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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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戦陣訓 自決

2017年04月12日 | 国際・政治

 藤原彰教授によると、戦地における日本の軍人軍属の戦没者はおよそ230万名で、そのうち140万名を餓死とみることができるといいます(一般邦人30万、内地での戦災死者50万を加えると戦没者は全体でおよそ310万とのことです)。

 私は、「解説 戦陣訓」における、陸軍中将・岡村寧次の解説を読んで、なぜ、これほど酷い戦争を続けることができたのか、ということの答えを見出したように思いました。

 「解説 戦陣訓」において、「本訓第七 死生観」および「本訓第八 名を惜しむ」の項目の解説を担当した陸軍中将・岡村寧次は、資料1のように書いています(但し、漢字の旧字体は新字体に変えています)。
 岡村寧次は、「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬことが「崇高な戦陣死生観」であるといいます。また、一時捕虜となった空閑昇(クガノボル)少佐が「奮戦の想出深き地点で壮烈なる自殺を遂げたこと」を賞讃しています(空閑昇少佐の自決について詳細を知りたいと思ったのですが、空閑昇少佐に関する書籍が見当たらないため、「Wikipedia」で検索したところ、下記のような文章がありました)。

しかし空閑は中華民国の将校甘介瀾に救われ(甘は陸軍士官学校区隊長時代の空閑に教育指導を受けたと報道された)、一時は捕虜として真茹野戦病院に収容される。3月の日中捕虜交換によって身柄は上海兵站病院に移された。空閑は捕虜となったことを恥じ、部下らの戦没五七日忌にあたる3月29日、自らの部隊が奮戦した地点へ戻り拳銃により自決した。その死は美談として映画や小説等が作られた。1934年4月に靖国神社に合祀された。

 下記に抜粋した資料2の「戦陣訓は許すことなし」における「鈴木一等兵」同様、一時「捕虜」となった空閑少佐も生きることを望まず、自ら命を断ったのですが、岡村中将はそうした「自決」を賞讃しているのです。「戦陣訓」に書かれていることは、命を投げ出しても「皇国」の「(オシエ)」を守れ、ということなのだと思います。「皇国」の「訓」に従うということは、捕虜になってはならないということです。このような皇国の訓に従うことは”人命よりも尊い”ことなのだという考え方が、前線部隊や兵自らが降伏することを許さず、また、補給の不可能な戦地においてさえ、命を投げ出しての戦いを強いる無謀な作戦命令を出すことにつながったのだろうと思います。そして、それは七三一部隊における捕虜の「人体実験」や様々な部隊における、いわゆる「刺突訓練」で、初年兵に捕虜を突き殺させるというような人命軽視を生み出していったのではないかと思うのです。
 さらにいえば、特攻隊の戦死者第一号といわれる海軍大尉(戦死後に海軍中佐)「関行男」を、その死後、「軍神」などと称して畏敬の対象としましたが、同様のことが繰り返され、命を投げ出して戦った様々な兵士が「軍神」として靖国神社に祀られました。それは、「全滅」を「玉砕」などと美化して伝えることにもつながっているのではないかと思います。

 諸外国の軍隊では、命をかけて勇敢に戦い、食糧や弾薬が尽きて戦うことが不可能になったら降伏する、というのが常識で、何ら恥ずかしいこととは考えられていないため、捕虜の扱いや自決に対する考え方が日本とは根本的に違うのだと思います。だから、「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬことが、「世界のどこの軍隊にも見ることの出来ない崇高なる戦陣死生観である」などと主張するところに、日本の戦争の特殊性があり、そこにひそむ人命軽視の考え方が、数えきれない悲劇を生み出す結果につながったのだと思うのです。

 「皇国」の「訓(オシエ)」(戦陣訓)を、自らの命を投げ出しても守るべき「訓(オシエ)」した「皇国日本」の復活の兆しは、閣僚の靖国神社参拝にとどまらず、様々な法案の成立や憲法を変えようとする動きの中に感じます。そして、戦時中、父母が味わった塗炭の苦しみの話を思い出します。 

 下記資料2は「父の戦記」週刊朝日編(朝日選書212)より抜粋しました。こうした悲劇は忘れられてはならないことだと思います。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                   「天皇陛下万歳」を叫ぶ心
                                              陸軍中将 岡村 寧次
 本訓第七『死生観』― 戦陣に臨む将兵が哲学といふ程の死生観を持ってゐるわけではないでせうが、将兵の全部が日本精神に徹してゐるといふことはいひ得ます。大きな戦闘が始まる前、陣中の将兵は何を思ふかといへば、一様に、故郷の父母兄弟に、知友に、小学校の先生に、これが最後となるかも知れないと便りを書く。このことは孝道の現はれと見るべきです。そして、いよいよ戦ひに臨むと、中隊長は兵を想ひ、兵は中隊長を想ふ ― の一念に一致してしまふ。敵弾を受けて倒れた刹那、兵が口にする言葉は「陣地は奪(ト)れたか」といふことであり、最後に息をひきとる瞬間は「天皇陛下万歳」であります。内地などでよくいろいろの会合の時など「大日本帝国万歳」と唱へますが、 将兵が戦死する瞬間は「天皇陛下万歳」であります。このことは日本人の精神の中(ウチ)に天皇陛下の兵 ― といふ意識が潜在してゐるからで、この点、世界のどこの軍隊にも見ることの出来ない崇高なる戦陣死生観を持ってゐます。
 私の部下には、インテリ部隊と呼ばれた学士の兵隊が五、六百名はゐたでせう。かうした兵隊について心配しましたが、いざ戦ひに臨んでみると、いづれも立派な態度で戦ひ、戦死してゐます。日本は武士道の国であり、武士道は死ぬことを教へたものであります。悠久三千年に亘る祖先の血は、立派な日本精神として、我々の中に生きてゐることが、よく判ります。

 本訓第八「名を惜しむ」― 軍人として、絶えず念頭に置くべき訓(オシエ)であります。上海事件において、空閑昇(クガノボル)少佐が奮戦の想出深き地点で壮烈なる自殺を遂げたことは、今尚、世人の記憶に存するところであります。少佐の遺書の一節に「武士の本領として腹一文字と行きたかったが、軍刀は先の奮戦で刃がこぼれピストルを使用するのやむなきに至った」とあります。
 生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れこの項については、多くを語るを要しますまい。将兵の凡てが、空閑少佐の心意気を持って、戦陣に臨むならば「名を惜しむ」の項を冒涜するするやうなことは起こらぬでありませう。”
 

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    戦陣訓は許すことなし
                                                 平野 正巳
 昭和十六年、私たちの部隊は、北支那山東省の南西、河南省との省境に駐屯していた。川ひとつへだてた対岸は、共産第八路軍の政治工作の行届いたであって、わが部隊の動向は、たえず敵側につつぬけになっていた。
 私は部隊の主計として、糧秣、給与、酒保などを受けもっていたが、炊事係の兵隊に召集兵の鈴木一等兵がいた。炊事には人夫として、李、王、方の三人の現地人がいた。ともに二十歳くらいの青年であったが、私たちは便宜上、背の高い李を太郎と呼び、以下二郎、三郎と日本名で呼んでいた。中でも、太郎は主人(鈴木一等兵)思いで、行動は常に正しく、正義と人間愛に燃える青年であった。三人の中で一番教養もあり、日本語もよく理解していた。
 酷暑の八月、部隊は敵の一隊が対岸より十キロ離れたに集結していることを情報で知り、鈴木一等兵も急遽戦列に加わり、夜襲を敢行すべく出動して行った。
 敵は予想外の、われに十数倍する大部隊であり、わが方は数多くの戦死者と行方不明一名を出す大激戦であった。その行方不明が鈴木一等兵であった。

 鈴木一等兵は戦死したのかも知れない。しかし死体がない以上、行方不明として処理しなければならない。行方不明であっても、捕虜にはならないで、きっと戦死しているだろう。これが部隊幹部の希望的憶測であった。
 鈴木一等兵の行方不明を知った太郎は、声をあげて泣いた。炊事下士官に、早く救出してくれと嘆願し、私のところにも「何とかして、日本兵全部で探し出してくれ」といって来た。
「鈴木大人(ダイジン)には妻も子供もいる。その妻と子供のために探すべきではないか」と、しまいには私にくいつくような始末だった。私には兵を動かす指揮権はない。しかし、太郎の言葉が胸に強く響いたので、部隊長に進言した。
「太郎よ、私も小さくして父を失った。父のない子の悲しさは誰よりも私が一番よく知っている。だけれど、部隊長は兵隊を出すことを許可してくれない。だからあきらめてくれ」
と言うと、太郎は悲しい顔をしていた。太郎の国境を越えた人間愛に打たれて、私は思わず涙を流した。  
 太郎の父は県庁の要人であったが、共産軍に殺されたとのことであった。太郎が日本軍に入ったのも、何かそこに原因があったのだろうし、鈴木一等兵の子供に、父を失った悲しみを味わわせてはならないという人間愛も、己の体験に根ざした真実の叫びであったのだろう。
「太郎よ、鈴木がいなくたって、鈴木の妻や子供は手厚い国家の保護を受けて、不自由なく暮らせるのだから安心してくれ」
 私の言葉を聞く太郎の目から涙がこぼれ落ちていた。
「平野大人、この金を鈴木大人の家族に送ってくれ」と、太郎は大切にしまっていた三十円を私の目の前に差し出した。
 太郎の月給はたったの三円である。炊事場の片隅に寝泊まりして貯めたとはいえ、彼らの三十円は苦力(クーリー)として妻一人買える金額である。いつの日か妻を持ち、家庭を築きたいと、血と汗と涙で貯めた貴い金である。私は太郎の善意を断ったが、太郎も頑としてきかなかった。「太郎よ、ありがとう」私は声がつまって後の言葉が続かなかった。
 二郎も三郎も少しではあったが金を出した。私は部隊長室に太郎を連れて行った。部隊長も涙を流して太郎たちの金を受取り、礼を言った。
 この時の太郎は、鈴木一等兵をさがしてくれない憎しみの感情からなのだろうか、敵意を持った目で部隊長を見ていた。部隊長の言葉が終わると、太郎はハッキリとした日本語で「バカ野郎」といって逃げるように去り、そのまま部隊から姿を消して行った。
 太郎が去って十二日目の夕方、突然、二郎が私の部屋に来た。太郎が「ぜひ会いたい」といっているから来てくれとのことだった。
 薄暗い炊事場の裏に太郎が立っていた。 
 平家荘(ピンチャシャン)と言うに鈴木一等兵は捕虜になっている。大腿部骨折の貫通銃創を受けて、共産軍の手厚い看護を受けている。敵の主力部隊はすでに移動して、十二、十三人の敵兵の監視の中で治療している。二郎たち三人で救出に行ってくるから鉄砲を貸してくれ…とのことだった。
 私はびっくりした。生きているのは嬉しいことであるが、捕虜になっているのは悲しいことである。部隊長に話せば直ちに救出するであろうが、捕虜になった以上、せっかく帰って来ても、軍法会議で銃殺刑にされるのは必至である。戦死であるならば、鈴木一等兵の家族は靖国の妻として、子として、周囲からも暖かく迎えられるだろうが、銃殺刑に処せられた夫の遺骨を受け取った妻の悲しみはいかばかりか、それを考えるとどうすることも出来ない。
 日本軍隊には、捕虜になったら死ね…と言う戦陣訓がある。死ぬことが国家の至上命令なのである。
 私は迷った。しかし、太郎の必死の涙の嘆願で私の腹は決った。部隊長に黙って、私一人が救出に行こう。私は自分の拳銃を太郎に渡し、二郎と三郎に手榴弾を、私は兵隊の鉄砲を借りて布で巻き、支那服を着て兵営を脱出した。
 平家荘は三十戸に足りぬである。救出作戦はすべて太郎のいう通りにした。途中のを通過する時、太郎は適当なことを住民にいって、ようやく平家荘にたどりついた。
 太郎と二郎は敵の詰所(衛兵所)でしばらく話していたが、難なく通り過ぎた。私と三郎は詰所の裏の草ムラの中にひそんだ。太郎の拳銃の音とともに行動を起こす作戦だった。十分もたったころ拳銃の音がした。私と三郎は詰所に手榴弾を投げ込み、逃げる敵兵に銃弾を浴びせた。
 救出にかけつけた私を見て鈴木一等兵は、
「申し訳ありません」
といって泣いた。足には副木をあててあり、目は落ちくぼんで、顔はやつれはてていた。
 体の大きい太郎は、鈴木一等兵を背負って高梁(コウリャン)畑の中を走って行った。私たちは太郎が安全地帯に逃れるまで応戦した。
 夜の明けきらぬ内に部隊にたどりつき、鈴木一等兵を炊事当番室に寝かせた。
「鈴木、お前は捕虜ではない。重傷で動けなくなっていたのを親切な民家の人が助け、私たちが収容したことにする。だから決して捕虜になったのではない。従って軍法会議にはかけられない。お前は病院に収容され、名誉ある戦傷者として内地に送還されるのだ。安心してくれ」
 事実を知っているのは私だけである。私はウソをあくまでも通して助けるつもりでいた。
 まだ起床ラッパまで二時間もある。私は自分の部屋に戻った。部隊長にどんなふうに報告しようかと考えた。
 五時二十分、爆発音が窓ガラスを響かせた。胸騒ぎを押さえて炊事場に走った。鈴木一等兵はうつ伏せになり、腹に手榴弾をあてて自決したのだった。腸がちぎれ飛び手首が血の海の中に転がっていた。
 ―捕虜になって申しわけありません ― たったこれだけの遺書であった。
 せっかくここまで連れてきたのに … 太郎は死体に取りすがって泣いていた。やがて部隊長が来た。私は詳細に報告した。
「鈴木、よく死んでくれた。武人の花である」とほめたたえ、ニコニコしながら副官に、「行方不明を戦死と訂正するよう師団司令部に電報を打てと命令した。
 これを聞いた太郎は部隊長に向かって「東洋鬼(トンヤンキー)」と叫び、私に向かって「平野大人再見(ツァイチェン・さようなら)」と言って出て行った。そして二度と再び帰ってこなかった。
 ― 恥を知る者は強し。生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪科の汚名を残すことなかれ ―
 戦陣訓のこの一節は氷のごとく冷たく、一片の人間愛もなかった。二十八歳の鈴木一等兵は、このために自らの命を断ったのだった。
 太平洋戦争では二百五十万の若き命が、アッツ、サイパンなどに玉砕し、ニューギニア、ビルマなどでは食糧のない餓鬼地獄の中で散って行った。食糧、弾薬が尽きたなら、すでに戦いの責任は果たしたはずだ。降伏さえすれば、どのくらいの貴い命が助かったことであろうか。
 そして現在、よき父、よき夫として暖かい家庭の中に生きていることであろうか。
 思えば、この戦陣訓は憎みてもあまりあり、本人はもとより、遺族にとっても、痛恨きわまりなきものであった。
 いったい、だれがこの戦陣訓をつくったのだ。そしてこれを全軍に布告した者こそ、太郎のいう人命の貴さ、人間愛を知らぬ東洋鬼である。
 昭和十七年、日本は太平洋戦争の勝利に明け暮れていた。しかし、それとは逆に、われわれの部隊は激しい敵の攻撃を受け、多くの犠牲者を出していた。
 東洋鬼と叫んで去って行った太郎は、そのころ共産第八路軍の若き中隊長となっていた。そして豪胆、沈着、神出鬼没、東洋鬼を撲滅せよと、日本軍に激しい攻撃をかけていたのだった。
 あれから二十五年、現在、太郎が生きていれば、きっと中華人民共和国の大幹部になっていることであろう。
 そして火の玉のごとき正義感と、あの人間愛を持って、真に民衆のために働いていることであろう。

 

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