを下げて自分の番を待っている……そんなだったのですよ。
あの頃、女性たちはすっかり「慰安婦」になりきってしまったように見えました。
「金儲けのためにやっているのさ」という兵隊もいました。
しかし、その大本には、日本軍の侵略があったわけです。家は焼かれ、家畜や食料は盗られ、働き手は日本の炭鉱やダム工事に強制連行され、あるいは殺され、住む家も家族も失い ── そして食べるために慰安婦になった女性がいたとして、どうしておまえの意思だったろうと言えましょうか。
私がいた近くの慰安所は中国人慰安婦がほとんどでしたから、中国に対してすまなく思ってきましたが、その思いは、朝鮮人に対しても、南方の現地で慰安婦にされたかたに対しても同じです。
日本に帰ってから遅い結婚をし、自分の子どもを育てるなかで、自分たちが犯した罪の大きさを知ることがたびたびありました。
こんなことがありました。
昭和17年(1942)四月、「冀南作戦」では、私も機関銃小隊長として参加しました。
「敵は日本軍が行動を起こしたと知るや、二時間後には農民服に着替えるが故に、敵か農民かの判別はでき難い。それ故、部隊は作戦地に入るや、男子はことごとく殺害せよ」
司令官の命令でした。兵隊たちは、農民を見ると突き殺し、やがて戦闘が始まり、日本軍にも多くの死傷者が出ました。兵隊たちはその腹いせに、近くのを掃蕩し、女子どももかまわず皆殺しにしました。黄河の堤防上の一軒家には五人の家族がいましたが、私に命じられた兵隊は彼らを並べて
射殺しました。
翌朝その小屋を覗くと、死体のなかに六歳ぐらいの男の子が大きな目を見開いて私を睨みつけていました。
……あのときの子どもの目が、安らかに眠るわが子に重なり、苦しい思いをしたこともありました。 慰安婦の問題は、血をみるわけじゃないから浮上にしくかった……性にかかわる問題だから、語り難かった……しかし、それですますことはできない。女性たちから婦人の資格を奪いとってっしまった罪は今も続いているのですから、本当に非人道的なことをしたものです。
平和な家庭を築いたればこそ、私は私の罪行を話すことを通して戦争の本質を伝えなくてはと思っています。もう二度と繰り返したくない。
もう私も余命いくばくもなくこの世からいなくなる……。
一人でも多くのかたに話しておきたいと思います。私の贖罪の気持ちからです。──
小島さんと会った日、前日に振った雪のせいか、刺すような冷たい風が吹いていた。
コーヒー一杯で、時間のたつのも忘れ、話し続けた年末のロビーは、人の出入りが慌ただしい。話終わらぬまま別れてからも、まだ、小島さんの目の色が瞼に残っていた。まだ夕方だというのにすっかり暗くなった駅のホームにたたずむと、せわしげにいきかう人びとのなかで、妙に年配のかたに目がとまる。、
「二度と口にできないことが二つありましてね…… 」
小島さんはそうつぶやいた。ニつというのは、慰安婦のことと、もう一つ、彼が命令した衛河の堤防決壊事件のことである。山東省西北端の臨清に機関銃中隊長として駐屯していたときのことであった。約60メートルほどの河幅の衛河には、雨季のため、五メートルの高さの堤防すれすれに濁流が流れていた。解放区覆滅作戦のためその堤防を決壊させたのである。管理所時代に、初めてその土地の人びとがどれだけ苦しい目にあったかを知った。
「中国の人びとに与えた苦しみは、すっかり私の苦しみになってしまいましてね……」
一昨年、NHKの終戦特集の企画のなかで、小島さんらは、「再生の地」と呼んでいる撫順と章邱、臨清へ旅した。長年胸につかえてきた堤防決壊の罪の意識は、旅立つ前の数日、彼を眠らせなかった。
「日本軍は、私たちの村にきては、小麦を奪い、綿花を奪い、鶏を奪い、家の板まで奪い……村人を拷問し、殺し、それはひどいことをしました。けれども、もう過ぎ去ったことです。これからは、仲よくやりましょう」
七十歳の村長は、そう言って頭を垂れる小島さんの手を握りしめた。
「私は、すべてお話ししますよ。それが、真の日本とアジア諸国の友好を築く道に通じるものだと思いますからね」
小島さんの動かない目は、遠くを見つめていた。過去から未来、十七年のはての固い不戦と平和への決意のように、私の目に彼の姿は印象深くうつった。
ここに紹介する座談会は、そんなおりに開かれた。