真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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霧社事件と毒ガス使用の「蕃人」(山地原住民)討伐

2011年01月25日 | 国際・政治
 「台湾秘話 霧社の反乱・民衆側の証言」林えいだい(新評論)の中に、まさに霧社事件勃発当時(1930年10月27日)、台中州員林郡社頭小学校に教員として赴任していた河口又二の毒ガス使用に関する証言がある。信じがたい証言ではあるが被害山地原住民の多くの証言や当時の報道、軍の記録などが、それが真実であることを物語っている。山地原住民の証言の中には、当時の「蕃地」駐在所巡査の多くが、山地原住民を人間扱いしなかったために霧社事件が起こった、というものが多々あるが、総督府の理蕃政策関係者や台湾軍関係者も、同じように山地原住民を人間扱いしなかったということなのだろうと思われる。下記は、霧社事件後、日本人を殺戮した「蜂起蕃」討伐のために、毒ガスを使用したことを証す中山巡査の話しの部分を抜粋したものである。
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          まえがき ──── 霧社事件検証の旅

1 霧社事件の生き証人たち

 毒ガス生体実験の真相


 ・・・
 霧社事件が勃発する半年前の1930年(昭5)4月、河口は台中州員林郡社頭小学校に教員として赴任すると、ブヌン族の卓社(タクシャ)を中心に原住民の民族文化の調査を始めた。その頃、小学校の近くにあった派出所に勤務していた、熊本県出身の中山又雄という同年輩の巡査と親しくなった。
 10月27日午後、中山が背嚢(ハイノウ)を背負い、銃を手にして小学校の職員室にやってくると、「霧社で蕃害(バンガイ)事件が起こったので、いまから出動します」と挨拶した。
 事件勃発で台中州管内の巡査に非常招集がかかり、中山たちが鎮圧のために出動したことを数日後の新聞で河口は知った。
 約1ヶ月後、中山が社頭に帰ってきたと派出所の警手が知らせてくれた。河口は事件の様子を聞くために、派出所の官舎に中山を訪ねた。すると彼は激しい咳をしながら、苦しそうに布団の中に横たわっていた。
「どうしたんだ、その格好は?」
「毒ガスにやられた。どうして俺がこんな目に遭わんといけんのかのう……」
 日頃の中山とは別人のように、弱々しくつぶやくようにいった。手足の布団から出ている部分には水泡ができて、呼吸が困難なほど咳き込んでいた。


 中山の話によると、員林郡の巡査はまずトラックで埔里に送られた。ただちに警察隊が組織され、霧社への攻撃が開始された。霧社を占領すると中山は捜索隊本部付きとなり、水越台中州知事の身辺警護を命じられた。
 まもなく、台湾軍から派遣された鎌田支隊(鎌田少将が指揮をとっていた)が到着して、霧社分室が討伐隊本部となった。分室には鎌田少将、服部参謀、憲兵隊長、水越知事、総督府警務局森田理蕃課長が集まり、蜂起したセーダッカに対する討伐作戦会議が連日開かれた。
 11月初め、中山が参謀室にお茶を持って行くと、服部参謀と水越知事が激論しているところだった。服部参謀は、兇蕃(キョウバン)鎮圧のために、軍側は最後の手段として毒ガス弾を使用するといい、水越知事がそれに猛反対していたのだった。
「貴官らのこれまでの理蕃政策が悪いから、軍の出動という事態になったんだ。反抗する蕃人(バンニン)は一人でも生かしておくいわけにはいかん。毒ガスで皆殺しだ!」
「服部大佐、私は州知事として軍の出動を要請したが、鎮圧の手段として毒ガスを使用することだけは人道上絶対に許せません。それだけは止(ヨ)してください!」
 いまにも互いに掴みかかろうとした時、副官が駆け寄ってきて2人をなだめ、騒ぎは収まった。
 11月中旬、軍側の主力が台北に引き揚げることになり、警察隊と交代した。その頃、マヘボ渓の岩窟に籠って抵抗する蜂起蕃(ホウキバン)に対して、軍が毒ガス攻撃を行っているという噂が飛んだ。まもなく台北陸軍病院から数人の軍医将校が霧社に来て捜索隊が編成され、中山もその一員になった。隊員には奇妙な格好のマスクが渡され、軍医から装着方法の実習を受けた。
「お前たちはこれからマヘボ渓に行くことになった。毒ガスにやられた負傷者を担送して、ボアルン社の野戦病院まで届けてくれ」
 能高郡役所の江川警察課長が命令した。


 中山たち捜索隊員は、味方蕃(ミカタバン)の壮丁(ソウテイ)(蕃地の若者・壮年男性)の案内でマヘボ渓の険しい道を登って行った。倒れて苦しんでいる者を担架に載せると、2人でマヘボ社まで下ろした。休憩すると再び担架を抱え、2時間かけてボアルン社まで運んだ。負傷者は、みな生きてはいるが、全身がただれてもがき苦しんでいた。

 ボアルン駐在所前にある蕃童教育所の前に設置された臨時野戦病院では、3人の軍医がメスを持って待っていた。にわか仕立ての手術台の上に負傷者を載せると、赤い蕃布の胸をはだけてメスを入れた。それは投下した毒ガスの効果を調べるための生体解剖だった。解剖が終わった遺体は、味方蕃の壮丁たちのよって運び去られた。

 そのうち中山は意識不明に陥り、気がついた時は霧社診療所にある救護班のベッドの上だった。顔は腫れ上がり目が見えないほどで、全身に激痛が走り、明らかな毒ガス症状を呈していた。隣のベッドにも捜索隊員が入院していたが、手足に水疱状のものができて苦しんでいた。中山は心配になり、たまたまそこへ知り合いの二水駐在所の公医が派遣されてきたので、治療方法はないのかとたずねた。すると、「原因不明の病気だが、社頭へ帰って休養しておれば自然に回復するよ」といわれた。
 
 宿舎に見舞いに行った河口は、中山の症状を見て、これはただごとではないと思った。手足表面の皮膚が火傷したようにただれ、水疱状のブツブツができていた。河口は子どもの頃、天ぷら油が飛び散って火傷した時、母親が馬鈴薯をおろして金でおろして傷口につけてくれたことを思い出した。さっそく官舎にとって返し、田舎から送ってきたばかりの馬鈴薯を持って官舎へ戻った。馬鈴薯をおろして中山の手足に塗り、その上を包帯で巻いてやった。


 数日後、小学校に台中の憲兵隊から下士官2人が来て、河口を員林警察署へ連行した。
「中山がお前に何を話したか知らんが、このことは一切口外してはならない。お前が命令を聞かないで人にしゃべったら、軍法会議にかけ銃殺する!」
 一人の憲兵は肩から吊したピストルを外すと、河口に銃口を突きつけて激しい口調で口止めした。河口はその時の憲兵の態度と苦しむ中山の症状が、いまも忘れられないという。
 翌日、中山は台中陸軍病院に送られ、それ以後消息を絶った。河口は戦後、台湾から引き揚げたあと、北九州市内の中学校に勤務しつつ、霧社事件の研究を続けた。

 
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
見た訳でもないだろうに! (Unknown)
2013-11-27 00:45:36
見た訳でもないだろうに!
>見た訳でもないだろうに! (Unknown)
2013-11-27 08:49:33
>見た訳でもないだろうに!

 事実を確かめようとせず、このような否定的なコメントを投稿することは問題ではないでしょうか。見たことしか語れないのであれば、歴史の研究は成立しませんね。


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