真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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牡丹社事件(宮古島民台湾遭難事件)と台湾出兵

2010年12月11日 | 国際・政治
 「宮古島民台湾遭難事件ー宮古島歴史物語」宮國文雄著(那覇出版社)には、牡丹社事件のかなり詳しい顛末が記されている。
 その事件は、1871年秋に発生した。宮古、八重山の春立船4隻(宮古船2隻、八重山船2隻)が首里王府に年貢を納め終え帰途についた時のことである。4隻とも12端帆の当時としてはかなり大きな船であったようであるが、台風に遭遇し、まるで木の葉のように波にもて遊ばれ離ればなれになって、宮古船の1隻だけが宮古島にたどり着いたという。八重山船の1隻は行方不明のままであり、結局、残り2隻は漂流の後、台湾に漂着したのである。八重山船は西海岸に漂着したため、すぐに台湾府に保護されたが、宮古船は、台湾の南端、八瑤湾(ハチョウワン)に漂着し、言葉の通じない「牡丹社」というパイワン族の村落に迷い込んで、54名もの人たちが殺害されることになったのである。
 
 八瑤湾(ハチョウワン)に漂着した宮古船には、頭職仲宗根玄安を含む19人の役人と、従内と称する士族の随行者11名、供と称する平民の随行者21名及び船頭を含む乗組員18名の合計69人が乗っていたが、まだ波荒く危険な状況の中、我先に伝馬船に飛び乗り上陸しようとしたため、3人が波にさらわれ、溺死することになったようである。

 無事に上陸を果たした66人は、何という島かも分からないまま彷徨い、2人の男に出会っている。そして、言葉が通じないために、意思疎通がうまくできないながらも、彼等を案内人としてしばらくついていったようである。しかしながら、持ち物を略奪されるなどしたため、途中で案内を断っている。そして、その2人が「西の方に行くと耳の大きな人が住んでいて人の頭を切り取る風習がある。だから南のほうに行く方が良い」と指摘していたにもかかわらず西の方へ向い、野宿をしながら進んでいる。

 たどり着いた村は、当時の蕃社の一つで、『高士沸(クスクス)』(現牡丹郷高士)といわれる首狩りの風習が残るところであったという。ここで食事を与えられ救助されたものと思っていると、まもなく持ち物をほとんど奪われる。異常な様子の村人や蕃刀を持つ男の挙動に不信をいだいた漂着者たちは再び逃げ出す。そして「凌老生(リョウロウセイ)」という言葉の通じる老人に出会い保護されるが、追ってきた高
士沸社と牡丹社の人々は凌老生に引き渡しを迫まる。凌老生は命がけで漂着者達をかばったようであるが、蕃社の人々は、次々に漂着者達を連れ出し殺害したようである。異常な事態に気づいた漂着者達は再び四散して逃げた。そこでも、凌老生は素早く9人をかくまっている。蕃社の人々の首切りは、凌老生が2樽の酒を出せなかったために始まったという。酒に代わるものをいろいろ提示して哀願したが次々に連れ出され殺害されたというのである。

 逃げ出した漂着者のうちの3人が、「鄧天保」という人の家に逃げ込み助けられている。鄧天保は3人から事の次第を聞き、すぐに生存者の捜索に当たり6人を保護している。そして、統捕に急行し、通事の「林阿九」に事の次第を話し保護を求めたのである。林阿九は早速救助にかかり、保力庄の総頭「楊友旺」に事件の報告をして保護を求めた。楊友旺は、9人を保護するとともに、残る人々の捜索に出かけて 、さらに2人を救助したのである。また、宮古人が蕃社の人に捕らえられ留置されているという情報を得て楊友旺はすぐに駆けつけ、私財を投じて救出したという。その後12名の人々を自宅に40日間保護し、衰弱している体力の回復を図る一方で、台湾府城へ送り届ける準備を進めたのである。

 その後遭難者達12名は、楊友旺の長男に付き添われて保力庄を出発、車城に至り、車城からは海路楓港に向かい、楓港からはまた陸路で鳳山県に向かったのである。鳳山県の役人に引き渡すまで漂流者達を世話した楊友旺は、大変な負担を引き受けたことになる。漂流者達は鳳山県を出発した後は、途中で一泊して台湾府城に到着しているが、ここで、台湾の西海岸に漂着し、季成忠という人に救助された八重山船の一行と合流している。そして、その後琉球館の保護を受け、約7ヶ月半後の明治5年6月2日福州を出発して6月7日那覇に戻ったという。

 この牡丹社事件(宮古島民台湾遭難事件)の報告を受けた鹿児島県参事官大山綱良は、すぐ明治政府に事件の詳細を報告するとともに、台湾の生蕃を征伐したいと申し出ているが認められていない。さらに、54名もの人々が殺害された琉球藩からは、できるだけ穏やかに事件の処理をしてほしいとの嘆願書が出されていた。にもかかわらず、日本は2年以上が経過した1874年に台湾に出兵(征討軍3000名)するのである。まさに帝国主義的領土拡張の口実に利用されたとしか考えられない。「宮古島民台湾遭難事件ー宮古島歴史物語」宮國文雄著(那覇出版社)より、そのへんの事情を考察した部分を抜粋する。
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                 第2章 台湾征伐
 第3節 征韓に代わるもの

 西郷などが征韓論に敗れ、政府の主導権争いから下野して後に政府の頭痛の種は不平士族の問題であった。その解決策の一つとして、外征に依る下級武士の救済が必要欠くべからざる事となっていた。外征に依って下級武士を軍人として雇用することに依り彼等の経済的窮状を救うことが出来るのである。加えて農民や職人及び商人等の不満の目をそこに向けさせ、その間に政府の足腰を鍛えておき権力基盤の確立を図る。そのための外征が必要であった。政府がここで着目したのが台湾征伐である。


 明治4年11月の宮古島島民遭難事件に端を発して、早くも明治5年には大山綱良等旧薩摩藩士や長州藩士、土佐藩士等の間に台湾征伐論が台頭してきた。特に鹿児島県の士族達の間には征台について熱心な者が多く、大山綱良に至っては自ら兵を率いて台湾征伐をしたいと政府に申し出る有様で、実に好戦的でさえあった。鹿児島県参事たる大山綱良にとっては一つには鹿児島県内の下級武士の救済がその目的であり、琉球藩民は鹿児島県から見れば彼等の支配下にある者達である。それを54名も殺されて黙っている訳にはいかないと言う訳である。

 ところが、琉球藩は、清国との交流が長く続いており、親しい間柄であるため、清国に対する配慮からことを穏やかに納めたいという思いがあった。琉球藩からは鹿児島県に対して又日本政府に対しても『生存者達は清国政府関係者によって厚遇された上に送りかえされて来たのだから、出来るだけ穏やかに事件の処理をしてほしい』という嘆願書が出されていた。政府は琉球の特殊事情を知っており、加えて清国との国交関係の悪化を恐れて、大山等に対し出兵を許可しなかった。しかし、この際、琉球の帰属ついては政府は断固たる意思表示をしなければならない時期でもあった。清国に対して早晩その事についてはっきりさせなければならないということは政府の基本方針となっていた。

 従来、琉球国は日清両属の国であった。すなわち慶長14年、薩摩の琉球国に対する武力侵略以来約300年間、琉球は薩摩の植民地的支配の属国となっており、国政全般に亘って薩摩の監督下に置かれていた。薩摩は侵略直後に検地を行い、琉球国全体の総石数を算定してそれをもとに課税し、毎年膨大な年貢を薩摩に納めさせていた。一方、薩摩の侵略はるか以前から代々中国との交易を行い、琉球国王は清国皇帝に依って代々冊封を受けて来た。そのため清国は琉球国にとっては親国的な存在であった。

 薩摩は侵略後も琉球と清国との関係はそのまま維持させ、その交易に依る収入を全て吸い上げるという寄生虫的支配を行って来た。もっとも薩摩の琉球侵略の目的の第1が、この清琉貿易の利益の略奪であった。寄生虫どころか強盗にも等しい所業に依って琉球住民を吐炭(塗炭?)の苦しみに追いやっていた訳である。

明治政府は、そうした諸々の事情から琉球は日本の領土であるとして維新後は琉球国を吸収合併するための諸々の施策を講じてきた。明治5年には琉球国を琉球藩と強制的に改めさせ、琉球国王尚泰を琉球藩王と改めさせた。
 こうして琉球国はその帰属をだんだん日本側に移されて行き、明治12年には一方的に琉球処分を行い、琉球藩をして沖縄県となし、正式に日本の一部として併合した。


 明治5年に大山綱良に依って提出された上陳書によって日本政府は琉球宮古島民の台湾遭難事件を知った。しかし、当時の日本国内は諸々の国内情勢に依り征台の挙に出ることは出来なかった。しかし、明治6年になると、下級武士達の処遇の問題や、国内の不平不満民衆の宣撫の為にも何等かの手を打って国民の目を国外にそらす必要に迫られていた。その他、対清国との外交問題が続出し、清国との交渉等で苦慮していた。政府は、ここで弱腰をみせる訳にはいかぬと腹を決め、強気の外交に転ずることになる。琉球藩民殺害事件は、まさしく良い口実を与えることになる。政府は清国に対し、この事件に関する問罪の師を派遣することを決議した。

 明治6年3月9日、明治天皇は副島種臣に勅語を賜り、問罪の為の全権大使として清国に派遣し、その審理をを行わしめた。……

 ・・・(以下略)

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