真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京事件 『ラーベの日記』 No5

2015年12月19日 | 国際・政治

 『國亡ぼす勿れ-私の遺言』田中正明(講談社)「第一部、南京大虐殺はなかった」の中に、”ラーベ日記の虚妄 「南京の真実」は真実か?”と題する文章があります。その中に、下記のような気になる一節がありました。(この文章はhttp://www.history.gr.jp/nanking/rabe.htmlでも読むことができます)
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 ・・・
  筆者はこの2人の教授と違って、ジョン・ラーベの日記なるものを、むしろマユツバものでないかと見て、全然信用しようとは思っていなかった。
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というところです。そして、『ラーベの日記』の資料価値を高く評価した秦郁彦千葉大教授と笠原十九司宇都宮大教授を批判し、下記のように指摘していますが、私は的外れだと思います。
 なぜなら、田中氏の「重要事項の欠落」という「とらえ方」そのものが間違いではないかと思うからです。
 ラーベは、日記を書いたのであって、「南京事件」や「南京大虐殺」というテーマの歴史書や研究書を書いたのではないということです。
 南京安全区国際委員会の代表として、日々、安全区にの非戦闘員保護のために奮闘し、身の回りで起きている略奪や強姦、一般市民や武器を捨て戦う意志を持たない敗残兵の殺害を何とかしたいと思いながら、日記を書いていたのです。そう言う意味で、『ラーベの日記』は一貫しています。
 したがって、田中氏が挙げた4つの項目は、それぞれに問題を含んでいると思います。一つずつ考えたいと思います。まず、1で、田中氏は、 
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重要事項の欠落
つまり、両著ともにいわゆる「日記」ではなく、ラーベが目撃した事実をそのまま記述したものでもない。
  その多くは、他人から聞いた内容、あるいは推測等によるラーベの後日の「創作」なのである。
  それよりもまず第一に、日記と称しながら肝心な事項が欠落している点である。
  それも虐殺否定につながるような重要事項をことさらに避けているかにみえる。

 1、国際委員会は安全区を「非武装中立地帯」にするよう日本軍に申し入れたが、12月5日、日本軍は米国大使館を通じて、公式にこれを拒否した。その理由は次の3点である。

A、南京自体が1つの要塞と化しており、しかも安全区はその中心部にあたるが、そこには何らの自然の障害物もなく、境界も判然としない。
B、政府要人や高級軍人の官邸が多く、いかなる兵器や通信機器が隠匿されているやもはかり難い。
C、委員会自体が何ら実力を有せず、武装兵や便衣兵を拒絶するだけの厳正な中立態度を望むことは困難である。(注1)

 ラーベ日記には、このことは全然触れていない。
  ただ12月3日の日記に、『安全区内の三ヶ所に新たな塹壕や高射砲台を配置する場が設けられている。
  私は唐生智の使者に、「もしただちに中止しなければ、私は辞任し、委員会も解散する」とおどしてやった。
  するとこちらの要望通りすべて撤退させると文書で言ってきたが、実行には少々時間かかるという但し書きがついていた』とある。
  日本軍の危惧を裏付けている
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 と書いています。でも、ラーベにとって、問題は、前述したように日本軍の情勢分析や「非武装中立地帯」に関する日本軍のとらえ方や考え方ではなく、目の前の現実です。だからラーベは、12月2日にすでに、次のように書いています。
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 フランス人ジャキノ神父を通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。
電報 1937年12月1日 南京大使館(南京のアメリカ大使館)より
11月30日の貴殿の電報の件
以下は、南京安全区委員会にあてられたものです。
「日本政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちをい犯そうと、当局はいささかの隻も負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しないかぎりにおいては、当該ちくを尊重するよう、努力する所存です」
 ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりと拒絶とみなしている。だが我々の意見は違う。これは非常に微妙な言い方をしており、言質をとられないよう用心してはいるが、基本的には好意的だ。そもそもこちらは、日本に「中国軍の過ち」の責任をとってもらおうなどとは考えてはいない。結びの一文「当該地区を尊重するよう、努力する所存…」は、ひじょうに満足のいくものだ。
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 したがって「ラーベ日記には、このことは全然触れていない」というのはちょっと違うのではないかと思います。確かにラーベは、「非武装中立地帯」の申し入れに対する日本軍の拒否理由については、その詳細を記していません。でも、「当該地区を尊重するよう、努力する所存…」という結びの一文に着目し、評価して、「非戦闘員保護」に望みをつないでいるのです。
 2で、田中氏は  
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 2、12月9日、松井軍司令官は休戦を命じ、城内の唐生智軍に「降伏勧告のビラ」を空から全市にばら撒いて講和を呼びかけている。
  その間攻撃を中止して、10日正午まで待機した、そして唐生智司令官の使者を中山門で待った。
  しかるにラーベの12月9日の日記には、『中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区内に響いている。
  明かりが消され、暗闇の中を負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える・・・』全然「降伏勧告のビラ」も休戦のことも触れておらず、戦闘は続いていたことになっている。
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 松井軍司令官が、占領翌日の14日に、「安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可無き者の入区を禁止」すると約束したことについては、12月15日に「司令官からの返事は、次の議事録に記されている」というかたちで触れています。「このこともラーベ日記にはない」というのは、ちょっと違うと思います。そして、ラーベにとっての関心事が、とにかく身の回りでおこる略奪や強姦、「非戦闘員」殺害などの事件であり、現実の問題であったことを忘れてはならないと思います。
 ラーベが詳細に記述した、そうした日々の出来事を、根拠なく”後日の「創作」”と決めつけるのもいかがなものか、と思います。
 ラーベにとっては、「非戦闘員の保護」に直接結びつかない日本軍および中国軍の作戦やその展開、公式上の約束などは、当面、日記に記述するような問題ではなかったのではないかと思います。したがって、日本軍の「降伏勧告のビラ」や「休戦」について、ラーベが日記に何も書いていないことは、現実に様々な事件が発生していれば、それほど不思議なことではなく、「重要事項の欠落」などというようなものではないと思うのです。ラーベは戦争のどちらか一方の当事者ではないのです。だから、「戦い」そのものに関しては、努めて中立的な立場をとっていたし、その成り行きにもあまり関心を示してはいません。
 3で、田中氏は、
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 3、「支那軍による焼き払いの狂宴」と題してニューヨーク・タイムズのダーディン記者は次のようにレポートしている。
  「12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。(中略)南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。・・・農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた(中略)支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい・・・」要するに蒋介石の「空室清野作戦」である。
  同じ国際委員会の一人である金陵大学教授のベイツ博士(米)も東京裁判の証人として出廷し、この城壁外市街地の焼き払いのすさまじさについて述べている。(AⅠ=212ページ)しかるにラーベの日記にはこれについてほとんど触れていない。
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 と書いています。そうでしょうか。確かにラーベは中国軍の「空室清野作戦」の詳細は書いていません。でも、12月8日の記述の中で、中国軍を非難しつつ
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 何千人もの難民が四方八方から安全区に詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている。貧しい人たちが街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まるところがみつからない家族が、日が暮れていくなか、この寒空に、家の陰や路上で横になっている。われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにもみえないのだ。城壁の外はぐるりと焼きはらわれ、焼け出された人たちがつぎつぎと送られてくる。われわれはさぞまぬけに思われていることだろう。なぜなら、大々的に救援活動をしていながら、少しも実が挙がらないからだ。                              ・・・
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と書いています。やっぱり「ほとんど触れていない」というのはちょっと違うと思います。繰り返しますが、ラーベは戦争の一方の当事者ではなく、非戦闘員保護を目的とする南京安全区国際委員会の代表です。日本軍や中国軍の作戦やその展開の詳細が問題ではないのです。「非戦闘員を、安全区できちんと保護する」という観点から、中国軍の「空室清野作戦」を見ていることを見逃してはならないと思います。
 4で、田中氏は
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4、日記には、蒋介石や馬超俊市長が12月7日に飛行機で逃亡し、守備司令官唐生智が12日に逃亡したことは記述しており、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして逃亡したその無責任ぶりについては若干ふれている。
  松井軍司令官は、安全区を中立地区とは認めなかったが、この安全区の砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可無き者の入区を禁止して庇護した。
  このこともラーベ日記にはない。南京一番乗りで有名な脇坂次郎大佐が、14日、安全区視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒(しゅんきょ)されて果たせなかったことを、大佐は東京裁判で供述している。
  それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのである。
  しかるにラーベの16日の日記によると『今ここで味わっている恐怖に比べれば、今までの爆弾投下や大砲連射など、ものの数ではない。
  安全区外にある店で略奪を受けなかった店は一件もない。いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区内にも及んできている、外国の国旗があろうがなかろうが、空き家という空き家はことごとくこじ開けられ、荒らされた。』とその暴虐ぶりをるる述べている。
  ラーベの日記には『局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人さえ何度も暴行されているのだ』とあるが、強姦のあと「局部に竹を突っ込む」などという風習は、支那にあっても、日本には絶対ない。
  また、ラーベは『日本兵はモーゼル拳銃をもっていた』というが(318ページ)当時日本軍にはモーゼル拳銃など一丁もない。
  支那兵の間違いである。アメリカの南京副領事館エスピー氏は東京裁判への提出書類の中で次のごとく述べている。
  「ここに一言注意しおかざるべからざるは、支那兵自身、日本軍入城前に略奪を行いおれることなり。最後の数日間は疑いなく彼らにより人および財産に対する暴行・略奪が行われたるなり。支那兵が彼らの軍服を脱ぎ常民服に着替える大急ぎの処置の中には種々の事件を生じ、その中には着物を剥ぎ取るための殺人をも行いたるべし」(AⅠ=290~1ページ)
  ラーベの日記にはこうした数千人の敗残兵が安全区内に闖入(ちんにゅう)し、常民の衣服を奪うため殺傷したり、略奪・暴行のかぎりをつくし、殺人まで犯した、などという狼藉のことなどは記述してない。
ーーー
 まず、田中氏は「松井軍司令官は、安全区を中立地区とは認めなかったが、この安全区の砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可無き者の入区を禁止して庇護した
  このこともラーベ日記にはない
というのですが、現実には多くの被害が発生し、「庇護」できていなかったということを見逃しているとうことです。松井司令官自身がそのことを指摘しています。
 「戦争の流れの中に」前田雄二(善本社)のなかに、12月18日、故宮飛行場で行われた陸海軍の合同慰霊祭における松井司令官の訓示が紹介されていますが、松井司令官は、
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 「諸君は、戦勝によって皇威を輝かした。しかるに、一部の兵の暴行によって、せっかくの皇威を汚してしまった」
 「何ということを君たちはしてくれたのか。君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった」
 「諸君は、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に保ち、絶対に無辜の民を虐げてはならない。それ以外に戦没者への供養はないことを心に止めてもらいたい」
ーーー
と言っているのです。
 また、田中氏は”強姦のあと「局部に竹を突っ込む」などという風習は、支那にあっても、日本には絶対ない”というのですが、そういう野蛮なことが、中国では風習として行われていた、ということがあるのでしょうか。日本人だけは、そういうことはやらないという根拠はなんでしょうか。ニューギニアやフィリピンのネグロス島などで発生した日本兵の人肉食事件なども、風習で説明できるでしょうか。
 さらに、「ラーベは『日本兵はモーゼル拳銃をもっていた』というが(318ページ)当時日本軍にはモーゼル拳銃など一丁もない
というのも、根拠が必要です。逃げ遅れた中国兵の多くは武器を捨て、軍服を脱ぎ捨てました。日本兵が「モーゼル拳銃」を手にいれることは、難しくなかったのではないでしょうか。さらに、「数千人の敗残兵」が「常民の衣服を奪うため殺傷したり、略奪・暴行のかぎりをつくし、殺人まで犯した」という指摘にも、少々違和感があります。「略奪・暴行」があったことは事実でしょうが、「略奪・暴行のかぎりをつくし」や「殺人まで犯した」というのであれば、推察ではなく、根拠を示す必要があると思います。
 ラーベはそうした極端な事実ではありませんが、部分的にそうした中国兵の犯罪的な事実も記述しています。
 また、田中氏は
ーーー
「安全区」は平穏無事であった

 もう一つ重大な欠落がある。国際委員長であるジョン・ラーベは委員会を代表して次のような感謝の書簡を日本軍司令官におくっている。(12月14日)
  「拝啓、私どもは貴下の砲兵隊が安全区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下(松井軍司令官)と連絡を取り得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」(速記録210号)
  ラーベの日記には、この自分が書いた日本軍に対する「感謝の書簡」について一行もふれていないということは、一体どうしたことか?反対に日本軍は暴虐の限りを尽くしたと言い、編者ビッケルトはこれを補足して『便衣兵狩りが一般市民を多く巻き込み、大虐殺を生んだとの見方がある。ともかく、日本兵は安全区まで入り込み、殺戮を繰り返したのである』と書いている。
ーーー
 と書いていますが、「感謝の書簡」について、ラーベが日記でふれていない理由は、下記のようなヒトラーへの上申書に添えられた文章で、察することができるように思います。ラーベは、「非戦闘員の保護」に取り組みつつも、日本との関係を悪化させてはならないと気をつかっていたのです。
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 ぜひ申し上げておきたいのは、私は日本人に感謝してもらわなければならないということです。といいますのは、南京難民区の国際委員会が日本大使館へ提出しなければならなかった数多くの苦情や抗議書を出すにあたり、その代表として私は当初から手加減するよう心がけてきたからです。その理由は、ほかでもない、私がドイツ人だからです。ドイツ人として、私は同盟国である日本との友好関係を維持したいと望みましたし、またそうしなければなりませんでした。その結果、親しくしていたアメリカ人の委員会メンバーの間で、「抗議書を発送する前に、ラーベさんにすこし手心を加えてもらっておいた方がいいよ」といわれるまでになりました。それでも、日本大使館あての書状が2、3きわめてきびしいものになったのは、日々繰り返される日本兵の殺人、略奪、傷害、放火のあまりのすさまじさに、そうするよりなかったからです。
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 また、ラーベは12月5日に、下記のように書いています。非戦闘員を保護するために、懸命に頑張っていたことがわかります。ラーベにとっては、非戦闘員を保護こそが大事であって、決して中国軍の立場に立っていたのではないということです。
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 ベイツ、シュペアリングといしょに、唐司令官を訪ねた。なんとしても、軍人と軍の施設をすぐに安全区から残らず引き揚げる約束をとりつけなければならない。それにしてもやつの返事を聞いたときのわれわれの驚きをいったいどう言えばいいのだろう!
 「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」だと? そんなばかなことがあるか! それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではないか。そうなったら当面、「安全区」の名をつけることなど考えられない。せいぜい「難民区」だ。委員会のメンバーでとことん話し合った結果、新聞にのせる文句を決めた。なにもかも水の泡にならないようにするためには、本当のことを知らせるわけにはいかない。

 

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