真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

朝鮮戦争 日赤看護婦に「赤紙」招集令状

2008年08月16日 | 国際・政治
 朝鮮戦争当時日本はGHQの管理下にあった。しかしながら、すでに日本国憲法が施行されていた(日本国憲法は1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行)。したがって、さまざまな戦争協力が軍事機密とされたり、占領軍命令として法の外におかれた。
 そんな日本の戦争協力の一つに医療協力があった。日赤の看護婦が動員されたのである。確かに日赤は戦時に傷病者を救護するためにつくられ、日赤の看護学校を卒業した看護婦たちは、当初日本赤十字社への奉仕義務があったが、朝鮮戦争当時すでに応召の義務はGHQ命令で廃止されていたという。にもかかわらず、応召を命ぜられたのである。それも、占領軍の命令であり、さまざまな問題があった。「史実で語る朝鮮戦争協力の全容」山崎静雄(本の泉社)より、日赤看護婦の動員関わる部分を抜粋する。
---------------------------------
         勤務中の看護婦を急派した福岡県支部

 朝鮮の前線では戦闘の激化で、米軍および「国連軍」兵士にぼう大な傷病兵が続出し、続々と日本に後送されてくるようになると、日本に駐留する米軍およびイギリスなどの連合軍はその対応に追われるようになりました。占領支配のために日本に駐留していた米軍あるいはイギリス連邦軍などは基本的には自前の病院をもっていました。といっても、日本の施設を接収して使用していた病院ですが、そこには自分たちの医師、看護婦を配置していました。
……

・・・

 「25年(1950年)の12月5日、県労働部の職業安定課から、国連軍第141兵站病院(福岡市外西戸崎)へ赤十字看護婦派遣方 の要請があった。本社へ指示を請うとともに、在郷看護婦招集準備をした。ところが翌6日午後になると派遣要請は急かつ切実なものであるので、本社指示を待たずに招集打電する。応急措置として、支部病院勤務中の看護婦を急派する。動乱の韓国と基地福岡の空路を飛 び交う国連軍飛行機の爆音が、絶え間なく福岡の夜空を揺るがしていた。
  翌7日は応召者がかけつけ、そのうち6人が即日勤務につく。これに支部診療所、博多駅救護所勤務中の3人を加え9人を同日中に派 遣できた。8日からさらに6人を追加する一方、熊本と佐賀の両支部に看護婦派遣の準備を連絡した。
 病院側の要請は『速やかに100名、6日現在不足50名』とのこと、急速に増大の見込みであった。」
    (日本赤十字社福岡県支部1980年3月発行『赤十字福岡九十年史』)

----------------------------------
                   生きていた赤紙

 日本赤十字社佐賀県支部が発行した『百年のあゆみ』は、動員が日赤本社の指示によるものであったことを記述するとともに、毎日新聞社編「激動20年 佐賀県の戦後史」を引用する形をとりながらも、この日赤看護婦の戦争協力動員の指示が「生きていた赤紙」だったこと、日赤への義理からも拒否できなかったことなどを正直にのべています。
……

  「6月25日、朝鮮動乱が起こり国連軍が出動した。あれから6ヶ月、中共軍の参戦で戦況は楽観できなくなった。いま、国連軍側の 病院に収容された兵士の救護班として、出動するみなさんは、人類博愛の精神を充分発揮してほしい」
 佐賀市役所会議室で、野口能敬市長(故人)は濃紺のりりしい制服を着た16人の日赤看護婦たちを励ました。それはちょうど歴史の針が5年逆回転したような風景だった。彼女たちの服装は、あのころとちっともかわらなかった。飯ごうや水筒まで持っていた。救護班を代表した婦長、久保セツ(32)(一部略)の答辞も威勢のいいものだった。
  「命を受けたからには、博愛の精神を忘れず、日本人の真価をを発揮してきます」
 式場には、ちょっと悲壮な空気が流れた。戦争放棄の平和憲法は、3年前に施行されたばかり。看護学校を卒業して、12年間、日赤への奉仕の義務があるとはいえ、平和がよみがえったいま、よその国の戦争にまで駆り立てられるとは、みんな思っていなかったのだ。

 「福岡の陸軍病院らしい。だが、そこだけですむか。朝鮮へ送り出される心配はないのか。赤十字はそこまで手を伸ばさなければならないのか。相手は憲法より強い占領軍だ」
 16人の看護婦たちの胸に不安がいっぱいあった。博愛という美しいことばは、だれかに利用されている気がしてならなかった。
 この16人のナースは、日赤佐賀支部に登録されていた国立佐賀病院、国立筑紫病院をはじめ、学校勤務や在宅の看護婦たちだった。
 25年12月11日、午前11時から始まる予定の出発式は2時間も遅れた。来賓の大浜副知事らは、すっかりしびれを切らした。一個班(戦争編成)21人集まる予定が、さっぱりそろわなかったのだ。なんとなくあと味の悪い出発式は終わった。大義名分はりっぱなはずなのに、佐賀駅の見送りは地味なものだった。何かこそこそしている日赤関係者の動きも妙だった。それには理由があった
出発直前になって、日赤副社長名で「看護婦派遣の件、外部に発表せざるよう、とくに注意されたい」との暗号電報が支部に入っていたのだった。新聞社や放送局の記者、カメラマンも呼んで盛大に壮行を祝うつもりだった支部の関係者があわてたのもむりもない。祝福さるべき16人の”白衣の天使”の壮途は、一瞬、日陰者の脱出みたいにみじめなものになった。……

 日赤佐賀支部に救護班派遣の要請があったのは、12月8日午後8時だった。3日後には送り出せという。日赤本社は初め国連軍病院からという表現を使っていたが、事実は日本を占領している連合軍総司令部の命令だった。支部の書だなに残っていた戦争中の赤紙(召集令状)をだれかが引っ張り出してきた。登録名簿から、要請どおり21人の看護婦を拾い上げ、召集令状に氏名を書き込んだ「10日午後1時支部に出頭せよ」別紙には「連合軍総司令部命令に基づき、本社の指示により、召集令状によって応召せしむることになりました。すみやかに準備するとともに、令状の受領書返送相成りたし」
 もう、昔話とおもいこんでいた赤紙はいきていた。21枚の召集令状は日赤看護婦の自宅に送られた。勤務先の学校、国立病院、市民課には「救護班編成につき、看護婦応召たのむ。あとふみ」の至急電が打たれた。

・・・

 日赤佐賀支部が記念誌にこの毎日新聞の記事を詳細に掲載した背景に戦争協力への自戒の念があったと思いたいのですが、それは別として、掲載された叙述は、①日赤看護婦の動員は占領軍の命令によるものであったこと、②日赤本社が占領軍の代行として召集令状を送りつけたこと、③赤紙を受け取った看護婦たちは泣いて反対したが拒否できなかったこと、④看護婦たちは恐怖のもとで兵士の手当に従事したこと、⑤国立病院や自治体病院、学校に勤務する看護婦、在宅の看護婦が日赤への奉仕義務をたてに動員対象にされたこと、⑥看護婦派遣の事実や国連軍病院での活動を機密とし、協力した看護婦に口外禁止の通達までおこなっていたこと、⑦戦争している一方の軍のための看護婦派遣に批判的考えがあったこと、など重要な事実をあきらかにしている点で非常に貴重な記録です。……

     http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 朝鮮戦争 米国の原爆使用論... | トップ | 朝鮮戦争 海上保安庁艦艇の... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国際・政治」カテゴリの最新記事