下記は「水兵の母」同様、「うちのことはしんぱいするな。天子様によく御ほうこうするだよ」などと言って、「一命を捨てて君の御恩に報ゆる」ことを我が子に求める、平和な世の中ではあり得ない母親を、理想の母親とした軍国日本の美談のひとつであり、子どもたちの教科書に掲載された文章です。
でも、「軍国美談と教科書」中内敏夫著(岩波新書)を読むと、軍国日本の国家原理と民衆心理(現実の母親の思いその他)との間には、当然のことながら、どうにもならないギャップがあり、せめぎ合いがあったことがわかります。軍国日本の国家原理にもとづいて、意図的に作られた側面のある美談であったから当然のことではないかと思います。かつて、こうした文章が子どもたちの教科書に掲載され、軍国少女、軍国少年が育てられた時代があったことを忘れてはならないと思います。
沖縄県読谷村の洞窟「チビリガマ」を荒らしたとして、器物損壊容疑で逮捕されたのは、右翼ではなく沖縄の4人の少年であったという報道がありました。不都合な歴史的事実を、なかったことにしようとするような政治的背景はなかったようです。でも、語り継がれなければならない「集団自決」という歴史的事実を、沖縄の少年でさえ知らなかったというのであれば、それは日本の歴史教育の問題ではないかと思います。
下記は、「軍国美談と教科書」中内敏夫著(岩波新書)から抜粋しました。
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Ⅱ 軍国美談と民衆 ー 軍事教材改廃の歴史
2 せめぎ合う国家原理と民衆心理
(1) 軍国の母と岸壁の母 (教材「一太郎やあい」)
一期だけの運命
・・・
「一太郎やあい」は、発表当時、名作の定評があったのに、第三期(1918~32年)一期だけで命を終えた。廃棄されたのである。なにがあったのだろう。この教材の指導目標は、一読してわかるように、「水兵の母」と同じ軍国の母像である。目標の適合性や、無冠の平凡な母親が主人公という素材の適切さからいって、その民衆教育の教材としての適格性は疑うべくもない。「一太郎やあい」が教科書に載って全国に知られるようになると、一太郎に関するたくさんの伝記物、雑誌、新聞記事が巷間にあふれはじめた。橋本春陵著『一太郎物』(1921年)など、そのなかには、子どもむけの実話ものもあって興味深い。ひろい支持を国民各層からひき出すことに成功していたのに、文部省はなにゆえ、自らの手でこれを葬らなければならなかったか。目標に弱点はない。それは「水兵の母」同様、日本の国家原理と国民心性に深く根をおろしている。そうだとすると素材となったこの母子の実像の側に、有村母子以上の何か問題のあることが、国定教科書への掲載後に見つかったということだろう。
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第十三 一太郎やあい
日露戦争当時のことである。軍人をのせた御用船が今しも港を出ようとした其の時、
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
といいいい、見送り人をおし分けて、前へ出るおばあさんがある。年は六十四五でもあろうか、腰に小さなふろしきづつみをむすびつけている。御用船を見つけると、
「一太郎やあい。其の船に乗っているなら、鉄砲を上げろ」
とさけんだ。すると甲板の上で鉄砲を上げた者がある。おばあさんは又さけんだ。
「うちのことはしんぱいするな。天子様によく御ほうこうするだよ。わかったらもう一度鉄砲を上げろ。」
すると、又鉄砲を上げたのがかすかに見えた。おばあさんは「やれやれ。」といって、其所へすわった。聞けば今朝から五里の山道を、わらじがけで急いで来たのだそうだ。郡長をはじめ、見送りの人々はみんな泣いたということである。
(第三期 国語、七の十三)
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教材化されるまで ・・・略
美談の主探し
「一太郎やあい」が、軍国の母もの「水兵の母」と同性格の教材とされている点に注意したい。「一太郎やあい」が国定教科書にのると、例によって地元では美談の主探しがはじまる。「水兵の母」のときと同じ民間のうねりも面白い。同じことは、あとでのべる「木口小平」や「三勇士」にも起こっているのである。「一太郎やあい」のばあい、結局、地元の小学校長が探しあてたのを大坂朝日がとりあげ、1921年10月1日の同紙に「物語の主人公は生存」と報じた。
生存中の人物を国定教科書に偽名とはいえのせることは天皇家を除けば編纂例になかったことで、「生存」のニュースだけでも、関係者にはショックだったろう。ところが、生存中というだけならまだしもである。朝日新聞の記事は、こともあろうに、さらに小見出しとして、「今は廃兵の勇士が悲惨な生活」とつけ加え、軍国日本の暗い日常的側面を衆目にさらしたのである。明らかになったところによると、旅順攻撃に参戦した梶太郎は負傷して帰国し、善通寺予備病院で療養後、翌1905年再び同じ埠頭から出征する。このときも母かめは見送ろうとしたが巡視にとがめられ果たせなかった。このときの様子を、香川県の通牒は「カメ曰くよく巡査が此処で止めて呉れたこれから行ったら又第一回の出征の時の様な又悲しき別れをせねばならなかったと又曰く泣いて送るよりも泣かずに送るのが実に言うに言えぬ悲しいものだと」(「国語読本所載事項の原拠に関する香川県の通牒」『文部時報』五七号 1921年11月3日)と、のべている。
ここには、八波監査官の説明になる「一太郎やあい」の老婆像とはすこしちがった母親像がみられる。「うちのことはしんぱいするな」と叫んだはずの軍国の母の像はここにはなく、夫に去られたあと一人息子までを戦争にとられて悲しむ、ごく人間的な母が姿をみせる。梶太郎は二度目の出征でも死なずに転戦したのち、丸亀に帰還。妻をむかえ、母子三人の、相変わらずの貧しい生活を送っていT。ところが、帰還後二年たったころから負傷あとの痛みがひどくなり、また職場でかかった凍傷も悪化して両手の指六本を切断してしまう。一時賜金150円は手術代に使いはたし、指もないので「家業の如きも一日として勤め得ずし麦の粥をすすりて病床に呻吟すること前後十有三年」(前出香川県通牒)、一家心中まで考えることになる。
関係者のろうばい
このような、文字通りの「今は廃兵の勇士」の「悲惨な生活」は、「うちのことはしんぱいするな。天子様によく御ほうこうするだよ」と国定教材の母である岡田かめに叫ばしめた天皇の軍隊の約束ごとにまっこうから背反する。事実が新聞スクープによってあらわになったとき、教材「一太郎やあい」づくりに関与した係官たちがろうばいしたことはいうまでもない。八波監査官は、その講演会速記録『読本中心国語の講習』(1926年)に「自分は東京朝日で此の記事を見てぎょっとした」と正直にのべている。つづけてかれは、こう弁解する。
元来教科書には、現在生きている人の事は(天皇を除いて)成るだけ書かないことになっておる。で、此の文を草する時も、実は当人が生きているか否かを一応調査すべきであったかも知れない。しかし誰一人そんな事を考える遑はなかった。此の話を聞いたものは直ぐ起草した。此の文を見たものはすぐ採用した。確定し、発行して今日に及んだのである。」
・・・以下略
数々のびほう策 ・・・略
軍国の母と岸壁の母
多度津港西浜埠頭での岡田かめとその息子のやりとりの記録を、もう一度原典にさかのぼって読み直してみよう。国定教科書によれば、岡田かめは「うちのことは心配するな」云々と叫んだことになっている。ところが、問題の場面を最初に目撃し、これを記録した香川県第一部長の翌年一月時点での話はつぎのようになっている。(『文部時報』五十七号 前出<参考>欄収録文による)。
突然後方より岡本と叫ぶものあり。顧みれば六十歳計りの一老嫗、今将に十数間岸を離るる端艇中にありし一兵士なる其子を呼びしなり。其老嫗は粗衣垢面、一見貧家の寡婦たるを知れるが、直立凝視猶其声を続けて曰く、
「オカアは茲(ココ)に居る」
「しっかり遣(ヤッ)て来いよ」
「出征して帰れよ」(出征→出世?)
「オカアは待っている居るぞよ」
と言いしに、天なる哉母の声の耳に入りしと見え其子は高く銃を上げれば母は大いに悦び、
「御前の顔を見て安心したよ………もう一度銃を上げてくれ」
県官側の記録でも、最初の素材提供者の口述では、現実の岡田かめは「うちのことは心配するな」などとはいっておらず、ひたすら息子の無事帰還を「待っている」岸壁のはではないか。国定軍事教材化されたものと比較していえることは、全国数十万の軍国の母たちの現実の心情は、必ずしも、官製の軍国の母像のつくり手が要求しているような指導目標を担いきることができるものばかりではないということである。軍国日本の教育性は、こうして、その底辺部を担う層に入ってゆくや、またもたてまえだおれにおわり、この心情の壁が、教材「一太郎やあい」の命とりになったことになる。軍国の母像の敷衍という指導目標は、前項でものべたように、日本の母性社会原理に根を下ろした重要目標であり、文部省はそれに異議ありとしたのではない。いや、この重要目標を守り、傷つけないためも、「一太郎やあい」は葬らなければならなかったのである。
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