真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

戦争に関わる歴史の真実は・・・ http://hide20.web.fc2.com に記事にリンクの一覧表


福沢諭吉と朝鮮 時事新報社説記事 NO4

2018年04月11日 | 国際・政治

 引き続き、「福沢諭吉と朝鮮 時事新報社説を中心に」杵淵信雄(彩流社)から、当時の時事新報の気になる社説記事を抜粋しました。当時の状況や記事の背景について、著者は分析や考察を加えながら記事を引いているのですが、今まで同様それらをすべてはぶき、私自身が気になったことや感想を、私なりにまとめました。また、今回は「朝鮮奥地紀行2」イザベラ・バード/朴尚得訳(平凡社)東洋文庫573から、日本人による朝鮮王宮乱入、閔妃暗殺事件直後の状況に関する文章の一部も抜粋し、加えました。

21の 「事の真相を明にす可し」の記事は、乙未事変(イツビジヘン)と呼ばれ、李氏朝鮮の国王・高宗の王妃であった明成皇后(閔妃)が、朝鮮駐在公使、三浦梧楼らの計画に基づき王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)その他によって暗殺された事件に関する記事です。
京城在留の日本人中多少関係したるものあるは疑ひなき如し。他国人の身で斯る企てに加担するは実に怪しからぬ次第にして、我輩の赤面に堪へざるなれど、今の日本の国情から時として斯(カカ)る乱暴人の出づるも止むを得ざる事情あり。
とありますが、この記事は、福沢自身が他の報道を批判して、”針小を棒大に、或は大事を後に細事を先にしたるものもあり”という以上に問題があると思います。事の真相を意図的に隠し、歪めて報道しているのではないか、と疑われる記事だと思います。
日本人中多少関係したるものある”の”多少”という根拠はなんだというのでしょうか。
他国人の身で斯る企てに加担する”の”加担”という根拠はなんだというのでしょうか。
日本の国情から時として斯(カカ)る乱暴人の出づるも止むを得ざる事情あり”とありますが、王宮に乱入した朝鮮駐在公使三浦梧楼をはじめとする日本人の集団が”乱暴人”所謂壮士と称し、身に常識なく無聊に苦しむ者共”だったというのでしょうか。
 私には、この「時事新報」の記事は、事の真相を隠し歪曲して、王妃暗殺という大事件を矮小化する意図をもって書かれたとしか考えられません。
 また、日本政府は対応を迫られたためか、三浦梧楼ら関係者48名を謀殺罪等で広島監獄に収監したものの、”首謀と殺害に関して証拠不十分”として、免訴し釈放していることを見逃すことができません。李氏朝鮮明成皇后(閔妃)を、王宮に乱入して殺害した日本人の犯罪が、日本において日本人によって裁かれ、免訴され釈放されたという事実も考えさせられます。
 「時事新報」は”他国の宮中に闖入して乱暴を働くが如き、言語道断、決して恕(ユル)す可らず”と主張し、”関係者の厳罰を望むなり”と書いていたのに、その後、彼等が免訴し釈放されてたことを問題にしないのはなぜでしょうか。
 
22の「二十八日の京城事変」の記事は、「事の真相を明にす可し」の記事から二ヶ月足らず経過した後に書かれた記事ですが、”他国の宮中に闖入して乱暴を働くが如き、言語道断、決して恕(ユル)す可らず”と主張し、”関係者の厳罰を望むなり”と書いていたのに、”一歩進めて朝鮮の政情を穿つときは、諸外国人の乱暴無法も、さまで深く咎むるに足らざる如し”と変わってしまいます。”されば先の王城乱入も今回の乱暴も、咎むべきは咎む可きなれど、朝鮮の国情を察すれば、野外の遊興、無益の殺傷と視る可きのみ。”と、ここでもまた朝鮮の国情を問題として、やむを得ない事件だったかのように書いています。おかしな論理だと思います。宮中に乱入し、明成皇后(閔妃)を殺害した犯人が朝鮮人であったのなら、わからなくもないのですが、犯人は”文明国”を自認する日本の公使を中心とした日本人の集団であったことを、あえて無視しているように思います。
 犯人が文明国の日本人であれば、たとえ朝鮮の国情がそれほど酷いということであっても、”他国の宮中に闖入して乱暴を働くが如き、言語道断、決して恕(ユル)す可らず”や”関係者の厳罰を望むなり”を取り下げる理由にはならないと思います。
 逆に、きちんと法や道義に基づいた対応をして、広く朝鮮社会に模範を示すことが大事なのではないかとさえ思います。”先の事変の罪を問ふなら、この事変も宜しく看過すべ可らず”などと、他国の問題をとり上げるのも、恥ずかしいことだと思います。

23の「京城事変」の記事では、なぜか、”国王・世子はロシア公使館にて新内閣を組織、現内閣員を罷免せり”の理由を正しく理解しようとしていないように思います。そして、
先年十一月二十八日の事件も某公使館に逃れたる輩と宮中が気脈を通じたるものにして、その一派が露国の力に頼り、水平上陸を幸に目的を達したるは、金弘集の一派が日本公使館の後援を得て十月の政変を行ひたると同等なり。”
と国王派と金弘集の一派の争いに過ぎないかのように書いています。日本の強引な朝鮮政策が引き起こしたといえる争いであるにもかかわらず、その問題点を明らかにしようとはしていないと思います。

24の「朝鮮政府の転覆」も、意図的に問題の本質を隠しているような気がします。日本人による犯罪は、”気の毒なれど”と同情はしても、”自業自得”などと言って追及しようとせず、”去年十月の事変に王妃の不幸を見て、外国人の中には変後の新政府は至当と認めずなどの話もあれど、本来国内の騒動にして、外国人の名誉利益には毫厘(ゴウリン)の影響非ず。王妃の最後は正理人道に許す可らずなどと云はんなれど、正邪曲直は朝鮮人の自ら判断する所にして、他より云々することに非ず。”などというのは、日本人による犯罪だからなのでしょうが、こうした記事を掲載していた「時事新報」が、日本の顔として一万円札の肖像になっている福沢諭吉の創刊であることにはほんとうに驚きます。

25は、事件当時、朝鮮を旅行して歩いた旅行家で探検家で紀行作家でもあるという英国のイザベラ・バードの「第二十三章 朝鮮史の暗黒期」の文章の一部を「朝鮮奥地紀行2」イザベラ・バード/朴尚得訳(平凡社)東洋文庫573から抜粋しました。
 ”世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている”と日本を高く評価したイザベラ・バードは、日本人による朝鮮王宮に乱入、閔妃暗殺事件の本質を明らかにし、「時事新報」の記事の問題点をあぶり出しているように思います。
21-------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー----------------------------
              「事の真相を明にす可し」(明治二十八年十月十五日)

 今回朝鮮事変の報道は、日本人より出でたるもの、外国人より達したるものあれど、事実甚だ明白ならず。針小を棒大に、或は大事を後に細事を先にしたるものもあり、急遽の際、通信の前後混雑は免れず、詳報の到着を待つ外なけれど、京城在留の日本人中多少関係したるものあるは疑ひなき如し。他国人の身で斯る企てに加担するは実に怪しからぬ次第にして、我輩の赤面に堪へざるなれど、今の日本の国情から時として斯(カカ)る乱暴人の出づるも止むを得ざる事情あり。維新革命の前後より一種の政治思想を養成し、政治狂有様を呈し、政治の為めに人を殺すの殺伐を演じて怪しまず。大臣暗殺、外国人への凶暴は毎度のことなり。先年の露国皇太子、本年の李鴻章(リーホンチャン)事件は著しき事例なり。日本人に一種殺伐の思想あるは事実にして、朝鮮に対して年来の関係から、是(コレ)ら妄想家が妄想を逞うして事を誤る掛念少なからず。昨年の戦争後、政府は特に留意して内国人の漫の渡航を禁じ、居留民を厳に取締り、用心一方ならざれど、所謂壮士と称し、身に常識なく無聊に苦しむ者共、居留民中に多く、今回の事変に進んで参加したる者あるべし。この点より日本人関係すの報道を疑わざる者なり。ただ願ふ所は事実を有りの侭に表白し、根底より罪を糺し、前後の始末を明白ならしむ一事なり。無知無識の輩とは云へ、他国の宮中に闖入して乱暴を働くが如き、言語道断、決して恕(ユル)す可らず。日本は乱暴国なりと、暴徒の為めに汚名を蒙るに至らば、迷惑至極、容易ならざる次第なれば、関係者の厳罰を望むなり。

22ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                「二十八日の京城事変」(明治二十八年十二月七日)

 先の事変に日本人も与りたりと朝鮮政府に迫り、日本公使に談じたる某外国公使の配下より同様の乱暴人を出したるは、近来の奇談なれ。先の事変の罪を問ふなら、この事変も宜しく看過すべ可らず。外国の交際法、内国の治罪法に然かる可きなれど、一歩進めて朝鮮の政情を穿つときは、諸外国人の乱暴無法も、さまで深く咎むるに足らざる如し。紳士の間の無作法も車夫馬丁の仲間では普通の事なり。市中の放歌裸体は禁制なれど、野外では醜体をも座興とす。今の朝鮮、政府に威厳なく、三、五十人の壮士あれば、政権も王城の乗取りも思ふがままにして、今日の政府明日の政府に非ず、昨日の政令今日取消し、今日取消したる法律明日復活し、罪人も罪人に非ず、功臣も功臣に非ず。已に亡国に等しく八道は暴政の古戦場にして茫々たる原野なり。外国人の無作法の挙動を喩へれば、野外散歩の少年が放歌高声、無益の殺傷に鬱を散ずる如し。されば先の王城乱入も今回の乱暴も、咎むべきは咎む可きなれど、朝鮮の国情を察すれば、野外の遊興、無益の殺傷と視る可きのみ。亡国の実を具へて亡びず、既に例外なれば、例外の変乱深く怪しむに足らず。
23ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                  「京城の事変」(明治二十九年二月十四日)

 京城からの電報によれば露国兵士百二十人京城に入り、翌暁国王・世子はロシア公使館にて新内閣を組織、現内閣員を罷免せり。総理金弘集が殺戮され、その他は僅かに逃れたり。事は露国に関する如くなれど、我輩の所見では、今回の政変は国王自身の発意に出でたるものなり。国王深く王妃の不幸を悲しみ、義和宮(ウィファグン)の外遊の際も、此の怨は晴らさず可らず、頼むは某国なれば、最後は某国に止まるべしと諭したり。内閣大臣に対して汝ら三年同窓の学友を終身忘れざる情あらん、余は王妃と三十年起臥を共にせりと、屡々(シバシバ)怨言を漏らせり。先年十一月二十八日の事件も某公使館に逃れたる輩と宮中が気脈を通じたるものにして、その一派が露国の力に頼り、水平上陸を幸に目的を達したるは、金弘集の一派が日本公使館の後援を得て十月の政変を行ひたると同等なり。されば朝鮮の政府には大事件なれど、日本と露国の交際にはこの為めに一点の曇を見ず。ただ今後の成行に注目す。
24ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                「朝鮮政府の転覆」(明治二十九年二月十五日 時事)

 今回の政府転覆は気の毒なれど、我輩の所見を以てすれば、当局者の自業自得なり。去年十月の事変に王妃の不幸を見て、外国人の中には変後の新政府は至当と認めずなどの話もあれど、本来国内の騒動にして、外国人の名誉利益には毫厘(ゴウリン)の影響非ず。王妃の最後は正理人道に許す可らずなどと云はんなれど、正邪曲直は朝鮮人の自ら判断する所にして、他より云々することに非ず。王妃の不幸云々(ウンヌン)と云へど、外国に政治上の革命は毎度のことなり。国王大統領を殺したる例さへ少なからず。国内に事変あるも社会の秩序を維持し、外国人の名利を損ぜざる限り顧みる所ある可らず。されば新政府は彼らが正当の政府と認めざるも、着々新政を行ひ政権を維持するときは、内外の物議も消滅すべし。十月の政変に閣僚以下、関係の遠近はあれど、一人の異議を唱ふる者なかりしは明白なる事実なり。彼の一挙を仮に悪事と見なすとき、正犯従犯の別こそあれ、与に罪人なれば、同志結束して進むべきに、朝鮮人の常として、自身の安全を謀らんとする結果、次第に離れて孤立し、自ら倒るる成行なり。我輩の予想に違はず、外国人云々より動揺し、内閣員は責を大院君に帰し、大院君更に責任者を求めて罰せんとし、まず王宮占拠に参加せる禹範善を放逐し、次いで趙義淵、権濚鎮を黜(シリゾ)け、遂に罪を李周会(イジュフェ)に帰して死刑に処するに至る。自ら同志を擠排(セイハイ)して羽翼を殺ぎたる結果、政府自ら孤立して一夜の間に最後を遂げたるは、返す返すも失策なり。
25------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー-----------------------------------
                     第二十三章 朝鮮史の暗黒期
 ・・・
 宮殿での事件の三日後、国王と一般民衆が王妃は生きていると信じていた時に、獣のような野蛮な王妃暗殺よりもずっと恥ずべき非道である、いわゆる王の布告〔詔勅〕が官報で公布された。署名を求められて、国王は拒絶し、むしろ両手を斬り落とした方がよい、と言ったという。しかしそれは、国王の布告として世に出た。宮内府大臣は、首相および内閣の六人の大臣が署名した。

     詔勅

 朕が即位して三十二年、治化は、まだ広く行き渡っていない。王后閔氏は、親党を引き入れ、左右に置いておき、朕の聡明を塞ぎ、蔽った。人命を害し、朕の政令を乱し、官爵を売り、残虐なことをして天にまで蔓延した。盗賊が四方で起き、宗社は危うく、朝夕を保全できない。
 朕がその悪の極まったのを知っても罰を下せなかったのは、ただ、朕が不明であったばかりでなく、その与党を恐れてそうしたのである。
 それで、朕は、昨年十二月、宗廟に誓って告げた。『后嬪宗戚は政治に関与できない』と。もしかして閔氏が悟り、改めることがあるよう願ってのことである。閔氏は、旧悪を悔い改めなかった。大勢の小人たちをひそかに引き入れ、朕の動静を窺っていた。およそ、朕が国務大臣を引接すると、おおむね、みな、防ぎ止める。朕の命令と偽り称して朕の国兵を解散させ、変乱を急激に起こした。事変が出来するや、朕を避け、独りで逃げた。壬午〔高宗十九年 1882年〕の往事を踏襲した。訪ね求めた時、とうとう出現しなかった。これは、どうして、王后の爵徳を称せられないのに止まるだけで済むことであろうか。
 その罪悪は、実に満ち渡っていて、先王宗廟を承ることはできない。故に、謹んで我が家の故事に依り、王后閔氏を廃して庶人にする。
        開国五百四年八月十二日奉勅
                                              宮内府大臣     李戴冕  
                                              内閣総理大臣    金引集
                                              外部大臣      金允植
                                              内部大臣      朴定陽
                                              度支部大臣     沈相薫
                                              軍部大臣      趙羲淵
                                              法部大臣      徐光範
                                              学部大臣臨時署理  徐光範
                                              農商工部大臣署理  鄭秉夏
                                          〔黄玹『梅泉野録』(朴尚得訳、国書刊行会)ニ四六頁参照

 その日、詐欺のようなこの恥ずべき詔勅の発布に続いて、もう一件の布告が出された。その布告で、王子を哀れみ、王太子が国王に深い愛情を寄せているのに配慮して、国王は王妃を「第一位の内妻」の身分に「高めた」のである。
 外交官たちは悩み、心配し、事態を討議するために絶え間なく会合していた。もちろんその極端な緊張状態は、ただ単に朝鮮での「出来事」とその局地的帰結によってのみ惹き起こされたのではない。この手際よくし遂げられた陰謀、無防備な女性を残忍にも殺害した事件の背後に、恐ろしい嫌疑が懸けられていた。その訝(イカブ)りは、悲劇後数日間に、時々刻々と確実なものに強まっていった。人びとは、兆しだけによる暗号解読の鍵として次のように言っていた。朝鮮人よりも他国人の頭脳が陰謀を企み、朝鮮人の手よいりも外国人の手が生命を奪い、暗殺行為中、国王の部屋を護衛していた哨兵たちは、朝鮮の制服よりも別の国の制服を着てしでかした。朝鮮の銃剣よりも他国の銃剣が宮殿の壁の陰できらりと光っていたようだ、と。
 人びとは、その訝りを用心深く語っていた。けれどもダイ将軍とサバティン氏の証言が、間違いなく一つの方角を指し示していた。事件後早ばやと持ち上がった疑問は「子爵三浦将軍は犯罪に関係していたのか」という事であった。この疑問に就いて詳しく述べる必要は無い。宮殿での悲劇の十日後日本政府は、事件のいかなる共犯とも潔白である、と釈明していたが、三浦子爵、杉村と朝鮮軍事顧問岡本を召還して逮捕した。彼らは数か月後、他の四十五名の者どもと共に広島で日本の第一審裁判の審理に懸けられた。そして「どの被告も、元来彼らがもくろんだ犯罪だが、それを実際に犯した事を立証する証拠は不十分」である、との法律上の技術的な理由で無罪になった〔1896年1月20日、広島地方裁判所「朝鮮事件予審終結決定書」参照〕。この犯罪は、私の判断によると、二人の被告が犯したものである。「三浦の唆しで、王妃殺害が決定された、そして、共犯者どもを集める事で次の段階にと進んだ…この二名の者に指揮された他の十名以上の者が、王妃を亡き人にした」
 三浦子爵は、有能な外交官小村〔寿太郎〕氏と交替した。その後暫くして井上伯爵が、日本天皇の不幸な朝鮮国王への弔辞を携えて到着した。この事件によって日本の信望と東洋での文明開化の指導者としての日本の地位は強打を被り、この際私たち外国人の同情を受け続ける政府たり得なかった。というのは日本政府が行った事件関与否認は忘れられ、暗殺の陰謀が日本公使館で整えられた事、民間人の服装をして刀とピストルで武装した日本人が宮殿で、直接非道に従事していた事、ある者は朝鮮政府の顧問であったし、また雇用されていた事、他の者ども--日本正規軍は除いて、壮士(ソウシ)として知られている者を含む全六十名は、日本公使館と関係がある日本人警備隊であった、という事が、常に思い出されていたからである。
 一代表を例外にして外国代表たちは、朝鮮の内閣に告げた。暗殺者どもを裁判に懸ける処置が執られるまで、訓練隊が宮殿から移動させられるまで、非道に責任がある内閣に最近、参入した者たちが糾弾されるか、少なくてもその官職を解任されるまで、朝鮮政府のどのような行為も認めるわけにはいかない、或は、朝鮮国王の名義で発布されるいかなる布告も認証されたものとして受け入れるのは断る、と。この慎重な方針は後に、上辺だけのものとなった。
 十月十五日、官報の号外で、「王の命令によって」王妃の地位は、一日たりとも空けておく訳にはいかないから、花嫁選択の手続き〔国婚揀択(カンタク)の節〕が直ちに始められなくてはならない、と発表された! これは、監禁されている国王に加えられた、積まれて山を成した数多くの侮辱の内の単に一つのものに過ぎなかった。
 十月の残りの日々と十一月中、事態はなんら改善されなかった。暗がりが深くなって陰惨幽暗の様相を呈していた。王室の歓迎会と接待の代わりに、恐怖や毒殺か暗殺の不安に絶えず震えている国王は、自分自身の宮殿の粗末な一室で息の詰まるような捕虜にされていた。事実上、国王の看守になっている反乱兵の手先であった男どもが主になって作り上げた内閣の手中にある国王は、ひどく嫌った布告に自分の印章を押すように強要されていた。殺害した王妃の血でまみれている男どもの道具は、とても拭われそうも無かった。国王と王太子が置かれている境遇よりも哀れなのは、この世にまたと有り得ないものであった。どちらかが自分の目の前で殺されるかも知れない、という恐怖、宮殿で準備される食べ物にはどれも敢えて食べられない恐怖、ニ、三分間にせよ別々に隔離される恐れ、信頼できる味方のいない不安、そして熟考すべき問題である果てしない戦慄に関する最近の記憶などに王と王太子はさいなまれていた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI


 ・・・

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 福沢諭吉と朝鮮 時事新報社... | トップ | 福沢諭吉「脱亜論」と歴史の修正 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

国際・政治」カテゴリの最新記事