朝鮮戦争当時日本はGHQの管理下にあった。しかしながら、すでに日本国憲法が施行されていた(日本国憲法は1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行)。したがって、さまざまな戦争協力が軍事機密とされたり、占領軍命令として法の外におかれた。それは、火薬運送規定適用外回答や「日本掃海艇ヲ朝鮮掃海ニ使用スル指令」に象徴される。「史実で語る朝鮮戦争協力の全容」山崎静雄(本の泉社)より抜粋する。
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火薬運送規定適用外回答
火薬類の運送については1946年の第三鉄道輸送司令部業務第28号が、「火薬類は標記トン数の三分の二を超えて積載することはできまい」と規定していました。朝鮮戦争勃発までは「日本における火薬類運送規定に抵触するような運送も行われなかった」(『鉄道終戦処理史』)といいます。ところが、朝鮮戦争勃発で大型爆弾の大量輸送が開始されるようになったために、当然、この火薬類運送規をどうするかが問題になりました。在日兵站司令部は全面改定で大型爆弾が輸送できるようにせよと圧力をかけてきました。『鉄道終戦処理史』はこの問題をつぎのようにのべています。
「(1)火薬類は有がい車(筆者注 屋根つき貨車)使用を規定されている
が、大型爆弾は有がい車に積むことは困難である。
(2)一箇列車の連結軸数の制限があるがこれによるときは迅速大量の
輸送が阻害される。
(3)積載制限の規定があるが、これによれば使用車の増加を来たし輸
送力の不足を生じる。
等の理由から軍側はこれら制限の全面解除の要求をしてきた。然し、この制限は運輸省令によるもので、国鉄として直ちにこれに応ずることはできないが、占領軍貨物の特殊性と緊迫した事情を併せ考え、又、軍は国内法規の適用されない占領軍であること等を考慮して、主務大臣たる運輸大臣にその伺いを立てた。」
日本国有鉄道総裁は50年11月17日に運輸大臣に対してつぎのような伺状を出しました。
「連合軍の輸送命令による火薬類(ムーブメントオーダーによるもの)の
運送に対しては、火薬類運送規則(昭和25年運輸省令第86号)の適用
がないものとして取扱って差し支えないか右お伺いいたします。」
運輸省は同日、運輸省鉄道監督局長名でつぎの回答書を出しました。
「昭和25年11月17日営貨第465号により首題の件照会については火
薬類運送規則(昭和25年運輸省令第86号)によらなくてもさしつかえない
ものと認められるにつき右回答します」
・・・以下略
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朝鮮上陸を保障した機雷掃海
日本は、全面占領下という特別な状況の下でしたが、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争で、マッカーサー連合軍総司令官の命令によって、海上保安庁保有の掃海艦艇が朝鮮半島に出動し、一隻が触雷・沈没し乗員一人が死亡、重軽傷者18名をだした悲惨な体験をもっています。50年10月12日から12月12日までの間に、延べ46隻の掃海艦艇と1200名の海上保安庁職員(旧海軍軍人)が、元山(東岸)、海州、任川、郡山、鎮南浦(以上西岸)で、327キロメートルの水路と607平方キロメートルの泊地を掃海し、機雷27個を処分して、米軍の朝鮮上陸作戦成功に決定的な役割を果たしました。
朝鮮戦線に日本の掃海艇を出動させた当時の初代海上保安庁長官大久保武雄氏が書いた『海鳴りの日々』と、E・M・フィラー米海軍退役少将が称賛したジェームズ・A・フィールド二世著『朝鮮 米海軍作戦史』は、日本掃海艇による機雷掃海作業が協力などというものではなく、まさに戦争行為そのものであったことを語っています。
・・・
こうして、米軍の朝鮮半島以上陸、とくに、北朝鮮のふところともいえる元山からの上陸作戦計画にとって、機雷掃海が不可欠の重要課題となったのです。マッカーサー元帥は西岸の仁川上陸作戦の成功につづいて、東岸の元山からの上陸作戦を敢行することを決定していました。9月27日、米統合参謀本部は元山上陸実施日を10月2日とすることを承認しました。問題は機雷です。機雷は上陸作戦の障害となりました。そこで米軍が直面した決定的な困難は山沖の東岸水域から元山港内の上陸地点までの水域の機雷掃海を実施する部隊の確保です。
しかし、当時、米軍には機雷掃海部隊は微弱なものになっていました。……
・・・
……しかし、アメリカの掃海艇だけでは、短期間の機雷掃海は不可能です。そこで、日本の掃海艇を動員することになったのです。
元山上陸作戦は12月2日と決定されました。しかし、米軍の掃海作業は掃海艇の数が少ないこともあって、大幅に遅れる状況にありました。そこで、マッカーサー連合軍最高司令官は日本の掃海艦艇の出動を命じました。以下は海上保安庁の初代長官であった大久保武雄氏が書いた『海鳴りの日々』に書かれていることです。
「朝鮮戦争勃発に際し、北朝鮮軍は国連軍の上陸を阻止するため、多数のソ連製機雷を主要港に敷設していた。昭和25年9月、国連軍は仁川につづいて元山上陸作戦を企図したが、当時極東における国連軍の掃海兵力が充分でなく、元山沖の敷設機雷掃海に手間取り上陸作戦が遅延していた。早く上陸作戦を行うためには、より多くの掃海部隊がぜひ必要であり、元山以外の主要港の掃海にも必要であった。掃海の熟練した技能をもち、かつすぐ稼働できる部隊としては、当時第二次世界大戦終結いらい、日本および米軍の敷設した機雷を、掃海しつづけている占領下の日本の海上保安庁掃海隊しかなかった」
50年10月2日、米軍極東海軍アーレイ・バーク少将は大久保長官を司令部に呼び、掃海艇の出動を命じました。その日のうちに、大久保長官は「『米軍の指令により朝鮮海域の掃海を実施することになりたるにつき、下記により船艇を至急門司に集結せしめよ』との命令を発しました。『呉基地の駆特5隻、哨特1隻、母船1隻、下関基地の哨特1隻、大阪基地の駆特3隻、計掃海艇10隻、母船1隻を門司に集結、6日(金)朝、釜山に向け出港させること』とし、また、『小樽基地の哨特2隻、名古屋基地の駆特2隻、呉基地の駆特3隻、哨特1隻、新潟基地の駆特1隻、計9隻を、引きつづきすみやかに門司を出発、釜山にむかわしめること』とした」のです。
指令文書
米極東海軍司令官発
日本政府運輸大臣宛 1950年10月4日
日本掃海艇ヲ朝鮮掃海ニ使用スル指令
1,日本政府ハ、20隻ノ掃海船、1隻ノ試航船、4隻ノ巡視船ヲ可及的速ヤカニ
門司ニ集結セシムベシ、ナオコレラ船艇ノ掃海活動ニツイテハ今後指令ス。
2、右ノ掃海艇20隻ニ東京湾掃海中ノMS12,13、17ナラビニ佐世保湾掃海
中ノMS22,25,26ハ含マレナイ。
東京湾と佐世保の掃海作業に従事していた掃海艇を朝鮮動員からはずしたのは、両港湾が連合軍にとって重要であり、北朝鮮による機雷敷設から防衛するための措置でした。
以下略
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
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火薬運送規定適用外回答
火薬類の運送については1946年の第三鉄道輸送司令部業務第28号が、「火薬類は標記トン数の三分の二を超えて積載することはできまい」と規定していました。朝鮮戦争勃発までは「日本における火薬類運送規定に抵触するような運送も行われなかった」(『鉄道終戦処理史』)といいます。ところが、朝鮮戦争勃発で大型爆弾の大量輸送が開始されるようになったために、当然、この火薬類運送規をどうするかが問題になりました。在日兵站司令部は全面改定で大型爆弾が輸送できるようにせよと圧力をかけてきました。『鉄道終戦処理史』はこの問題をつぎのようにのべています。
「(1)火薬類は有がい車(筆者注 屋根つき貨車)使用を規定されている
が、大型爆弾は有がい車に積むことは困難である。
(2)一箇列車の連結軸数の制限があるがこれによるときは迅速大量の
輸送が阻害される。
(3)積載制限の規定があるが、これによれば使用車の増加を来たし輸
送力の不足を生じる。
等の理由から軍側はこれら制限の全面解除の要求をしてきた。然し、この制限は運輸省令によるもので、国鉄として直ちにこれに応ずることはできないが、占領軍貨物の特殊性と緊迫した事情を併せ考え、又、軍は国内法規の適用されない占領軍であること等を考慮して、主務大臣たる運輸大臣にその伺いを立てた。」
日本国有鉄道総裁は50年11月17日に運輸大臣に対してつぎのような伺状を出しました。
「連合軍の輸送命令による火薬類(ムーブメントオーダーによるもの)の
運送に対しては、火薬類運送規則(昭和25年運輸省令第86号)の適用
がないものとして取扱って差し支えないか右お伺いいたします。」
運輸省は同日、運輸省鉄道監督局長名でつぎの回答書を出しました。
「昭和25年11月17日営貨第465号により首題の件照会については火
薬類運送規則(昭和25年運輸省令第86号)によらなくてもさしつかえない
ものと認められるにつき右回答します」
・・・以下略
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朝鮮上陸を保障した機雷掃海
日本は、全面占領下という特別な状況の下でしたが、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争で、マッカーサー連合軍総司令官の命令によって、海上保安庁保有の掃海艦艇が朝鮮半島に出動し、一隻が触雷・沈没し乗員一人が死亡、重軽傷者18名をだした悲惨な体験をもっています。50年10月12日から12月12日までの間に、延べ46隻の掃海艦艇と1200名の海上保安庁職員(旧海軍軍人)が、元山(東岸)、海州、任川、郡山、鎮南浦(以上西岸)で、327キロメートルの水路と607平方キロメートルの泊地を掃海し、機雷27個を処分して、米軍の朝鮮上陸作戦成功に決定的な役割を果たしました。
朝鮮戦線に日本の掃海艇を出動させた当時の初代海上保安庁長官大久保武雄氏が書いた『海鳴りの日々』と、E・M・フィラー米海軍退役少将が称賛したジェームズ・A・フィールド二世著『朝鮮 米海軍作戦史』は、日本掃海艇による機雷掃海作業が協力などというものではなく、まさに戦争行為そのものであったことを語っています。
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こうして、米軍の朝鮮半島以上陸、とくに、北朝鮮のふところともいえる元山からの上陸作戦計画にとって、機雷掃海が不可欠の重要課題となったのです。マッカーサー元帥は西岸の仁川上陸作戦の成功につづいて、東岸の元山からの上陸作戦を敢行することを決定していました。9月27日、米統合参謀本部は元山上陸実施日を10月2日とすることを承認しました。問題は機雷です。機雷は上陸作戦の障害となりました。そこで米軍が直面した決定的な困難は山沖の東岸水域から元山港内の上陸地点までの水域の機雷掃海を実施する部隊の確保です。
しかし、当時、米軍には機雷掃海部隊は微弱なものになっていました。……
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……しかし、アメリカの掃海艇だけでは、短期間の機雷掃海は不可能です。そこで、日本の掃海艇を動員することになったのです。
元山上陸作戦は12月2日と決定されました。しかし、米軍の掃海作業は掃海艇の数が少ないこともあって、大幅に遅れる状況にありました。そこで、マッカーサー連合軍最高司令官は日本の掃海艦艇の出動を命じました。以下は海上保安庁の初代長官であった大久保武雄氏が書いた『海鳴りの日々』に書かれていることです。
「朝鮮戦争勃発に際し、北朝鮮軍は国連軍の上陸を阻止するため、多数のソ連製機雷を主要港に敷設していた。昭和25年9月、国連軍は仁川につづいて元山上陸作戦を企図したが、当時極東における国連軍の掃海兵力が充分でなく、元山沖の敷設機雷掃海に手間取り上陸作戦が遅延していた。早く上陸作戦を行うためには、より多くの掃海部隊がぜひ必要であり、元山以外の主要港の掃海にも必要であった。掃海の熟練した技能をもち、かつすぐ稼働できる部隊としては、当時第二次世界大戦終結いらい、日本および米軍の敷設した機雷を、掃海しつづけている占領下の日本の海上保安庁掃海隊しかなかった」
50年10月2日、米軍極東海軍アーレイ・バーク少将は大久保長官を司令部に呼び、掃海艇の出動を命じました。その日のうちに、大久保長官は「『米軍の指令により朝鮮海域の掃海を実施することになりたるにつき、下記により船艇を至急門司に集結せしめよ』との命令を発しました。『呉基地の駆特5隻、哨特1隻、母船1隻、下関基地の哨特1隻、大阪基地の駆特3隻、計掃海艇10隻、母船1隻を門司に集結、6日(金)朝、釜山に向け出港させること』とし、また、『小樽基地の哨特2隻、名古屋基地の駆特2隻、呉基地の駆特3隻、哨特1隻、新潟基地の駆特1隻、計9隻を、引きつづきすみやかに門司を出発、釜山にむかわしめること』とした」のです。
指令文書
米極東海軍司令官発
日本政府運輸大臣宛 1950年10月4日
日本掃海艇ヲ朝鮮掃海ニ使用スル指令
1,日本政府ハ、20隻ノ掃海船、1隻ノ試航船、4隻ノ巡視船ヲ可及的速ヤカニ
門司ニ集結セシムベシ、ナオコレラ船艇ノ掃海活動ニツイテハ今後指令ス。
2、右ノ掃海艇20隻ニ東京湾掃海中ノMS12,13、17ナラビニ佐世保湾掃海
中ノMS22,25,26ハ含マレナイ。
東京湾と佐世保の掃海作業に従事していた掃海艇を朝鮮動員からはずしたのは、両港湾が連合軍にとって重要であり、北朝鮮による機雷敷設から防衛するための措置でした。
以下略
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
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