真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

問題ある日本の戦後補償 

2014年04月03日 | 国際・政治
 最近安倍政権によって提起され、議論されたり、今なお議論されている問題は大部分が日本国憲法の精神に反するものであるように思う。「国家安全保障会議(日本版NSC)」の創設問題や「特定秘密保護法」の問題、「集団的自衛権」の問題、「武器輸出三原則見直し」の問題などである。その他にも、靖国神社参拝問題や教育委員会制度見直しの問題、教科書の記述内容や採択をめぐる問題などもあり、日本の右傾化を懸念する声が、海外でもひろがっているようである。戦後69年を経た現在、中国や韓国から戦後補償の要求の声があがるのは、そうした日本の右傾化の動きと無関係ではないであろう。また、戦争被害者の補償がきちんとなされていないことも忘れてはならないと思う。

 ドイツと違って、日本では、戦時中の指導者層が戦後も引き続き政界や経済界、自衛隊などで活躍した。一時公職を追放された人たちも、米ソ冷戦の影響で、多くが復帰したのである。だから、政治家の「日本国憲法」に反するような言動や、海外では受け入れられないような、いわゆる「失言」が繰り返されてきたのであろう。安倍政権は、そうした戦時中の指導者層の考え方を基本的な部分で受け継いでいるのだと思う。

 日本の「戦後補償」の問題をふり返れば、戦後まもないころから、戦時中の考え方がそのまま受け継がれている部分があることがわかる。例えば、日本の戦争被害者に対する補償は、ごく一部の例外を除けば、軍人・軍属が対象である。「戦傷病者戦没者遺族等援護法」は民間人戦争被害者は対象としていない。また、連合国総司令部(GHQ)が廃止を指令した「軍人恩給」が、サンフランシスコ講和条約締結によって、日本が主権を回復すると間もなく復活したのみならず、その支給額が旧帝国軍隊の階級に基づいている。戦争責任のより大きな元軍人ほど、より多くの軍人恩給を給付されているのである。ドイツの戦後補償は、民間人戦争被害者も等しくその対象であり、軍人に対する補償に階級差などはないという。

 さらに、日本軍の軍人・軍属として戦場に駆り立てられた旧植民地出身の朝鮮や台湾の人たちが、国籍条項によって、援護法の対象から除外されていることも大きな問題ではないか、と思う。

 下記は、『「戦後補償」を考える』内田雅敏(講談社現代新書)から、記憶しておきたいと思った項目を、いくつか抜粋したものである。特に、─「殉国七士廟」が語るもの─には驚いた。
----------------------------------
            3 戦後処理と賠償・補償問題

2 諸外国との比較

 賠償を「値切った」日本
 これに対して日本は、前述した韓国に対する有償・無償の5億ドル、あるいはヴェトナム、インドネシア、マレーシア、ラオス、シンガポール、フィリピン、インドなどに対する賠償を合わせても、総額で6565億円、接収された「在外資産」約3500億円の放棄、およびサンフランシスコ講和条約締結前の中間賠償約1億6000万円を含めても1兆円超である。(中間賠償とは、賠償がなされることを前提として、そのうちの約30%分を、占領地あるいは日本国内にあった機械類などの物納として中国、フィリピン、イギリス、オランダなどに供与された)。しかも、この賠償は直接被害者に対して支払われるものではなく、時には彼の地の独裁政権を支えるために使われたり、あるいはその一部が日本の保守政権に環流されたりした。ドイツと比べると実に7兆円対1兆円ということになる。前述したようにドイツの場合は、今なおこの支払いを続けている。(佐藤健生拓殖大学教授、田中宏一橋大学教授らの研究による)


 日本の賠償が不十分なものであったことは、日本政府関係者も認めているところである。例えば大蔵省財政史室編『昭和財政史──終戦から講和まで』第1巻は、
「日本が賠償交渉でねばり強く相当の年数をかけて自分の立場を主張しつづけたことも結果的には賠償の実質的負担を大きく軽減させた。賠償の締結時期が遅くなった結果、高度成長期に入った日本は、大局的にみてさほど苦労せず賠償を支払うことができたのである。加えて時期の遅れは復興した日本が東南アジアに経済的に再進出する際の絶好の足がかりとして賠償支払や無償経済協力を利用するという効果をもたらした」
と記している。

 また、前述したように外務省の元高官・須之部量三氏も、「(これらの賠償は)日本経済が本当に復興する以前のことで、どうしても日本の負担を『値切る』ことに重点がかかっていた」のであって、「条約的、法的には確かに済んだけれども何か釈然としない不満が残ってしまう」ものであったと語っている。(「外交フォーラム」1992年2月号)
 そして、この不十分な賠償についてさえ日本は戦後アジアに対する再進出の足がかりとして利用したのである。当時、吉田首相は、「むこうが投資という名を嫌がったので、ご希望によって賠償という言葉を使ったが、こちらからいえば投資なのだ」と語ったという。


 外務省賠償部監修『日本の賠償』は、
「輸出困難なプラント類や、従来輸出されていなかった資材を、賠償で供与して“なじみ”を作り、将来の輸出の基礎を築くことが、我が国 にとって望ましいものである。」
 と素直に語っている。さらに、自民党政策月報1956年6月5日号も、「賠償は日本経済発展の特権である」と述べている。
 実はこの点については、ドイツの賠償・補償の場合にも同じような問題が起こりうるのでないかと思い、ボンの大蔵省の担当官にその旨質問してみたが、ドイツの補償はプラント類や資材の支給ではないのでそのようなことはない、という回答であった。


 日本人戦争被害者に対する補償
 このように日本の戦争賠償・補償は具体的な補償額を比較してみても、かつての「同盟国」ドイツと比べてきわめて不十分である。しかし、日本政府は日本人の戦争被害者に対する補償、いわゆる援護法による補償については、後述するような問題点があるとしてもそれなりに行ってきている。

 1945年11月、連合国総司令部(GHQ)が日本政府に対して軍人恩給の廃止を指令して以来、軍人恩給は廃止されていた。1951年9月のサンフランシスコ講和条約の締結を経て、翌1952年4月28日、日本は占領から解放され、主権を回復した。日本政府は国会の審議を経た上で、同年4月30日、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を公布し、同年4月1日にさかのぼり再び軍人恩給を支給することにした。同援護法第1条は「国家補償の精神に基づき、軍人、軍属であったもの、またはこれらの者の遺族を援護することを目的とする」としている。


 以後次々と援護法が制定され、その支給合計額は1993年3月末現在で約35兆円となっている。支払いのピークは1987年度であり、以降少しずつ減ってはいるが、年間2兆円近い金額が日本人の戦争被害者に対して支払われている。この35兆円(年間約2兆円)という数字と、前述した対外的な戦争賠償約6565億円(在外資産の放棄を含めても約1兆円)という数字を比べてみると、そのあまりに大きな差に言葉を失う。しかもこの援護法による補償はこれからも増え続けるのである。

---
日系米国人への謝罪と補償
 戦後補償は敗戦国だけの問題ではない。戦勝国アメリカにおいても1983年、レーガン大統領の時代に議会は、戦時中、日系米国人を適性国民として強制収容したことを誤りであると認め、その公式謝罪と補償についての勧告を採択した。勧告文は「それがここで起きたのだということが将来への警告として後世に伝えていかねばならないメッセージである」と述べている


 そしてその勧告を受けて1988年に「市民自由法」が制定され、日本政府を介さずに、直接被害者あるいはその遺族に対して金2万ドルがブッシュ大統領(当時)の謝罪文とともに手渡された。謝罪文には次のように述べている。
「金額や言葉だけで失われた年月を取り戻し、痛みを伴う記憶をいやすことはできません。また、不正を修正し、個人の権利を支持しようというわが国の決心を十分につたえることもできません。しかし、私たちははっきりと正義の立場に立った上で、第2次大戦中に重大な不正義が日系米国人に対して行われたことを認めることはできます」
「損害賠償と心からの謝罪を申し出る法律の制定で、米国人は言葉の真の意味で、自由と平等、正義という理想に対する伝統的な責任を新たにしました。みなさんとご家族の将来に幸いあれ」(1990年10月11日 朝日新聞)

 
・・・(以下略)

---
3 ドイツ企業の補償のあり方

日本企業の対応は?
 日本の企業の戦後補償ははどうであろうか。
 すでに述べたように日本政府は戦争中、約80万人から100万人の朝鮮人を、そして4万人の中国人を国内に強制連行し、強制労働させた。現在、この強制連行・強制労働について、その被害者あるいは遺族から、日本鋼管、三菱造船、不二越の3社に対して、未払い賃金の請求あるいは損害賠償請求等の訴訟が提起されている。
 これらの原告はいずれも韓国・朝鮮人である。中国人については訴訟になっていないが、花岡事件で知られる鹿島組での強制労働について、鹿島建設に対して補償請求等がなされていることは前述した。
 これらの補償請求されている企業のうち鹿島建設は、中国人被害者に対し、その非を認め一応謝罪をしたものの(ただし、補償請求そのものについてはまだ応じていない)、日本鋼管らの3社は、企業として国家の政策に従ったまでであり、なんら責任がないとしており、また、これらの問題は1965年の日韓請求権協定ですべて解決済みであるとしている。そして、さらに「時効」の主張すらしている。

 日本の国家としての戦後補償がドイツと比べて著しく不十分なものであることは繰り返し述べてきたが、企業の戦後補償についてはドイツの場合に比べ著しく不十分であるどころか、まったくなされていないのが実情である。日本政府の姿勢がそのまま反映しているのであろう。企業のイメージアップということを考えれば、この戦後補償の問題を積極的に解決したほうが得策だと思われるが、やはりドイツ企業の場合と同様、企業幹部の世代交代がないとこの問題はの解決はむずかしいのかもしれない。
 

----------------------------------
               4 戦後補償の核心と歴史認

2 記念館・記念碑に見る日・独の違い 

 「殉国七士廟」が語るもの
 ひるがえって、日本における戦争記念館はどうであろうか。それは広島の原爆ドームに代表されるように、そこには被害の歴史は刻まれているが、加害の歴史について刻まれているものはほとんどない。そればかりではない。あの戦争を肯定する記念碑等も多々あることに驚く。
 中部地方の小さな町、愛知県蒲郡市、その西のはずれに三ヶ根山という、山というよりはむしろ丘と呼ぶにふさわしい小さな山がある。三ヶ根という名前は、この山が、宝飯郡、額田郡、幡豆郡の3郡にまたがっているところからきている。この三ヶ根山頂の近く(公有地)に「殉国7士廟」なるものがある


 「殉国7士」とは、日本の敗戦後、東京裁判でA級戦犯として裁かれ処刑された東條英機元陸軍大将ら7名のことである。1960年、この地に「殉国7士の墓」が東京裁判の弁護人であった三文字正平らによって建てられた。盛土をし、その周囲を石で固めた広い台座が作られ、その上に「「殉国7士の墓」と刻まれた御影石の大きな墓が建てられている。墓の前には、建立の由来を彫った石碑が建てられ、そこには概要つぎのように書かれていた。
「東條英機元陸軍大将ら7士は、太平洋戦争の敗戦後、東京裁判において『平和に対する罪』という戦争当時は国際法上も認められていなかった事後法により裁かれ処刑された。この裁判は勝者の論理により裁かれたもので公正なものではない。彼は7士は処刑されることによってこの国の礎となった。今日の平和は彼ら7士の犠牲の上に成り立っているものであることを忘れてはならない」
 
実に堂々としたものである。"事後法による裁き"“勝者の論理による裁き”としっかりと理論武装もなされている。それは日本の中央ではなく中部地方の田舎町のはずれにしかこの墓を建立できなかった、という意味においては密かに、しかしその規模という面においては公然と、日本の東アジアに対する侵略の歴史の肯定と、勝者の裁判としての東京裁判批判が展開されている。
 近くには日・独・伊三国同盟締結当時の駐独大使で、東京裁判でA級戦犯として終身刑の判決を受けた大島浩が、処刑された7名を悼んで詠んだ漢詩を刻んだ石碑も建てられている。

 確かに東京裁判には指摘されるような不十分さはあった。アジアに対する植民地支配を行った欧米列強に、果たして日本の侵略を裁く資格があるのであろうかという根本的な問いもある。また個々のケースについても、例えば元首相・広田弘毅に対する死刑判決については疑問視する人も少ないくない。しかし、だからと言って日本の侵略責任が免責されるものではまったくない。戦争責任を考えるにあたっては、何よりもまず一番被害を受けたアジアからの視点を忘れてはならない。この「殉国七士の墓」には、アジアで2,000万人以上、日本で300万人という死者を出した、あの15年戦争に対する反省は微塵もない。あるのはただ東条英機元陸軍大将ら7名が、日本のために、天皇のために、その身代わりとなって処刑されたという”国土論”とでも呼ぶべき論理しかない。だからこそ、「殉国七士の墓」なのである。

 石碑の前にはさらにそれを守るかのように、俳優の鶴田浩二、横綱北の海、歌手のアイ・ジョージら「有名人」が連名で大きな石碑を建てている。あたり一面には「陸軍○○部隊」「海軍××部隊」といった石碑がずらり。あたかも従者として中央の「殉国七士の墓」を護るかのように配置されている。これらの碑は年々増えつつある。1984年にはこの地の入り口に「殉国七士廟」と書かれた高さ4.7メートル幅、奥行き1,7メートルもある巨大な御影石の門柱が2つ置かれるにいたり、文字通り大「霊園」を構成することになった(この「殉国七士廟」の揮毫者は元首相・岸信介である) 

 沖縄の摩文仁の丘にも似たこの大霊園に佇んで各々の碑文を眺めていて、あることに気付いた。それは姿こそ現していないが、この霊園の中心「殉国七士の墓」の上に君臨するものの存在についてである。「殉国七士の墓」、それに従う数々の石碑、これらが「御楯」となって守っているのは天皇および天皇制にほかならない。東条英機元陸軍大将ら7名のA級戦犯を「国士」とする理論は、当然のこととして彼ら七士の靖国神社への合祀につながり、さらに首相の靖国神社公式参拝へとつながるものである。

 

 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「…」は、文の一部省略を示します。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする