下記資料1と資料2は、いずれも「─実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」ティンバーリイ原著 訳者不詳(評伝社)に、付録として入っているものである。したがって、著者のティンバーリイ自身が書いたものではない。ティンバーリイ(H.G.Tinperley)は英国の新聞「マンチェスター・ガーディアン」の中国特派員であったが、1938年3月、こうした資料や報告書その他、「確実なる証拠」を「蒐集」して「外国人の見た日本軍の暴行」という一文を書いたという。それを入手した国民政府が3ヶ月後に日本文に翻訳して出版したという。
著者ティンバーリイはその「序」に
”…本書の目標は日本軍はいかに中国の民衆を取り扱ったかという事実を全世界に知らしめ、務めて真相の把握に努力して偏見なしに読者をして戦争の悲惨なる現実を明白に認識せしめ、かつ戦争の虚偽の魔力を剥奪することにある。特に後者は勲功を喜ぶ軍閥の忘れ得ぬ魔力である。”
と書いている。
昭和19年秋、中国視察を命ぜられて南京大使館を訪れた満州国政府外交部の官吏、榛葉英治(シンバ、エイジ1912年10月21日─1999年2月20日)は、その時、この日本語訳の本を見せられ、南京の実情を知った、と本書の解説に書いている。戦後、彼はある雑誌社の求めに応じて、こうした資料やその後の取材を基に、南京の残虐をテーマにした「城壁」という小説を書いたが、その作品は旧軍人の団体から申し入れがあり、掲載が中止されたという。しかしながら、雑誌「文芸」に原稿を持ち込んだところ、単行本として出版されることになり、世に知られることになったのだと書いている。
また、「教科書問題」等による日中の関係悪化を懸念していた榛葉英治は、秘蔵していたティンバーリイ原著の日本文訳「外国人の見た日本軍の暴行」を、評伝社から出版することに積極的に賛成したということも、本書の解説に書いている。
下記の資料1で、南京難民区の国際委員会が、連日、日本大使館宛に日本兵の暴行に関して抗議や要請をしていたことをがわかる。にもかかわらず、日本にはその実情は全く知らされず、下記資料2のような、国際委員会の書簡文とはかけ離れた南京の様子が報道されていたのである。ティンバーリイいうところの「戦争の虚偽」という言葉とともに、記憶に残したいと思う。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
国際委員会の書簡文
第7号文書(1937年12月18日付国際委員会発日本大使館宛公信)
拝啓 陳者貴国軍隊は難民区内にて引続き狼藉を働き全く安かならず20万難民は苦痛に呻吟致し居り候 当委員会は貴大使館を通じ貴国軍事当局に対し迅速且有効なる行動を採り不幸なる事態を阻止せられんことを御伝達相成様要請せざるを得ざる次第に候
暴行の報告は紛々として到来し縷述する暇もなき次第に候 昨夜当委員会委員ペテス博士は金陵大学宿舎に夜を過ごし随時避難し来る婦女約一千名の保護を準備致し居り候処宿舎前及図書館新家屋前には何れも憲兵は駐屯し居らず8時頃フィシェ及スミスの両君がミルス牧師を送りて金陵女子文理学院にて夜を明かし婦女子約4千名を保護致し候 3名は捜索隊に逮捕せられ1時間抑留せられ候 軍官は同校を管理するベードリン女史、陳夫人及び女友人ドウイナン夫人を校内に駆り立て氷付かせ頑強に校内に中国兵あり入って捜索し銃殺すべしと称し最後に軍官は3名の帰還を許したるもミルスは校内に有泊するを許されずその後如何なりたるや知り得ざる次第に候
16日貴国軍隊が司法部大楼より数百名を虜にし又警察官50名を虜と致し候 この程局勢を若し明澄にせざれば難民区内20万の市民の生命は絶対に保障無之候
婦女は蹂躙に堪えず紛々として金陵大学所属機関内に入り来たりて保護を求め男子は日々隔離せられ居り候 小桃源語学校の如きは12月は5日迄のところ始め男女難民600名ありたるもその夜多数婦女が強姦され婦女子400名は16日朝金陵女史文理学院に走り男子200名残留致し居り候 この方面はもと難民3万6千名を収容する用意ありたるも現在婦人多数移住し既に5万人を超過致し居り候
目下の状況より観るに住の問題は漸次重大となりつつあるのみならず食の問題及人夫募集の問題も困難を増し居り候 今朝貴方代表菊地君が当処を訪問し電灯廠工夫の募集方要求し来たれるも当処の職工すら外出し働きたがらざる次第に付御下命には応じ難き旨御伝申候 各収容所の米石炭の供給は何れも当処の西洋人委員及職員が積送の責を負い居り候 当処の食物管理委員会責任者は2日間住宅を一歩も離れ得ず 住宅設計委員会副主任は漢口路に23号の家にて日本兵が2名の婦女を強姦せるを目撃致し候 ソンナ君は米を送付する為南京神社学院中の難民2千5百名より離れざるを得ざりし処昨日白昼日本兵が同学院に闖入し前にて婦女多数を汚辱致し候 当地の外国居留民22名は20万難民を養い得ず又日夜彼等を保護し得ず右は日本当局の責任にて貴方が若し彼等を保護するに於ては当処は貴方と協力し彼等を養うべく候
更に貴国軍官が記憶に止め置かれ度きことは難民区の捜索に候 彼等は難民区をすべて便衣隊と認め居るも一部の中国兵が武装を解除し13日午後難民区に保護を求め来たれる件に付ては当委員会が屢次貴方に通知せるとこに候 凡ゆる中国兵が既に貴軍捜索隊に粛清せられ且累を数多市民に及ぼしたることによりても目下区内に中国兵なきことを敢えて保証いたし候 当委員会は茲に左記具体的建議を再び提出致し候
甲 士兵取締事項
一、憲兵は日夜難民区を巡邏す。
二、当委員は曩に各入口に兵を派し駐屯守備せしむる様要求せるが本件は未だ実行され居らず貴軍当局は士兵が難民区に闖入し(特に夜間)濫りに姦淫、慮掠、するを阻止する様可然御取計相成度し。
三、当委員会所轄の割合大なる収容所(19号附表参照)に兵を派し駐屯守備し士兵が塀を乗り越え入ることを阻止せられたし。
四、日本文の布告を発し各収容所の門前に貼付し収容所の性質を説明し内部に入りて狼藉するを禁止せられたし。
乙 捜索事項
一、貴軍捜索隊は当委員会所轄の各収容所に対し誤解し居るものの如し、貴軍は高級長官を派し当処派遣員と18カ所の収容所に同道せられ真 相を視察せられ度し。
二、難民区には既に武装を解除する中国兵なく従って便衣隊の襲撃事件も発生し居らざるにも鑑み各収容所私人住宅は既に幾回となく捜索せられ捜索はただ掠奪と姦淫の口実を与え居るを以て貴軍が若し常時憲兵を派し難民区を巡邏せしむれば中国兵はその身を容るる所なかるべし。
三、2、3日さえ平穏無事なれば米石炭を積送し得べく店舗は開かれ職工は働き重要なる公共事業は活動すべく市民は正常なる生活を恢復すべ し。
丙 警察事項
司法部大楼内の警察官50名その他志願警察45名は前後して逮捕せられたる件に関しては昨日当委員会より既に貴方の注意を喚起せる所に候 又最高法院内の警察官40名逮捕せられたること判明致し候 貴国軍官に司法部にてはこの種警察官の唯一の罪状は彼等が同処にて捜索せる後中国兵を引き入れたるを以て銃殺すと称し居るも実は寄る辺なき若干の市民婦女子を同処に送致したるものにして本件は当委員会西洋人委員が完全に責任を負うべく候 昨日当委員会は難民区内の警察官450名を改組し貴方の直接指導を受くべき旨建議致し候 逮捕せられたる警察官90名は従来の地位に復帰するものと深く信じ居り候
又逮捕せられたる志願警察官45名は貴方が当処乃至目下勤務し居る地点に送還するものと深く信じ居り候
上述の各項を御承引相成度 尚収容所表一部及び備忘録及一部相添え此段供高覧候 敬具
委員長 レーベ (署名)
附属一(1937年12月17日難民区収容所表)・・・ 略
附属二(司法部収容所事件の備忘録)・・・略
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第8号文書(1937年12月19日付国際委員会発日本大使館宛公信)
拝啓 陳者茲に「日本軍暴行報告」第16件より第70件迄同封御送付申上候 右は当処の知りたる一小部分に過ぎず、スパーリン、クロイゲル、ハズ及びリグスの4名は各々居所を追い出され貴国士兵に護送せられ家を出で一日多くの時間を消費致し候も彼等にはかかる事件を書き付くる暇無之候
本日の状況は平常通り劣悪にして本日貴国軍官一名が難民区内寗海路附近にて幾多狼藉せる士兵を取り捕えたるも右は決して根本的に問題を解決し得ざるものに候
レーベ君の家には避難せる婦女子300名あり一歩も離れ得ざるを以て御伺い出来ざる次第に候 貴方は直に18カ所の収容所及び鼓楼医院に兵を派し警備せられんことを希念致し候 かくて苦海中にも少なくともこの19カ所は比較的安全となり3分の1乃至4分の1の難民を庇護し得るものと存じ候
屡々御心労を煩し候段御寛容の程希上候 敬具
秘書 スミス(署名)
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第9号文書(1937年12月20日付国際委員会発日本大使館宛公信)
拝啓 陳御者茲に「日本軍暴行報告」第71件より第96件迄同封御送付申上候 26件の報告中14件は昨日午後夜及び今朝にかけて発生せるものにして状況は未だ改善せられ居らざるを知悉致し候
昨夜貴国士兵は金陵女子文理学院に入り婦女を強姦せるも(貴領事館警察官一名同所に駐在せり)金陵大学総院にては幸い事故発生せず。
当委員会は貴方に対し毎夜兵を収容所及び鼓楼医院に派し警備すると共に日中も金陵女子文理学院向い及び金陵大学運動場の粥厰に兵を派遣警備せらるる様茲に重ねて懇請致し候
当委員会の意見にては貴方が峻厳なる方法を採られ士兵を取締まるものと存ぜられ候も目下の処憲兵
の数は余りに少きを以て局勢に対処するに殊の外難しかるべしと称し居り候 敬具
委員長 レーベ(署名)
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日本側の報道を見よ
日本軍隊が南京を占領してから後の状況は日本紙にはほとんど登載されず、あるいは全然何も載せられなかったと言えるかも知れない。日本で出版された英字紙を見ても、日本軍の南京やその他都市におけるいろんな暴行は全然痕跡すら見出されない。日本紙は南京を、平和な静かな地方として粉飾しようと考えていたのである。1938年1月8日付上海新甲報(日本人が主宰する漢字紙)の左記報道を見られよ。
『南京市の街は依然として静寂である。慈愛の陽光は西北角の難民区に照り輝いている。死から逃れた南京の難民は今では皇軍の慰撫を受けているのだ。彼らは路傍にひざまずき感激の涙を流している。皇軍入城前には、彼らは中国の反日的軍隊の圧迫を受け病気が出ても医薬上の助けはなかった。飢えた人は一粒の米も粟も得られなかったが、もう市民の苦痛はなくなった。
幸い皇軍が現在入城して慈悲の手を伸ばし恩恵の露を散布している。日本大使館西方にいる難民数千名は以前の面白くもない反日態度を放棄し、生活が保障されたため群衆は楽しみ喜び合っている。男女老若は皇軍をひざまずいて迎え忠誠を現している。難民区では日本兵が難民にパン・ビスケット、煙草等を分け与え、難民は感激に溢れないものはない。日本兵は兵営付近で品物を贈っている。
同時に衛生隊も医薬と救済工作を開始した。眼の失明しかけている人は天日を見ることが出来、咳のひどく出る子供や両足の腫れ上がった老婆はいずれも料金なしで治療を受けている。難民は皇軍の恩恵を受けてから満面に悦びを浮かべ日本兵を囲んで「万歳」を高唱している。憲兵は一老人が路上で店を開いているのを見て、微笑みをもってこれに報いた。鼓楼から眺めると日本大使館近くには米国国旗が、西北方には英国国旗が、北方にはフランス国旗が、東方には「ソ」連の赤旗が翻翻と掲げられ、後湖の碧水に映えて趣を添えている。この中央には高く日章旗がそびえている。運動場には日本兵が中国の児童と楽しく遊んでいる南京ではただ安らかな生活に愉快な仕事の空気を呼吸することができる。全世界の人々は今後南京の発展に注意すべきである。』
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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:ブログ人アクセス503801)
twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI
googleから来ました。
関心領域が似通っているようにお見受けしましたので、ブログからリンクはらせていただいてもよろしいでしょうか。
ちなみにwikipediaでは活動されていますか?
私は少し編集した後で、無期限投稿ブロックになって今は地下?で活動中です。
BC級裁判について少し調べています。
ちなみに私はブログにネトウヨが差別コメント付けてきたときは、即削除して、場合によってはアクセスブロックするようにしています。見るのも不愉快だし、返答しても不毛だと思うので。
コメントありがとうございます。
>ブログからリンクはらせていただいてもよろしいでしょうか。
とのこと、OK です。
>wikipediaでは活動されていますか?
こちらは、まだ NO です。
>ネトウヨが差別コメント付けてきたときは、即削除して、場合によってはアクセスブロックするようにしています。
>今のところ頑張って対応していますが、今後はそうするかも知れません。
リンクはらせていただきました。