真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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泰緬鉄道建設工事における戦争責任-その1

2007年12月01日 | 国際・政治

泰緬鉄道建設工事における捕虜や東南アジア人労務者の酷使には
花岡鉱山や麻生鉱山と通じるものがあります。
 泰緬鉄道(タイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤ間約
415キロ)はビルマ経由の援蒋ルートの遮断とインド侵入のため
のビルマ作戦を進めるため大本営が1942年6月に建設命令を出
し、翌年10月に完成した鉄道です。この鉄道の建設工事は大本営
の強い早期開通要求で、常識では考えられないような突貫工事にな
りました。
 当初は、東南アジアの占領地に職業紹介所を設置し、労務者を募
集したようですが、労働条件の悪さが伝わり応募者が激減すると、
役人に命じて集落に一定の人数を割り当てたり、いわゆる「ローム
シャ狩り」や強制連行が行われたといいます。
 建設工事に動員された捕虜はおよそ6万5千人、労務者はビルマ
18万人、マレー8万人、インドネシア4万5千人で、地元タイや
その他を合わせると35万人を上回るといいます。
 この鉄道工事は難所が多く(架橋およそ300)また、悪性伝染
病の地である上に、補給体制の不備で、食料はもちろん医薬品や靴、
衣服などの補給が極めて少なく、「枕木一本、人一人」といわれる
ほどの犠牲者を出しました。犠牲者はイギリス、オーストラリア、
オランダを中心とする連合国の捕虜1万2千、東南アジアの労務者
およそ3万3千といわれています。(10万以上という説もありま
すが、実数は正確にはつかめないようです。Fフォースの捕虜の所
属する中隊の記録には、
・「食料は定量の五分の一、ほとんどが下痢をしている」とか
・「朝、お粥と薄いスープ、昼、お粥とコーヒー半杯、夜、お粥。
 『捕虜が身の置き所がないぐらい空腹だ』という。増水、膝まで
 の泥。」とか
・「捕虜560人中、作業に出られる者60人。『骸骨が靴をはい
 ている』。この日死者50人」
 などというようなことが書き留められているそうです。

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カンチャナブリー憲兵分隊勤務を命ぜられ、はじめて捕虜収容所の
矢来を訪れた時の様子を、永瀬隆氏は次のように書いています。
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「屋根の無い小屋(?)が点在しているだけである。床は大きな青
竹を真二つに割って、山形になったほうを上向きに並べ、壁は小竹
をこれまた並べて立ててあるだけである。青く、切り口のくさい臭
いのするごつごつした床の上に、びしょぬれになった毛布をそれぞ
れまとって、ブルブルふるえているのが病気の捕虜であった。身に
まとった一枚の毛布はすり切れてケバ立ち、しみこんだ雨が動くた
びに滲み出す。マラリア熱の発作で苦しんでいるのだ。そのような
熱発患者が3人・4人と肩を寄せ合って、ガタガタと身をふるわせ、
熱病患者特有の力のないうるんだ瞳で、絶望的に私に訴えかけてい
る。捕虜の将校がやって来て、周囲の状況を指し示しながら『どう
にかならないか』と哀願する。かたわらの日本軍下士官は『連れて
来てみたら、なんも設営の準備もしてなくて』と弁解していたが、
日本軍の小屋には屋根はあった。捕虜将校は『一週間前からこの状
態です。毎日雨ざらしになっているので、病人がどんどん増えて処
置しです』・・・」
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参考図書  ・-「戦場にかける橋」のウソと真実-
                 永瀬 隆
     ・泰緬鉄道と日本の戦争責任
       -捕虜とロームシャと朝鮮人と-
      内海 愛子、G・マコーマック、H・ネルソン(編著) 
          ・50年目の証言
       -アジア太平洋戦争の傷跡を訪ねて-
                 森 武麿 

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