真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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孝明天皇毒殺説

2018年07月15日 | 国際・政治

 幕末から明治のはじめ、尊皇攘夷をかかげる過激な人達によって、多くの幕府関係者や公武合体を主張する公卿などが暗殺されました。また、「神州を汚す」として、当時日本にいた外国人を斬り捨てるいわゆる「異人切り」も後を絶ちませんでした。したがって、それらを取り締まる幕府側も、報復的に尊王攘夷派の人達を斬り捨てるということが、そのころ繰り返されたのではないかと思います。

 だから、妹の「和宮」を降嫁させていたこともあって、討幕を受け入れず、公武合体を望んだ孝明天皇も、荒れ狂うテロの渦中に巻き込まれ、毒殺されたのではないか、と私は考えます。

 狂信的な尊皇攘夷の思想が、数々の暗殺事件のみならず、二度にわたる幕長戦争や薩英戦争、下関戦争、また、戊辰戦争などの原因にもなったのではないかと思います。したがって、尊皇攘夷をかかげた討幕派の人たちが、策謀によって幕府を倒し、天皇を神聖視する国家をつくりあげたことが、必然的に朝鮮王宮襲撃事件や日清戦争、日露戦争、日中戦争、第二次世界大戦へと突き進んでいく結果をもたらすことになった、と思うのです。
 そしてそれは、「五か条の御誓文」発表時に公表された「朕…みづから四方を経営し、汝億兆を安撫し、遂には万里の波濤を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富獄の安きに置かんことを欲す。…」という天皇の「宸翰」に暗示されているように思います。

 私が、討幕派の志士を美化し、明治の時代を明るく描いたり、「文化の日」を「明治の日」にかえて、「日本国が近代化するにあたり、わが民族が示した力強い歩みを後世に伝え、明治天皇と一体となり国つくりを進めた、明治の時代を追憶するための祝日」にしようという考え方を受け入れ難い理由は、そこにあります。
 また、「テロリスト」ともいえるような人たちを「明治の元勲」と呼び、いろいろな歴史的事実を伏せて、明治の時代を近代化の側面を中心にとらえるような歴史は、見直される必要があると思います。「勝てば官軍 負ければ賊軍」という考え方に基づくような歴史は、乗り越える必要があると思うのです。

 2015年05月、世界の日本研究者ら187名が、日本における歴史修正主義の跋扈や歴史的事実を主張する者の社会的排除、そして、それらを支えるような政府の歴史修正主義的な姿勢を懸念して、「日本の歴史家を支持する声明」を発表しましたが、不都合な事実はなかったことにする政権の歴史修正主義的な姿勢は、明治の時代から受け継がれてきており、今後も受け継いでいこうとしているのだと思います。

 下記は「天皇家の歴史(下)」ねずまさし(三一書房)から抜粋しました。そこには、孝明天皇の死後”ただちに毒殺の世評おこる”と題して
このように順調に快方に向かっていたにもかかわらず、天皇は突然世を去った。典医の報告は重要な日誌を欠いているため疑惑を一層深めるが、これと符節を合わせたように、毒殺説が早くも数日後廷臣の間にあらわれた。
と書かれています。
 そして、当時日本にいた外交官アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新(上)」に、孝明天皇の毒殺について触れられた文章があり、伊藤博文を殺害して処刑された安重根も、「伊藤さんは、42年前に、現日本皇帝の御父君に当たられる御方(孝明天皇)を害しました。そのことはみな、韓国民が知っております」といって、伊藤博文殺害理由の一つにあげていたにもかかわらず、そうした世評があったことさえ伏せられている現状には問題を感じます。

 しばらく前、官邸の関わる公文書改ざん問題が毎日のように報道されていました。そして、ウソにウソを重ねた関係者の証言の矛盾点が既に暴かれているにもかかわらず、野党の要求する人物は、求めに応じて事情を説明することをせず、ひたすら忘れ去られる時を待つかのような姿勢を貫いています。そうした姿勢が、明治以来一貫しているのではないかと思うのです。  
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                       第二十八章 孝明天皇の毒殺

     一 典医の報告でも毒殺を暗示する

朝廷では慶應二年十二月二十九日に、天皇(三十六歳)が二十五日に痘瘡のために崩御した、と公表し、今日にいたるまで、宮内省と文部省はこれを確信し、国民に信じこませてきた。宮内省編さんの『孝明天皇記』は病死説の根拠として『非蔵人日記』、『二条家記』、『御痘瘡之記』、『中山忠能日記』、『土山武宗日記』などを引用し、全く疑惑のおこらないように説明している。これをもとにして、文部省維新史料編さん会の『概観維新史』や『維新史』(第四巻)もまた病死説を記している。こうして病死説は、明治以来の天皇国家の公式の意見であって、もし毒殺説を主張するものがあれば、不敬として処分されたにちがいない。

 それにもかかわらず、国民の間においては、ひそひそと天皇の毒殺説が語られ、ほとんど全国にわたってささやかれてきた。これを公然と発表した文書は、英人外交官サトウの『日本における外交官』であったが、うわさの程度を出なかった。それにしても、サトウは「その間の内幕によく通じている一日本人によって、私は帝が毒殺されたのだ、ということを信ずるようになった」とのべ、このうわさの出所が信頼できるものであることを、ほのめかしている。しかし塩尻氏の訳書では、この項をけずっている。国民はうわささえ、しらされなかったのである。

 ところが昭和十五年七月といえば、太平洋戦争のおこる前年で、言論にたいする圧迫のきびしい最中である。大坂の学士会クラブで開かれた日本医史学会関西支部大会に陳列された孝明の典医の一人伊良子光尊の日記を、医史学の大家佐伯理一郎博士が検討し、「孝明天皇の症状が二十二、二十三日(十二月)頃順調な経過をとっているというところで、記事が中絶している」のをみて、ただちに「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が女官に出ている姪をして、天皇に一服毒を盛らしたのである。…伊良子氏の資料に於て、肝腎のところで、筆が絶たれているのは、わざと誌すのを憚ったのか、嵌(カン)口令によって筆を折ったのか、この一大事にしめ出しを食って、他の一、二の典医だけしか関与しなかったので、詳細を知らなかったために、日記が欠けたのか、理由はわからないが、岩倉の天皇毒殺を裏書きする一つの貴重な傍証であると思う」と遠慮するところなく、論断した。列席者は時が時だけに驚いたが、同時に博士の学問を追及する熱意と勇気に感激したという。これは特殊の学会でもあり、列席者のなかに憲兵隊なり、警察に密告する人もいなかったため、博士は弾圧をうけることもなかった。日本人が、とにかく公開の席上で毒殺説を発表した最初の機会として、注目に値する。

 しかしこの講演のことが、文字として記録されたのは、中野操博士が敗戦後になって発表した時にすぎないから、結局毒殺説が文字として記述されることは未だかつてなかったといって差支えない。このように毒殺説は、民間や外人にさえも、口伝えにひろがっていたにもかかわらず、禁断の木の実であった。

 そこで、私は『孝明天皇記』が引用している典医の病症日記(典医の武家伝奏にたいする報告。これが天皇の死後加筆されたか、削除された部分があるかどうかは不明である。宮内省の刊本であるかぎり、この点には問題があろう)そのものを検討してみることにする。勿論この『孝明天皇記』は敗戦までは、帝国大学などでも貴重図書の扱いをうけ、みだりに引用することはむずかしかったし、批判を加えることは許されなかった。
天皇は十二月二十一日に内侍所でおこなわれた臨時御神楽に出席した。しかし、風邪ぎみなので、医師がとめたにもかかわらず、出席した。しかし行水はおこなわなかった。この時典医の高階典薬少允が診察し、発汗剤をのませた。しかしその後も熱は下がらず、汗も出ず、睡眠もできず、食事もとれず、高熱のために、ウワ言をいって苦しんだ。そして十四日なって山本典薬大允が診察して、痘瘡であることが判明し、十五日に手に吹出物(水泡)があらわれた。そして下剤がきいて通じがあり、熱も下がりはじめ、まず順当な経過と診断された。かくて十六日に朝廷では、公式に痘瘡であることを発表、七社七寺に全快の祈りをおこなわせた。この日に吹出物が顔にあらわれ、十七日には皮膚がはれ、食欲もおこり、通じも順調となり「ますます御機嫌よくなってきた」と報告された。症状報告には高階、藤木、山本、河原、伊良子、西尾、福井、大町、久野、三角ら十五人の医師が署名しているので、一応十五人の意見の一致した公式のものと認められるから、『中山日記』に伝えられるように、高階一人が痘瘡をあまり手がけなかった医師だったとしても、全医師団の誤診とか、調薬ちがいを引起す程の影響はなかったと思われる。その上種痘のない当時では、痘瘡の経過とか、処置については医師は相当に習練していたわけであるから、一人の医師が未熟だとしても、全医師団を誤診にみちびくことはないと考えられる。十八日以来ますます経過はよく、真言宗の誓願寺大雲院の上乗坊と天台宗の護浄院(一名清師荒神、上京区荒神口通 寺町)の権僧正湛(タン)海が招かれて加持祈とうを
おこない、加持のききめが早くもあらわれたと喜ばれた。

 その夜痘(モガキ)は紫色になり、安眠もでき、便通も食事も順調となった。当局は極秘にしており、ひそかに目病(ヤミ)地蔵へ鳥飼という者を祈とうにつかわしたが、早くも町人が知ったということで、廷臣たちは大いに驚いた。十九日の症状も順調と記録され、食事は大いに進み、中山慶子も「さてさて有がたき御事」と喜んでいる。二十一日には慶喜らが見舞に参内し、膿が水疱から出はじめ、ますます順調に全快に向かっていると報告された。二十三日には膿もおわりとなり、二十四日には収靨(メン)になり(つまり痂(カ)皮ーーかさぶたーーができた)、総体において、相応の回復状況と診断された。
 この病気の症状を医書などで調べてみると、潜伏期が十二日程あってから、高熱を発する。十一日に風邪と思われたのは、実は潜伏期がすぎて発熱期に入った時であった。十三日の不眠、高熱、食欲不振、ウワ言などは、前駆期(ゼンクキ)にあたる症状であって、翌日に山本典医が痘瘡と診断し、全医師団はそれにしたがって、診察や投薬をした。当時宮中には痘瘡患者がでており、側近のもので、全快して勤仕した者もあって、天皇はこれらの患者から伝染したようだ。現神といわれる天皇も病菌には勝てないのであって、まさにここにこそ、彼が神でなく、人間であるという証拠がある。

 前駆期から熱は四十度にも達し、頭痛や吐気が加わり、便秘し、食欲はなく、ウワ言をいい、顔がはれ、結膜は充血する。そしてその第一日か、第二日に麻疹様の鮮紅色の発疹がでる。第四日に吹出物、つまり丘疹期(キュウシンキ)がはじまり、顔、頭、四肢などに小紅疹があらわれる。これが出はじめると、熱が下がりはじめる。天皇は十七日から便通があり、食欲もおこり熱も下がり、悪化へ向かう症状はなくなった。悪化へ向う場合は(融合性痘瘡など前駆期の高熱が少しも減退しないままで、水疱や膿疱があらわれ、口腔や咽頭にも発疹し、呼吸が困難となり、吐気があり、昏睡し、ウワ言がつづき、ついに心臓麻痺をおこして、死にいたる。しかし天皇の症状は十五日から前駆期が終わり、快方へ向っている。十七日から安眠もでき、十八日に水疱がはれてきて、膿をもち、膿疱期に入った。そして二十一日から灌膿、すなわち膿をふきだし、医師は「御機嫌よく」とか、「御静謐(セイヒツ)(安静)」とか、「何の申し分もあらせられず」と報告している。
 熱も下がり、これから膿疱は褐色の痂皮を結んで、乾燥することになる。二十三日に膿のふきだしがおさまって、乾燥して収靨しはじめた。
 医師の報告のほか、十八日から毎日加持に参内していた湛海権僧正の日記も、病状が順調に快方に向かっていることを報告している。

 ここで湛海権僧正の日記発見のいきさつについて、少しわき道にそれるが、かいておきたい。戦前の昭和十七年四月七日頃、京都府史蹟名勝天然記念物調査委員の赤松俊秀氏(現在京都大学名誉教授)は、寺宝調査のため、もとの立命館大学奈良本辰也、京都府嘱託田井啓吾(戦後死亡)、奈良学芸大学教授岩城隆利諸氏とともに、真言宗の誓願寺をたずね、その塔中(タッチュウ)の大雲院において、当時天皇の加持祈とうに招かれた上乗坊の日記を発見した。十二月二十五日の条に「天皇の顔には紫の斑点があらわれて虫の息で、血をはき、また脱血」云々という記事がかかれており、赤松氏ら一同は非常に驚き、天皇の死が尋常のものでない、という強い印象をうけた。しかしこの寺はまもなく経営難におちいり解散してしまい、古文書は紙くず屋に売られて、今日では入手できない有様となった。ところでこの時赤松氏らは護浄院調査にまでは着手できなかった。この間の事情について御教示をたまわった赤松教授には深く御礼を申したい。
そして残るところは護浄院である。戦時戦後の食糧難や寺院に加えられた種々の束縛のため、大抵の寺が古文書を売却している京都において、著者は不安を胸にいだきながら昭和二十八年十一月京都を訪れ、奈良本教授とともに、七日に護浄院をたずね、古文書の調査を申しでた。ところが、わずかにすぎないが、示された文書のなかに湛海から江戸の輪王寺宮へだした「孝明天皇崩御」にかんする、うすい報告書がでてきた。この報告書は正本の写しであるが、そのなかに当時の日記が引用されている。くわしい報告は「歴史学研究」に発表したので、参照されたい。この調査について、種々の助言や協力をおしまれなかった奈良本辰也教授にたいして、あつく御礼を申しあげる次第である。

 湛海の日記は十八日からはじまる。十八日の症状は相当に悪く、「御上り物御薬など御返し(嘔吐)……御吹出物御膿ぬるぬるあらせられ……御障子一ト間御切明け、それより竜顔を奉拝、御加持申上候」とある。また『孝明天皇紀』引用の『土山武宗日記』には「僧正は御末口から常御殿の庭に廻り、御祈とうをした」と報告されている。ところが十九日から前述のように(僧正は「法験あらわれ」と誇っているが)、天皇は食欲が出はじめ、翌日は「叡感斜めならず」(気分がよくなった)というので、彼は三十両を与えられた。それ以後は典医の公報同様に「順症」となって、快方へ進み、皇后(准后)らも安心した。そこで二十四日は加持も七日目で満願となり、一応打切った。しかし准后からはなお当分加持にくるよう依頼された。
 ところが二十五日朝、急に使者がきて参内するように命令され、僧正はいそいで参内した。
 典医の二十五日の報告によれば、二十四日の夜から嘔吐がはげしくなり、下痢もはじまり、二十五日の朝には嘔吐も少しへったけれども、「微煩の模様」があり、これは「今一段と御内伏の御余毒御発洩遊ばされかね候の御事と診(ミ)奉候」とある。ところが『孝明天皇記』は、同日一昼夜および二十六日の症状はのせていない。
 この両日こそ、もっとも重大な容態であるから、医師の報告がなくてはならない。それを故意にのせないのは、前述の佐伯博士のいう通り、嵌口令が数十年後のここでも守られている証拠である。そこで『中山日記』をみると、下痢と嘔吐がはげしく、食欲はなくなり、天運つき、側近の者は落涙した。そして午後十一時頃、ついに事きれた。
「玉体は、見上げるのも恐れいる程の有様で、当局は天皇の死をまだ極秘として発表していない」という慶子の手紙をのせ、二十八日の項には、慶子から極秘の文書が父の忠能のもとに送られ、それが引用されている。
 それによると、「二十四、五日頃は何の仰せもあらせられず、両三度大典侍大典侍と召され候へども、その折りに御側におられず、ただただと当惑するばかり致しおられ、二十五日後は御九穴より御脱血……」とあって、この二十五日の重態の時に、側近にはだれもいなかったことが報告されている。ただ祈とうによばれた僧正が祈とうを繰返した。その時彼が見た天皇の様子は「胸先へ御差込み容易ならぬ」もので、盛んに苦しんだ有様が語られている。

 ここで著者は中山慶子の手紙のうち、「御九穴より御脱血……」という部分に、傍点をつけた。毒殺に砒(ヒ)素を使うことは、中国や日本でも古くからおこなわれたようである。中国の明時代の小説『金瓶梅』の第五話をみると、「淫婦が武太郎に毒を盛ること」のなかに、武太郎の妻が、砒霜を胸痛薬といって、胸痛にくるしむ夫にのませ、殺す状景がかいてある。呑んだ武大は、「おいら息がつまるよ」と叫んだ。その「肺臓心臓は油で煎られ、肝臓はらわた火に焼け焦げる。胸は刺される氷の刃、腹はぐりぐり鋼(ハガネ)の刀、からだ全体氷と冷えて、七つの穴から血は流れ出る。歯はがちがちとかみ合って、魂はおもむく横死城、喉はごろごろ干からびて、霊は落ちゆく望郷台、地獄にゃふえる服毒亡者」……「女が蒲団を持ち上げてみると、武大は歯を食いしばり、七つの穴から血が流れている」というように、むごたらしい砒霜の毒死の状況がかかれている(小野忍・千田九一訳、平凡社、昭和四十七年刊、上、五十八頁)。全く同じ死の状況である。
 医師もいろいろ手をつくしたが、どうにもならず、この上は加持以外にないというわけで、僧正は一層「丹誠をこめて」祈った。すると不思議にも痰がきれて、やや持直した。僧正は別室にさがって一休みしたが、再び招かれて、「玉体側まで相進んで」加持を加えたが、その最中に「御大事に及ぼされ、何とも申しあげようもなく」なったのである。とにかく『孝明天皇紀』にも当日の容態が発表されていない以上、この僧正の記録と『中山日記』とは、最も重要な史料といって差支えない。今後とも典医諸家の日記の調査に期待をもつ次第である。

 史料編さん所の吉田常吉氏は『孝明天皇紀』所引の史料や『中山日記』などによって、戦後「孝明天皇崩御をめぐっての疑惑」を発表され、大体において病死説をとられている。しかし「白とも黒とも断言できない」旨をも附記されている。とにかく従来の毒殺の伝説とか、蜷川新博士の『天皇』(光文社刊)と、大宅壮一氏の『実録天皇記』にかかれた噂の程度の毒殺説では、吉田氏の病死説に対抗することはできないように思われる。

     二 ただちに毒殺の世評おこる

 このように順調に快方に向かっていたにもかかわらず、天皇は突然世を去った。典医の報告は重要な日誌を欠いているため疑惑を一層深めるが、これと符節を合わせたように、毒殺説が早くも数日後廷臣の間にあらわれた。『中山日記』の翌年一月四日にのせた老女浜浦の手紙によると、「誰かが痘毒を天皇にのませたので天皇が罹病した。その証拠には容体をかくし、内儀の者さえも少しも容体を知らず、二十五日の姉敏(トキ)宮の見舞いも廷臣がとめようとしたことがあって、このようなことが陰謀をかくす証拠だとうわさされている。こんな話はとるにたりないが、油断がならない」ということがかかれ、また七日の彼女の手紙には「当局は黙秘しているが、世間では案外よく知っている。十六日の病名決定以後の症状を発表しないために、うわさが起るので、発表せられたいというので、いよいよ公表することとなった」というのである。これによって典医の報告が前記の形で公表されたわけであろう。以上の様子からみると、早くも毒殺のうわさがたっていたことがわかる。
 その上、次代の天皇として践祚した祐(スケノ)宮は、毎夜のように前帝の亡霊に苦しめられ、その亡霊は鍾馗(ショウキ)のような姿をし、剣をもっている(『朝彦日記』、下巻 慶応三・正・五。同十二)。そこで朝彦は怨霊退散のため、長福寺の僧に加持を依頼した。その消息は、岩倉の親友の千種有文も岩倉へつたえている。まさに『ハムレット』というところである。孝明の異常な死に方を知っていればこそ、新帝の心にこのような不安な動揺がおこったのである。古来天皇家の歴史において、非業な最期をとげた皇族は多く、迷信深い宮廷はその怨霊のたたりを非常に恐れた。新帝がこの悪夢になやまされたことは、毒殺を信頼させる一つの証拠となる。

 毒殺の世評は、このように朝廷内からおこった。二十四、五日の両日に大典侍らが側近にいなかったことも、不審といえば不審である。毒殺ということになると、病状日記をみても、犯人は二十四日に一服もったことになる。この犯人を「誰」と明示した史料は恐らくあるまい。もしあったとしても明治になってからは犯人側が政権を握ったのであるから、焼きすてられてしまったに相違ない。これについて前記の佐伯博士がこう語っている。「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が、女官に出ている姪(?)をして、天皇に一服毒を盛らしたのである」と岩倉をはっきり指名している。前にもいった通り、国家の言論圧迫のきびしいこの頃に、公然と公開の席上で、明治の元勲を犯人として指名するのであるから、博士には十分な確信があったものと思われる。すなわち博士は言葉をついで、「自分は或る事情で、洛東鹿ヶ谷の霊鑑寺(比丘尼御所)の尼僧となった当の女性から直接その真相をきいたから、間違いない」と断言している。
 この岩倉の姪という女性はだれであろうか。具視はもと堀河康親の二男であって、岩倉家に養子に入った人物である。その姪といえば、兄の堀河親賀か、弟の納親の娘でなくてはならないが、『堀河家譜』には、これにあたる婦人はいない。ところが具視とその異母妹の右衛門掌侍堀河紀子とは、和宮降嫁以来「天皇にチン毒を献じて」暗殺しようと非難され、尊攘派から暗殺されかけたため、天皇も公卿も彼にたいする態度を硬化して、彼らを処分したことは、すでに第二十五章において述べた通りである。いわば両人は天皇暗殺未遂の前科者である。したがって後世から容疑をうけるのも理由のないことではない。こういうわけで、天皇が幕府のロボットとなり、討幕派の邪魔者となった今日、岩倉が再びテロルに訴えようとしたことは、不自然ではない。したがって紀子や藤宰相は再び岩倉の指令のもとに暗躍し始めた(第二十七章 ニ、尊攘派の御所襲撃、スパイにかこまれる天皇)。また具視の孫の具定は、幼児から児(チゴ)として天皇の側近につかえ、当時は十六歳で、近臣として勤仕していることも、一考を促す材料である。天皇はあくまでも幕府と結んで、征長役を勅許して、討幕派に対抗する以上、このようなテロルが計画されるのは、宮廷の必然的なりゆきであって、天皇は討幕派の闘争の血祭りにあげられたといってよい。

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