真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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吉田松陰 の「幽囚録」と侵略戦争

2018年11月21日 | 国際・政治

 日本がなぜ、あんな馬鹿げた戦争に突き進んで行くことになったのかを考え続けているのですが、二人の人物の思想が、大きな影響を与えたであろうことを見逃すことができません。

 先ず、江戸時代後期の思想家、佐藤信淵です。戦時中、大東亜攻略を述べた人物として大いに称揚され、軍人を中心に多くの人が、彼の著書『宇内混同秘策』(ダイコンドウヒサク)を読んだといいます。それは昭和17年の「宇内混同秘策・劍懲 皇国精神講座第三輯」小林一郎講述(平凡社)で、読むことができますが、そこには、「皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし」とありました。
 また、
凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし。
とか、
支那既に版図に入るの上は、その他西域、暹羅(シャム)、印度亜(インデイア)の国、佚漓鴃舌(シュリゲキゼツ)、衣冠詭異(イカンキイ)の徒、漸々に徳を慕ひ威を畏れ、稽顙匍匐(ケイソウホフク)して臣僕に隷(レイ)せざることを得ん哉。故に皇国より世界万国を混同することは難事に非ざるなり。
とか、
大泊府の兵は琉球よりして台湾を取り、直に浙江の地方に至り、台州(タイシュウ)寧波等の諸州を経略すべし。
という記述もありました。大政奉還の40年以上も前に、来たるべき統一国家としての日本の姿を想定し、日本の領土的拡張を志向する考え方をしていたのです。そして、戦時中に、彼の著書『宇内混同秘策』が多くの人に読まれていたということは、注目すべきことだと思います。

 そして、佐藤信淵以上に日本の戦争に大きな影響を与えたと思われるのが、明治維新の精神的指導者とされている、思想家 吉田 松陰(長州藩士)です。
 彼の松下村塾には、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、前原一誠、松本鼎、岡部富太郎、正木退蔵、入江九一、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、河北義次郎、飯田俊徳、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎、時山直八、駒井政五郎、中村精男、玉木彦助、飯田正伯、杉山松助、久保清太郎、生田良佐、宍戸璣(山県半蔵)その他多くの優秀な若者が集ったといいます。塾生ではなかったようですが、桂小五郎(後の木戸孝允)や井上馨も行動を共にしており、皆その思想を共有していたのだろうと思います 

 戦前・戦中、東大における講義はもちろん、学内の組織「朱光会」や、学外の組織「青々塾」および、海軍大学校や陸軍士官学校などで講義・講演を繰り返し、昭和天皇や秩父宮などに「進講」もして、「皇国史観の教祖」といわれるような活躍をした歴史家・平泉澄は、「先哲を仰ぐ」(錦正社)という本の中で、先哲として、山鹿素行、山崎闇齋、藤田東湖、橋本景岳、佐久良東雄、大橋訥菴、眞木和泉守などとともに、吉田松陰の名前を上げ、”今あげました数多くの諸先生の中に於て、吉田松陰はひときわ秀れたお方であります”と書いていました。

 その吉田松陰に「幽囚録」があります。昭和十五年一月に発行された「吉田松陰全集第一巻(岩波書店)に入っているのですが、彼の領土的拡張を志向する思想が、戦前・戦中に高く評価されていたことは、山口県教育会の「刊行の辞」(下記、資料1)で明らかだと思います。
 領土的拡張を志向する吉田松陰は、「幽囚録」の「自序」に”皇国は四方に君臨し、天日の嗣の永く天壌と極りなきもの…”などと書いており、佐藤信淵同様、神道に立脚した考え方をしていることを見逃すことができません。外国と対等の関係を追求しようとはしていないのです。特に、領土的拡張について
”蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(スキ)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(チョウキン)会同すること内諸侯と比(ヒト)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(イ)れ貢を奉ること古の盛時の如くなら占め、北は満州の地を割(サ)き、南は台湾・呂栄(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし
などと記述している部分を中心に、その一部抜粋したのが下記、資料2です。
 
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                          吉田松陰全集第一巻

   刊行の辞

 吉田松陰先生は時代を超えていつまでも皇国臣民の行くべき道を指示する英霊的存在である。其の精神気魄は継ぎて起る後輩の血脈に鼓動して永劫に死せず、其の思想信条は繹(タズ)ぬる者の胸奥に息吹して万世に滅びない。当時維新回天の偉業を翼賛し奉つた防長の才俊が、其の膝下に学んで躍々たる生命力を育まれた如く、今日新しき世界史の展開を完遂すべき一億臣民は、その精神に参入して逞しき雄魂を涵養しなければならぬ。此の意味に於て、先生の遺著はまさに国民の書、特に青年の書たるべきものである。曩(サキ)に本会が吉田松陰全集を公刊するや、十巻六千余頁の厖大且つ相当難解の書籍たるにも拘らず、絶大なる讃辞と歓迎を蒙り、忽ちにして肆上(シジョウ)に其の影を没するに至つたことは、以て先生の偉大さと江湖(コウコ)鑽仰(サンギョウ)の熾烈さとを証するものと謂うべく、刊行の事に当つた本会としても誠に欣快に堪へざる所である。

 然るに前の全集は其の大部分が漢文であり、文中又漢土の典拠故事を引用せる語句多きが爲めに、一般人士としては訓読の困難を歎ずることが少なくない。かくしては折角の金玉の大文字も、一部の学者有識者に独占せられて、其の内に含蓄包擁する燦然たる光鋩を遍く後世に発揚するに由なく、旧全集の荷える真価と意義とは自ら別として、亦聊(イササ)か憾(ウラ)みなきを得ざる次第である。

 本会は茲に鑑みる所あり、定本としての旧全集と並行して、別に普及版全集の発刊を企図し、前の全集編集委員廣瀨・玖村両先生に重ねて之が編集を委嘱し、更に西川先生の協力を請うて、共に其の快諾を得たのである。乃ち本全集に於ては、漢文は凡て国文に書流し、和文も読み易きに従つて送り仮名、句読点等を加へ、必要の箇所には簡明なる註解を施す等、訓読の平易化を図り、以て内容形式共に国民の書としての普及版吉田松陰全集全十二巻の完成をみるに至つた。其の出版発売に関する一切の事務は前回と同じく岩波書店の奉仕的尽力によるものである。

 斯して松陰先生は其の死せず滅びざる永遠の思想精神を我が国民の前に遍く露呈したのである。時恰も皇紀二千六百年、肇国(チョウコク)の大理想を高く掲げて、我が国は今曠古(コウコ)の時艱(ジカン)と戦ひつつある。本全集の完成が図らずも此の意義深き時期に際会したことは、果して単なる偶然であろうか、抑々(ソモソモ)先生在天の威霊の然らしむる所か、我等ひとしほの感激を禁じ得ざる所以である。

          昭和十五年一月
                                                       山口県教育会 
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                           幽囚録
   自序

国朝の変、蓋し三あり。古昔は臣たらざる所あれば、海の内外を問はず、東征西伐し、必ず強梗(キョウコウ)を鋤きて止む、其の勢い極めて盛んなり。其の後蕃夷悍然来り侵す、而して我れ兵を発して殲鏖(センオウ)す、古に非ずと雖も亦盛んなり。今は則ち膝を屈し首を低(タ)れ、夷の為す所に任す。国の衰へたる、古より未だ曾て有らざるなり。之れを太陽に譬へんに、始めは赫々耀々(カクカクヨウヨウ)として物能く之れに抗することなし。已にして月之れに抗して克(カ)たず、適々(タマタマ)自ら蝕缺(ショクゲツ)を取るのみ。終りや遂に月の蝕する所となり、自ら照らすこと能はず。是れ至変なり。嗚呼、世愈々降り、国愈々衰ふ。衰にして已まずんば、滅びずして何をか待たん。蓋し一治一乱は政の免かれざる所、一盛一衰は国の必ずある所にして、衰極まりて復盛んに、乱極まりて又治まるは則ち物の常なり。況や皇国は四方に君臨し、天日の嗣の永く天壌と極りなきもの、安(イヅク)んぞ一たび衰えて復た盛んならざることあらんや。近年来、露西亜(ロシア)・米利堅(メリケン)、駸々として来り逼る、而(シカ)も官吏苟且(コウショ)にして権宜(ケンギ)もて処分す。是れ豈に永世変ずることなからんや。皇天、吾が邦を眷祐(ケンイウ)す、必ず将に英主哲辟(テツペキ)を生じ、一変して古の盛に復するものあらん。是の時に方(アタ)りて、万国の情態形勢を察観し、之れが規畫経緯を為すに、圖を按じ筆を弄して空論高議する者、固より此(ココ)に與(トモ)することを得ざるなり。吾れ微賤なりと雖も、亦皇国の民なり。深く理勢の然る所以を知る、義として身家を顧惜(コセキ)し、黙然坐視して皇恩に報ぜんことを思はざるに忍びざるなり。然らば則ち吾れの海に航せしこと、豈に已むを得んや。今、事蹶(ツマヅ)き計敗れ、退きて圖を按じ筆を弄して空論高議する者と流れを同じうす、何の羞恥かこれに尚へん。昔吾れ史を読みて、敏達帝日羅を召還したまふに至る、欣躍して謂(オモ)へらく、国復た盛んならんと。其の賊に害せらるるに及んで、覚えず慟哭す。後の此の文を読む者、安んぞ其の欣躍慟哭、吾れの日羅に於けるが如きことなきを知らんや。
       甲寅冬                                           二十一回猛士藤寅撰

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                             幽囚録

外冦の患は古より之れあり。而れども代々能将あり、機に応じて掃蕩し、大害を為すに至らざりき。近時に至り、西洋の諸夷更々(コモゴモ)来り、通信通市を求む、亦未だ大害を為す能わざりき。嘉永癸丑六月、合衆国の船四隻浦賀に来り、国書を幕府に呈し切に要求する所あり、大要亦通信通市の二事に在り。故事、長崎を除くの外、夷船来泊を許さず。浦賀奉行諭すに国法を以てせしに、夷の曰く、「我れ吾が国の命を奉ずるを知るのみ、何ぞ日本の国法を知らんや」と、倨傲(キョゴウ)益々甚し。執政、過激変を生ぜんことを慮り、奉行に命じて仮に其の書を受けしむ。夷、報を求むること甚だ迫る。遂に明年更に来らんことを約し、慰喩して去らしむ。

是れより先き三十五年、合衆国の夷人脚船に乗りて蝦夷に来り、陸地を徘徊す。松前侯之れを長崎に檻送(カンソウ)す。是くの如きもの凡そ二たびなり。浦賀に来り、長崎に来り、漂民を送還し、薪水を丐求(カツキウ)すること又數々(シバシバ)なり。其の我れを間諜すること、蓋し一日に非ず。去年に及び、蘭夷、合衆国来航の事を報ず。官深く之れを秘し、敢へて中外に宣視せず。是(ココ)に至りて事倉卒(ソウソツ)に出で、衆情甚だ騒がし。

 是の時、先将軍薨じ、新将軍初めて立ち、水戸老公を起して防寇の議に参与せしむ。而るに小人比周し公議行はれず、公蓮(シキ)りに罷めんことを謂ふ。幕府大いに武備を修め、先づ大船を禁を除き、蘭夷に命じて軍艦・火輪舶を致さしめ、浦賀与力中島三郎助に命じて洋書に依りて軍艦を打造らしめ、砲台を品海に築き、巨砲を桜埓に鑄、韮山代官江川太郎左衛門を擢用(テキヨウ)し、高島四郎太夫の禁錮を免じ、土佐の漂民万次郎を召し、皆之れを江川に属さしめ、特に夷書を列侯群吏に下して以て復答する所を議す。時に天下久しく治安に慣れ、朝野にソ苟且論多く、群議或は戦を言ひ、或は和を言ふも、而も身を抜きんでて責に任ずる者なし。某侯奮然復書を持ちて夷国に到らんことを謂ふ、報いられず、論者、諸葛亮の後出師表を引きて時事を痛惜すと云ふ。

 是の歳、魯西亜も亦長崎に来りて国書を呈し、北地の境界を議せんことを謂ふ。官吏西下して夷将と商議す、而れども委任専らならず、能く其の議を決することなし。夷、再来を約して去る。明年正月、合衆国の船九隻浦賀の海関に蘭入(ランニフ)し、直ちに横浜に来りて前報を求む。而るに軍艦・砲台一として成れるものなし。幕府専ら変を生ぜんことを懼れ、寛縦もて夷を待す、夷 肆(ホシイママ)に不法の事を為せども、官兵少しも禁訶(キンカ)せず。人皆切歯す。応接廠を横浜に起こす、構造甚だ粗なり。官吏便服して饗待す。論者或は謂へらく、夷人を待つには当(マサ)に示すに荘重を以てし、或は之れを上野に引き、或は之れを大城に引き、兵を厳にして之れに備へ、宗室・大臣法服して出でて接すれば、則ち夷も亦畏憚して怠慢玩弄の態あること能はざらん、是れ夷人を重んずるに非ず、乃ち国体を重んずるなりと。三月の半ばに及んで、夷船横浜を去り下田に至る、市街山野、徘徊遍からざるなし。六月に至りて去る。事甚だ隠密にして、世其の故を識(シ)るものなし。或は謂へらく、通信通市一に夷の求むる所の如くし定むるに下田を以て互市場と為し、夷人に縦(ユル)して館を置くの所を相度(ハカ)らしめしなりと。

・・・

 日升(ノボ)らざれば則ち昃(カタム)き、月盈(ミ)たざれば則ち虧(カ)け、国隆(サカ)んならざれば則ち替(オトロ)ふ。故に善く国を保つものは徒(タダ)に其の有る所を失ふことなきのみならず、又其の無き所を増すことあり。今急に武備を修め、艦略ぼ具はり礮(ホウ)略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(スキ)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(チョウキン)会同すること内諸侯と比(ヒト)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(イ)れ貢を奉ること古の盛時の如くなら占め、北は満州の地を割(サ)き、南は台湾呂栄(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、愼みて邊圉(ヘンギョ)を守らば、則ち善く国を保つと謂ふべし。然らずして群夷争聚の中に坐し、能く足を挙げ手を揺(ウゴカ)すことなく、而も国の替へざるもの、其れ幾(イクバ)くなるか。

 孫武兵を論ずる、専ら彼を知り己を知るを以て要と為す。之れを始むるに計を以てして曰く、「主孰れか道ある。将孰れか能ある。天地孰れか得たる。法令孰れか行はるる。兵衆孰れか強き。士卒孰れか練れたる。賞罰孰れか明らかなる」。之れを終ふるに間を以てして曰く、「明君賢将動いて人に勝ち、功を成して衆に出づる所以のものは、先づ知ればなり。先づ知るとは、鬼神に取るべからず、事に象るべからず、度に験すべからず。必ず人に取りて敵の情を知るものなり」と。近年来諸夷の船競ひて我が邦に至る。而して其の主果して道あるか、将果して能あるか、天理果して得たるか、法令果たして行はるるか、兵衆果たして強きか、士卒果して練れたるか。賞罰果たして行はるるか、抑々皆非なるか。先づ知るものあることなし。是れ徒に彼れを知らざるのみならず、亦己れを知らざるの甚しきものなり。癸丑の歳、合衆国は彼理(ペリ^-)を遣はし、露西亜は博婼丁(プチャーチン)を遣はして我が邦に至らしむ。時に江都の人或は曰く、「近世海外に三傑あり、而して彼理・博婼丁其の二に居り」と。嗚呼、海外の事、茫然として弁えることなく、適々来り間する者あれば錯愕畏縮し、皆傑物なりと謂ふ。慨くべきかな。悲しむべきかな。

 軍の間を用ふるは、猶ほ人の耳目あるがごとし。耳なくば何を以て聴かん、目なくば何を以て視ん。
軍に間を用ひずんば、何ぞ独り視聴のみならんや。我れ固より之れを用ひ、彼れ亦之れを用ふること、軍の常なり。故に善く戦ふ者は、我れの之れを用ふること至らざるを憂へて、彼れの之れを用ふるを恐れず。今は則ち然らず。宜しく間を彼れに用ふべきに、而も其の国事を洩らさんことを慮りて敢えへてせず。彼れ間を我れに用ふ、我れ宜しく留めて以て反間と為すべきに、而も其の国情を窺はんことを懼れて為さず。噫 何ぞ其れ惑へるや。我れ實ならんか、彼れに百の間ありと雖も亦吾れを如何せん、却つて其の心を攻め其の謀を沮むに足るなり。我れ虚ならんか、彼れに一の間なしと雖も我れ安んぞ能く永く存せんや。我れに在りて然らず。強者、間を用ひざれば、宜しく趨くべき所を知らず、弱者、間を用ひざれば、宜しく避くべき所を知らず。今、人あり、己れの聾瞽(ロウコ)なるを憂へずして人の視聴を恐れなば、人将(マ)た之れを何とか謂はん。

 通信通市は古より之れあり、固より国の秕政に非ず。但だ当今の勢、力めて其の説を破らざるを得ざるものあり。古の国を建つる者は徒(タダ)に退いて守ることを為すのみならず、又進んで攻むるあり。而れども、国を越えて之れを攻むれば、財力疲弊し国用支へ難し。故に必ず糧を敵に因り、償を人に取る。是に於て通市の説あり。敵国の人悉くは殺すべからず、降る者は之れを納れ、服する者は之れを用ひ、小なる者は侯とし、大なる者は王とし、其れらをして我れに貢を奉り賦を致さしむ。是に於て通信の説あり。神功の征韓以還(コノカタ)、列聖の為したまふ所、史を按じて知るべきなり。今は則ち是れに異れり。外夷悍然として来り逼り、赫然として威を作す、吾れ則ち首を俛(タ)れ氣(イキ)を屏め、通信通市唯だ其の求むる所のままにして、敢へて之れに違ふことなく、倭人の利口、乃ち或は之れを列聖の義に附す。是くの如きもの、吾れ豈に其の邪説を縦(ユル)すを得んや。夫れ水の流るるや自ら流るるなり、樹の立つや自ら立つなり、国の存するや自ら存するなり。豈に外に待つことあらんや。外に待つことなし。豈に外に制せらるることあらんや。外に制せたるることなし。故に能く外を制す

 謹んで案ずるに、上世 聖皇、威は殊方(シュハウ)を懼れしめ、恩は異類を撫したまひ、英圖雄略万世に炳耀(ヘイエウ)す。而して其の己れを虚(ムナ)しうして物を納れ、人の長を採りて己れの短を補ひ、彼れの有を遷して我れの無を贍(ミタ)したまふ、曠懐偉度蓋し亦後世の宜しく師法とすべき所なり。余向(サキ)に時事に感激し、身家を顧みず、奮つて非常の功を為さんと欲す。而して天道の容れざる所、公法の恕(ユル)さざる所、繫縲(ケイルイ)に辱められ、岸獄(ガンゴク)に困(クル)しめられ、特(タダ)に生きて国に益なきのみならず、又将に死して身に垢(ケガレ)あらんとす、亦悲しむべきのみ。但だ平生の志麿せず折(クジ)けず、古史を読むことに愈々益々慷慨す。是に於て其の所謂炳耀(ヘイエウ)し師法とすべきものを摘録し、人をして上世 聖皇の為したまふ所是くの如く、固より衰季苟且(カリソメ)の論の如きに非ざるを知らしめんと欲す。然れども是れ特(タ)だ十一を千百より挙げしのみ。若し其の詳且つ備はれるものを求めんとせば、史に就きて之れを考へて可なり。

孝安天皇の時、秦、長生不死の薬を我れに求む。我れ因つて五帝三皇の書を彼れに求む。彼れ皆送致す。
 按ずるに、此の事神皇正統記に載す、確據なしと雖も、蓋し亦古来の伝説然るなり。而して上世の
聖皇人より取りて善を為したまふの意は則ち見るべし。
崇神天皇六十五年、任那国、蘇那曷叱知(ソナカチシ)を遣はして朝貢す。
垂仁天皇二年、(ソナカチシ)還るに因り、絹を其の王に賜ふ。
三年、新羅王の子天日槍(アマノヒホコ)来り帰す、之れを但馬国に置く。
九十年、田道間守(タヂマモリ)を遣はして香菓(カグノミ)を(トコヨノクニ)に求めしむ、景行天皇の元年に至りて還る。
 蘇那曷叱知、天日槍、田道間守の事を以て之れを推すに、吾が邦の諸々(モロモロ)の韓国あるを知れること久し、固より 神功の時に始まるに非ざるなり。
景行天皇四十年、日本武尊をして東夷を伐たしめ、俘(トリコ)にせし所の蝦夷を以て神宮に献じ、後これを畿外に分ち置きたまふ。是れ播磨・讃岐・伊勢・安芸・阿波の佐伯部(サヘキベ)の祖なり。
 俘虜の夷を諸国に分ち置くこと、古に多く是の事あり。一は以て夷人の情態を得、一は以て戸口の繁殖に資し、一挙して両利存す。
仲哀天皇九年、天皇崩じたまふ。皇后親ら新羅を征したまふ。新羅降る。因つて重寶府庫を封し、図書文書を収め、微叱己知(ビシコチ)を以て質と為す。高麗・百済も亦臣と称し貢を奉る。因つて以て内官家(ウチツミヤケ)を定む。 
 ・・・(以下略)

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