真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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天皇の戦争責任 開戦の「聖断」

2010年08月31日 | 国際・政治
 ドイツと比較して、日本の戦後処理には様々な問題があるが、その一つに天皇の戦争責任の問題がある。事実が意図的 に隠蔽されたり、歪められたりして、天皇の戦争責任は不問に付された。しかし、いくつかの側近者の日記やメモを読めば、昭和天皇の戦争責任も否定しようがないことが分かる。「天皇は平和主義者である」として、ポツダム宣言受諾の「聖断」ばかりが論じられる傾向があるが、ポツダム宣言受諾に至る経過や”開戦の「聖断」”も客観的に認知されなければならないと思う。
 多少の譲歩をすれば、外交成立の目途があるという豊田外相や近衛首相の主張を受け入れず、「駐兵問題などは考慮の余地なし」とする東條陸相を、次期首班に任命したのは天皇なのである。閣議よりも統帥部を優先させた天皇が「立憲政治に拘泥しすぎて、戦争を防止できなかった」と言えるのかどうか…。下記は「昭和天皇の十五年戦争」藤原彰(青木書店)からの一部抜粋である。
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                Ⅴ 太平洋戦争と天皇

 開戦の「聖断」

 それでは天皇は、閣議決定についての上奏はともかくとして、統帥部はじめ関係機関の上奏を、黙ってただ裁可していただけなのだろうか。立憲政治を守るように心がけたために、戦争に反対でありながら、その意志を表明することをためらったのだろうか。

 連絡会議の重要事項や、御前会議決定の前には、必ず首相、両総長などの責任者が、決定されるべき事項の内容に関して内奏を行い、天皇との間に「御下問」「奉答」をくりかえし、正式の允裁を受ける前に、必ず天皇の納得をうることになっていた。また開戦にいたる陸海軍の作戦計画、開戦準備のための陸海軍の行動のすべては、天皇の允裁を受けた大命によっていた。そのさいも、内容について詳しく「御下問」「奉答」がくりかえされていたのであって、決して天皇の意に反する大命が出されていたわけではない。


 ・・・

 「御下問」と「奉答」が意味のある例をあげると、期限つきの戦争決意をきめた9月6日の御前会議決定の「帝国国策遂行要領」は、9月3日の連絡会議で若干の修文のうえで決定したものである。そしてその内容について近衛首相が9月5日に内奏すると、天皇は統帥上の問題について懸念を示したので、近衛はそれでは今直ちに両総長をお召しになってはと奏上すると、天皇は「それでは直ぐに両総長を呼べ、尚総理大臣も陪席せよ」と命じ、杉山、永野修身が、近衛立会いのもとで、御前会議前日夕の「御下問」「奉答」をすることになった。『杉山メモ』や近衛の日記はその問答を記している。

 ここで天皇は、外交と戦争準備は、外交を先行してやるようにと指示したが、戦争の場合の見とおしについては、詳細に疑念のある点を問い質した。そして『杉山メモ』によれば、最後に「絶対ニ勝テルカ(大声ニテ)」と質問し、杉山の答えに、「アア分ッタ(大声ニテ)」と承知した。杉山の所感は、天皇は南方作戦について相当の心配があるようだとしているが、ともかくも翌日の御前会議の議題について諒承したのである。


 9月6日の御前会議決定は、期限つきの開戦決意に他ならないものであった。この会議で決定された「帝国国策遂行要領」の中、対米戦に関する部分は、次のようなものであった。

 1 帝国は自存自衛を全うする為、対米(英・蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね
   10月下旬を目途とし戦争準備を完整す
 2 帝国は右に並行して米・英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努
   む
   対米(英)交渉において帝国の達成すべき最小限度の要求事項並びに之に    関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し
 3 前号外交交渉に依り10月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場
   合においては直ちに対米(英・蘭)開戦を決意す


 この決定は、10月上旬を期限とし、そのときになっても交渉で日本の要求が通る見込みがないならば、対米(英・蘭)戦争を決意したものであった。
 そして、日米交渉にさしたる進展が見られないまま、御前会議決定の期限である10月上旬はたちまちやってきた。陸軍内部の強硬論を代弁し、中国からの撤兵に反対する東条陸相は、もはや要求貫徹の「目途」がないから、「開戦を決意」すべきだと主張し、開戦には反対で、交渉継続を主張する近衛首相と対立した。10月12日近衛首相、東条陸相、及川古志郎海相、豊田禎次郎外相、鈴木貞一企画院総裁の荻外荘会談が行われたが、首相、陸相の対立は変らず、10月14日の閣議も同様で、10月16日近衛内閣は総辞職した。開戦決意か、交渉継続かをめぐる閣内不統一が原因であることは明瞭である。


 近衛の辞表には、辞職の原因が、交渉に「今尚妥協の望みあり」とする首相と、「開戦に同意すべきことを主張して已ま」ない陸相との意見の不一致であることが明記されていた。その辞表を受理した天皇が、東条を次期首班に任命したことは、どうみても天皇が東条を支持し、開戦論を支持したことにならざるをえない。……

  ・・・(以下略)


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