真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ナチズムとシオニズム NO1

2024年05月19日 | 国際・政治

 憲法は、日本がアジア太平洋戦争で大変な犠牲者を出したことを踏まえ、国民が制定した憲法によって、国家権力を制限し、国民の権利や自由を守るため、国家権力に縛りをかける法律として制定されたといわれます。ところが、現在、自民党政権はいろいろな部分で、国家権力が国民を縛る法律として憲法を機能させられるようにしようとしていると思います。

 同じように国際社会では、二度にわたる、”言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救う”ために、”国際法の基本的な規範である国際連合憲章において、武力による威嚇や武力の行使は、国際紛争の解決手段として禁止”すること、その他を決定しましたが、現在その国際連合憲章は、事実上、反米や非米の国々を縛る国際法として機能するようになってきていると思います。
 アメリカやイスラエルの国際法違反は見逃され、非米・反米諸国を裁き、制裁を加えるための国際法になっているように思うのです。
 だから、先だってパレスチナの国連加盟を支持する決議案採択で、イスラエルのエルダン国連大使が、「テロ組織に国家の権利を与えようとしている」などと非難し、小型のシュレッダーで、国連憲章が書かれた紙を公然と細断するようなことをしたのだと思います。

 下記は、「アラブとイスラエル パレスチナ問題の構図」高橋和彦(講談社現代新書)からの抜萃ですが、パレスチナにおけるイスラエルの蛮行は、国連憲章採択後もまったく裁かれることなく、見逃されてきたと思います。第一次中東戦争での事実上の勝利によって、イスラエルは、当初の国連による分割決議より広大な地域を占領する事となりましたが、これは明らかに国連憲章違反だと思います。
 また、高橋氏も書いていますが、
”…「国のない民へ、民のいない国を」というキャッチ・フレーズのもとに、ユダヤ人のパレスチナへと流れが数を増した。だが、そこは「民のいない国」などではなかった。パレスチナ人の居住地であり、イスラム教徒とキリスト教徒、ユダヤ教徒が長年にわたって共存してきた土地であった。ちなみにシオニストの移住が始まる前のパレスチナにおけるユダヤ教徒の数はどう多めに見積もっても2万5千程度であった。そこにヨーロッパのユダヤ人がやってきて自分たちの国を建てるなど土台無理な話であった。

 パレスチナに移住したユダヤ人は、当初、パレスチナ人から土地を買って住みついたようですが、国際法に従えば、当然、すべてのユダヤ人が、そうやって土地を買って、パレスチナ人と共存するかたちで、住みつくべきであったと思います。にもかかわらず、ホロコーストやポグロムから逃れ逃れてきたユダヤ人は、カナンの地は神がユダヤ人に与えると約束した土地であるとして、パレスチナ人を排除し、土地や家や畑を強奪するかたちで、1948年5月14日に独立宣言を行ったのです。そして、最終的には、武力を行使して国連の分割決議をはるかに上回る、パレスチナの領土の77パーセントをイスラエル領土とし、パレスチナ人を隔離壁でガザ地区やヨルダン川西岸地区に閉じ込めてしまったのです。
 だから、旧約聖書を持ち出し、カナンの地からパレスチナ人を排除して、イスラエルという国を建国したシオニズムの発想は、汚らわしいユダヤ人をドイツから排除しようとしたナチズムの発想と変らないのだろうと思います。
 そして、ガザ地区に対し、「ハマス殲滅」を掲げつつ、事実上、パレスチナ人殲滅・追い出しの攻撃を続けるイスラエルのネタニヤフ首相は、戦闘終結後も、ガザ地区やヨルダン川西岸地区のパレスチナ人を自由にし、人権を保障することはないと思います。
 それは、アメリカをはじめとする西側諸国が、これまで、イスラエルの数々の国際法違反を許容してきた結果だろうと思います。

 下記の動画の応答も、明らかに国際法違反すが、不思議ではないのです。

「パレスチナ人を何人殺した?」

「20人......パレスチナ人じゃなくてハマスだ。ガザにいる連中は市民じゃなく全員ハマスだ」

「ガザにいるのは市民じゃなくて、ハマスという認識か?」

「そうだ、全員ハマスだ」

「100万人の子供がガザにいるが、彼らもハマスか」

「......そうだ」

「そうだ、全員ハマスだ」”

 これが、フェイクでないことは、ネタニヤフ首相をはじめとするイスラエルの政治家の発言や、ガザの実態が示していると思います。
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                 一 パレスチナへ
               ユダヤ人国家イスラエルの成立

 ドレヒュース事件の衝撃
 ・・・ 
 ヘルツルは、自らの考えを「ユダヤ人国家」というパンフレットにまとめ、1896年にオーストリアのウィーンで出版している。ヘルツルの考えに同調する人々が集まり、ユダヤ人国家を建設しようとする運動が開始された。
 当初からこの運動がユダヤ人国家をパレスチナに建設しようとしていたわけではない。ユダヤ人が独自の国を持てればよいということで、その候補地として、たとえばイギリスの植民地であった東アフリカのウガンダなどもあげられていたほどである。しかし、やがてヘルツは、国家建設の土地としてパレスチナを選ぶことになった。それは、そうしなければユダヤ人のうちでも宗教的層の支持を得られなかったからである。

シオニズムと帝国主義
  自分たちの祖先の地と 彼らが考えたエルサレムの古い名称であるシオンの丘に因なんで、この運動は「シオニズム」として知られるようになった。そして、その推進者たちは「シオニスト」ということになる。「国のない民へ、民のいない国を」というキャッチ・フレーズのもとに、ユダヤ人のパレスチナへと流れが数を増した。
 だが、そこは「民のいない国」などではなかった。パレスチナ人の居住地であり、イスラム教徒とキリスト教徒、ユダヤ教徒が長年にわたって共存してきた土地であった。ちなみにシオニストの移住が始まる前のパレスチナにおけるユダヤ教徒の数はどう多めに見積もっても2万5千程度であった。
 そこにヨーロッパのユダヤ人がやってきて自分たちの国を建てるなど土台無理な話であった。しかし、その無理が無理とも、無茶が無茶とも思われないような知的雰囲気が当時のヨーロッパには充満していた。19世紀末から20世紀初頭は、民族主義の高まった時期であったのと同時に、帝国主義の時代でもあったのだ。つまり、圧倒的な軍事力でアジアとアフリカをヨーロッパが制圧した時期であった。
 そのため、アジアやアフリカなどヨーロッパ望みさえすればどうにでもなるとの思考が強かった。シオニズムもこうした時代精神の落とし子であった。さもなければ、現実にパレスチナ人の住んでいる地域に自分たちの国を作るなどといった発想が出てくるはずもなかった。当初、東アフリカにユダヤ人の国を建てるとの案が出てきたのも、そうした思考の反映であった。
 シオニズムが始まった頃、パレスチナを支配していたのはオスマン帝国であった。したがってシオニストは、当初はイスタンブールのスルタンの許可を得て、パレスチナへの移民を進めようとした。たとえば1899年に、ヘルツルは、スルタンの許可を求めた手紙の中でユダヤ人はアラブと平和的に共存し、オスマン帝国の忠誠な臣民になるだろうと述べている。

 この翌年の1900年におけるユダヤ人の比率は、シオニストの努力にもかかわらず。パレスチナの総人口の1割にも満たなかった。
 第一次世界大戦の始まった1914年においても、人口比は同じようなものであった。ユダヤ人8万5千に対し、パレスチナ人70万がいた。前者の所有する土地はパレスチナのわずかに2%であった。そして、第一次世界大戦においては、オスマン帝国は、ドイツ、オーストリアの同盟国側について参戦した。このためイギリスは、オスマン帝国の後方攪乱を狙った。オスマン帝国のアラブ地域で反乱を起こさせたのである。 
 メッカの有力者、シャリーフ・フセインとのあいだにイギリス政府は書簡を交換し、戦勝後のアラブのオスマン帝国からの独立を約した。そして、そのアラブの独立国の領土には、パレスチナが含まれるはずであった。これは書簡を交換したイギリスの高官とフセインの名前をとって、「フセイン・マクマホン書簡」として知られる。この約束を受けてフセインは、イスタンブールに対しては反旗を翻した。1916年6月のことであった。
 「アラブの反乱」として知られる事件であった。この時に「アラビアのロレンス」として知られるイギリスの情報将校が歴史に登場した。だが実際は、ロレンスは単なる連絡係にすぎず、映画化されたように重要な役割を果たしたのではなかったようだ。

 土地を売り渡したパレスチナ人
 その後の1917年11月2日にイギリス外相バルフォアは、世界のユダヤ人の支持を求めて、宣言を発した。戦争後にパレスチナにユダヤ人の「ナショナル・ホーム」を樹立することを認めた。「バルフォア宣言」であった。
「ナショナル・ホーム」とは主権を持った国家ではないものの、その道程にある政治的存在である。つまり、イギリスは、同じ土地をアラブとシオニストの両方に約束したわけであった。
 そして、戦争が終り、オスマン帝国のアラブ領土の分割が始まると、結局イギリスが、パレスチナを国際連盟の委任統治領として、自ら支配することにした。これで、シオニストにもアラブにも不公平が生じなかった。紳士の国イギリスならではの三枚舌外交であった。
 委任統治の時代に入っても、「ナショナル・ホーム」樹立の約束を盾に、シオニストの流入は続いた。そして、パレスチナにおける自らの将来に不安を高め始めたパレスチナ人の反発が激しくなってくる。
 ここで指摘をしておきたいのは、ユダヤ人のパレスチナへの流入が土地の買収を通じて行われたことだ。パレスチナに土地を所有する不在地主たちがシオニストに土地を売却した。また、パレスチナ人の政治家や有力者たちの中には、口ではシオニストに反対しながらも、実際には金のために土地を手放した者もいた。  
 シオニス組織は、世界のユダヤ人からの寄付を募り、その資金はパレスチナでの土地の購入にあてた。1937年までにパレスチナの5.7%の土地がシオニストの手に渡っていた。これがシオニスが、パレスチナへは正当な手段で移住したのだと主張する根拠の一つをなしている。
 また、パレスチナ人以外のアラブが、建前ではパレスチナ人の権利の回復といういわゆる「パレスチナの大義」を口にしながらも、本音では「シオニストに土地を売り渡し、あげくの果てに国を奪われてしまったお馬鹿さんにはとてもつきあいきれない」との感情を持っているゆえんである。 

 さらに、現在のパレスチナ人が、シオニスに土地を売ったパレスチナ人を非難する理由でもある。シオニストに土地を売り渡したパレスチナ人は父祖伝来の土地を次の世代に引き継ぐという責任を果たさなかったわけだ。したがって、現在のパレスチナ解放運動の指導層が見習おうとしているのは、アルジェリアの独立闘争であり、キューバやベトナムの経験であって、決してパレスチナを失った世代であるイスラエル成立以前のパレスチナの指導層ではない。
 日本の一部には、この世代のパレスチナ人の闘争がパレスチナ人自身によっても正当に評価されていないとの意見もあるが、それは、エアコンの効いた研究室で安楽椅子に座っている人間の発想であって、難民キャンプで呻吟するパレスチナ人のそれではない。
 彼らの人の父親の世代が、そして父祖の世代がしっかりしていれば、こんな苦難をパレスチナ人が味わう事もなかったのに、という無念の感情が強い。確かに勇敢にシオニストと戦い、いまだに尊敬を受けている指導者もいる。だが、パレスチナを失った世代に反発する感情が抱かれている事実は一般論として指摘できるだろう。 

 


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