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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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占領軍慰安所 慰安婦集め と内務省・警察

2012年08月31日 | 国際・政治
 「占領軍慰安婦 国策売春の女たちの悲劇」山田盟子(光人社)には、読み捨てにできないことが書かれている。「江東区女性軍」を編成するため、動員されていた埼玉の第1中隊103人が、敗戦直後「特別挺身隊」として米兵との交接を強要されたというのである。そして、同様のことが他県でもあったという(資料1)。それが、「天皇のために捧げたてまつる」という血判を押した誓紙を逆手にとってのことであり、内務省の政策遂行の過程で行われたという事実に驚くほかない。こうした事実は、その政策を進めた関係者や、現場で関わった関係者にとっても、また、被害者となった女性にとっても、明らかにしてほしくない事実、言いかえれば隠しておきたい事実かも知れないが、後世に伝えるべき重要な歴史的事実であり、葬り去ってはいけない事実であると思う。難しいことかも知れないが、プライバシーに配慮しつつ、もう少し詳細を明らかにできないものか、と思う。

 日本にとって不都合な歴史的事実も、教訓として生かすべきだと考え、いろいろ調べ取り上げている「林俊嶺」名の私のブログやHPでさえも、気味の悪い出来事が時々あるが、私は「事実」を大事にしたいと思う。日本にはドイツの「反ナチス法」のようなものがない。したがって、日本は戦時中の何を受け継ぎ、何を否定しているのか曖昧であると思う。そのため事実を直視しないで、都合のよい部分にだけ着目し、排他的な主張をする人が多く、看過できない。過去の戦争犯罪や加害責任の事実をなかったことにしては、近隣諸国との関係改善はできないと思う。そうした意味で、上記や下記のような歴史的事実も、直視しなければならないと思うのである。

 「開港慰安婦と被差別 戦後RAA慰安婦への軌跡」川元祥一(三一書房)の著者は、第一部「進駐軍特殊慰安施設」の中で、戦勝国から求められたわけではないのに、内務省の指令で造った「進駐軍特殊慰安施設」は、戦中、アジア各国、各地に造った「軍慰安所」と同じ発想で造られたことを指摘し、その問題点を明らかにするために、『神奈川県警察史』の中から、大事な部分を引用している(A~I) 。下段の資料2は、その引用文をそのまま並べたものである。同書には、もちろん引用文毎に解釈があり、貴重な考察があるのであるが、長くなるのであえて引用文だけを孫引きさせていただくものである。「従軍慰安婦」問題と共通の考え方や取り組みが、引用文だけからでも読み取れるのではないかと思からである。
 
資料1-------------------------------
               第1章 占領軍と慰安婦

 千歳に残る烈婦

 ・・・
 占領軍慰安所の慰安婦集めには、騙しの手が用いられたが、つぎにその例をあげてみよう。
 昭和20年には本土決戦ということで、「江東区女性軍」を編成するため、埼玉の第1中隊103人が動員されていた。
 終戦の8月15日をむかえても、103人は帰してもらえなかった。埼玉第1中隊は足留めされ、内務省治安当局の指定ということで、「特別挺身隊として、耐えがたきを耐えて、全日本婦人の楯となるべき……」
 と、都内4ヶ所の慰安所に連れ去られ、やみくもに米兵との交接を強要された。筆者は久しくこの人々を知りたいと努力してきた。
 そのような事実は都内だけでなく、他県にまで見られた。
 広島では戦中に動員した女子青年団を、もろに慰安婦にした例があった。
 原爆投下で肉親を亡くし、帰る家を失った娘たちが、呉市軍需工場に9名残っていた。工場長は彼女たちが、
 「天皇のために捧げたてまつる」
 と、いう血判を押した誓紙を逆手にとって、彼女たちを玉集めの女衒の前に座らせた。
「いよいよ君たちが奉仕するときが来た。私はかしこきあたりの御内意をうけ、大和なでしこの範となるべき婦人をさがすために、はるばる大阪からやって来た。このような血書をささげた君たちの忠誠を、天もみそなわしたもうたのであろう。君たちでなければ日本人の操を、進駐軍の魔手から守り通すことはできないであろう」
 女衒は名調子の演説をぶった。女たちはその女衒によって、呉の慰安所に連れ去られたのである。
 同じようなことが神奈川県川崎M軍需工場でもおきた。戦災で家と家族を亡くした女学生が、寮に十数人残っていた。
 そこへ、「新生社会事業観光部」の看板をつけたトラックが来ると、彼女たちを唆すように、よいことだらけをならべたてた。
「月給は高いし、人道愛に燃えたる当会社に、いますぐ就職してはどうだね」
 彼らは、とびっきり箔をつけた名刺をひとりずつに配った。名刺には内務省指定治安維持会・中国地方幹事・米山三郎、とあった。
 詐欺っぽいその名刺で、コロリと騙しを喰った女学生たちは、米軍慰安所へと運ばれていった。その女衒は
「君たちは誇りを持って、この特別挺身の任務を完遂し、かしこきあたりのシンキンを安んじ奉らねばならぬ。君らこそ日本帝国の歴史に、千歳に残る烈婦なのである」
 と、戦時中に耳慣れた言葉を聞かされた。
 彼女たちは「特別挺身」の仕事が、占領軍への肉体奉仕ということを、この時点ではわからなかった。
 夜になって、米兵がきて、おどろいて逃げた女学生は、ゴロツキ用心棒につかまり、リンチのさい眼玉をえぐりとられた女学生もいた。虚言で連行され、獣獄と知って抗えば暴力をふるわれ、仕方なく馴染ませられていく女たちもいた。
 京浜地区でも業者は、悪辣なあらゆる手を用いて、慰安婦狩りをした。
 戦災で家を失った姉妹が壊れた貨車に住んでいると、6人のMPに強姦された。そのことをかぎつけた業者が、姉妹に同情を見せて近づき、つぎに強迫の手でくどき落とし、彼女たちを慰安婦へとおとしめた。
 昭和20年11月まで、2万人からの慰安婦が仕立てられた裏には、無数のドラマがあったのである。


資料2------------------------------
         第一部 進駐軍特殊慰安施設──「RAA慰安婦」──

第1章 内務省警保局から全国へ

 戦争が終結し、多くの連合国将兵が日本に進駐することになったとき、もっとも大きな問題となったのは、いかにして善良な婦女子を守るか、ということであった。
 政府は清純な婦女子をこの危機から守るための具体策として、進駐軍専用の特殊慰安施設を設けることを決定し、8月18日「警保局長通達」(無電)をもって、全国都道府県に対し”進駐軍特殊慰安施設整備について用意されたし”と打電した。敗戦日本を象徴するかの如き屈辱的措置であったが、治安維持のためにやむを得ないことであった。政府はこの慰安施設設置のため1億円を拠出し、特殊慰安施設協会(RAA)を設けて具体的な活動をはじめた。(県警史引用A)



 本県(神奈川県)においてはRAA傘下の組織はなく、警察部保安課が全機能をあげてこの問題に取り組んだ。しかし、設置に与えられた時間は僅かで、その上、建物は焼かれ、肝心の従業員が四散していたため、この慰安所設置は容易ならぬ仕事であった。県下でも横須賀方面は戦災から免れていたため、比較的順調に設置がすすめられた。急遽集めた女は約400名、これが元海軍工廠工員宿舎ほか数カ所に分けられ、占領軍の上陸を待った。(県警史引用B)
 


第2章 神奈川県警の動き

 当時横須賀署長山本圀士(現・警察史編さん委員)の証言
「8月17日、私は次席の松尾久一さん(のち小田原署長)と安浦の慰安所に行き彼女らの前に立ちました。”昨日までアメリカと戦えと言っていた私が、いま皆さんの前に立ってこんなことを言うのは、全くたまらない気持ちです。戦争に負けたいま、ここに上陸してくる米兵の気持ちを皆さんの力でやわらげていただきたいのです。このことが敗戦後の日本の平和に寄与するものと考えていただき、そこに生甲斐を見出してもらいたいのです”── 私は話しているうちに胸がつまり、いくたびか言葉が切れました。」(県警史引用C)


 警官はいなかに出かけて、経験者の婦人80人をかき集め、中区山下町の古いアパート互楽荘で待機させた。警察部の考えでは、一般の婦女子を将兵の乱暴から守るための緩衝地帯としたわけだ。8月29日(第1次は28日。筆者註)に米軍が上陸、翌30日には互楽荘は何千人という兵が列をなした。ところが互楽荘は一週間で閉鎖となる。
 女の奪い合いで、兵隊同士のけんかが絶えず、無力な日本の警官の手では、とても収拾がつかなかったからだ。横須賀の海軍工廠あとに、この種の施設ができた。(県警史引用D)


 緩衝地帯の構想がくずれたうえ、翌21年2月のマ元帥の公娼廃止の覚え書き公布で、女たちは自由に、しかも堂々と町中で取り引きするようになった。(実際は1月21日のようだ。筆者註)(県警史引用E)


 マッカーサー覚書
1、日本の公娼存続はデモクラシーの理想に違背する。
2、日本政府は直ちに従軍公娼を許容したいっさいの法律および命令を廃棄して、その諸法律の下に売春を約束したいっさいを放棄せしめよ。(県警史引用F)
 


第4章 公務優先の実態

 慰安婦としては公・私娼や芸妓等を優先的にあてるよう考えられていたが、これらの婦女は戦災によって焼け出され、それぞれ郷里や縁故者をたよって四散していたため、横浜にはほとんどいなかった。そこで警察は離散防止措置として業者の関係組合長や、新規出願希望者に対して帰郷婦女子の募集方を指示した。
 しかしそのころ日本軍の撤去、復員軍人の輸送などのため列車が混雑し、乗車制限が行われていた。そこで鉄道各駅に連絡し、公務乗車証明書および募集人の身分証明書を発給して、優先的に婦女勧誘員の乗車ができるよう便宜をはかった。さらに住所の異動申告の手続きのすまないまま応募してきた者に対しては、手続き終了までの間、とりあえず警察の応急米を支給するなど、あらゆる便宜措置が講じられた。(県警史引用G)



 慰安所となすべき施設については、市内のほとんどの建物が戦災によって焼失していたため、この確保は困難をきわめた。また設営に必要な物資器材はいずれも統制品であり、しかも手持品は皆無の状態であった。しかしいずれにせよ慰安所設置は緊急課題であり、資材がないからできない、ではすまされない問題であった。そこで保安課は各関係課と緊密な連携をとり、その協力によって逐次各業者に配給するなどの措置をとることにした。
 営業用として必要なものは建築関係として補修用の木材、・セメント・釘などであり、営業用物資としてはまず布団・敷布・毛布・蚊帳・客用寝巻・足袋・タオル・テーブルクロース・ナプキン・椅子カバー、そのほか脱脂綿・リスリン・消毒薬・化粧品などであった。このうち特に集めるのに難儀したのは布団で、ほとんど他府県から購入したが、これを運搬する自動車が間に合わず、保安課において辛くも必要最小限の車両を確保し、課員がその引取り運搬の作業に従事する、という状態であった。(県警史引用H)



警察官の証言 (1945年8月30日互楽荘開設前後)
 警察はこの実情にかんがみ、先はの方針を変更し、各組合の現営業所(大半が戦災後の仮建築)を使用させることにした。そして新規出願者に対しては、従来の工員宿舎などの建物を斡旋し、早急に営業を開始させることにした。これらの状況について、当時の保安課長降旗節氏(現・警察史編さん委員会参与)は次の如く語っている。

「保安課は終戦直後に防空課ではなくなってそのまま保安課になったんです。仕事のすべてが進駐軍関係の慰安対策という実情でこれは閣議で決定したものらしい。内務省の方から警察部長の方へ、この進駐軍に対する慰安設備、慰安対策というものを根本的に考えてくれ、と言ってきたらしいんです。私も部長から呼ばれ、一晩中かかって説明をうけ、許可認可に基準を設けよ、どうしても利権のからむ問題だから注意してやるように言われた。進駐軍の娯楽施設をつくるのはもちろんだが、やはり日本人の娯楽のこともかんがえなくちゃならんわけで、県下にキャバレー何軒、カフェー、バーを何軒にする、慰安所はいったいどこにつくるか。そういうことを真剣に考えて検討し、野毛の方はまだ接収されていなかったのでそこに何をつくる。それから、たとえば本町方面とか伊勢佐木の方は焼け残りのビルなんかをこれにあてる。というようなわけで、知事の決裁もうけてスタートしたわけです。

 しかし、実際に着手するには、どうしても各署の営業主任をたよる以外ないわけです。それで早速、主任会議を開いて指示し、協力をもとめて仕事を実施に移したんです。当時の保安課というのは深川さんが次席で、遠藤さんが慰安所、渡辺さんがキャバレー、須田さんがカフェー、古屋さんが理容・美容というような担当でした。


 はじめは内務省の塩谷事務官から電話があって、マッカーサー元帥のくる前に先遣隊というのが到着する。だから、100名前後の女を至急集めてもらいたい、ということだった。これには参った。それで本牧とか真金町とか、そういう業者の組合長に相談し骨折ってもらったんですが、その慰安所をどこにもっていくか、その場所の選定がまた大変で、たしか大和の草柳だったと思うが、ひとまずそこへ設置し
た。つづいて山下町警友病院近くの互楽荘、それから本牧・大丸谷なんかにもつくった。だんだん藤沢、横須賀、小田原の方にもできるようになったんですが、この営業の許可認可は一と月もたたないうちに飽和状態になりました。

 この私たち警察部保安課のやったことがよかったかわるかったかはともかくとして日本の一般の婦女子が進駐軍兵士の牙にかからずすんだというのは、これはこの時の女たちの献身のためとも言えようし、、また私たちも、あれはあの時としてやむを得なかったことだし、いま言ったような意味で最善をつくしたんだというふうに思っているわけです。

 
 私たちのやった風紀対策は各府県のいわばモデルみたいにみられたんでしょうか。各方面、各府県から来たりして、施設や実施状況というものをそれぞれ案内したり、説明したりしたこともあります。」(『警親』昭和47年第4号<座談会・終戦直後風俗対策>。(県警史引用I)


第5章 「お国の役にたつなら……」

 慰安所設営は、警保局長の通達(8月18日)から一週間内に完了、という破天荒の突貫作業であった。このため保安課員の業務は繁忙をきわめた。当時同課主任(警部補)として勤務していた渡辺一三氏(のち寿署次席)は「はじめの互楽荘は真金町や曙町の業者が共同経営の形でやりはじめたんですが、わずか一週間で閉鎖になりました。女たちを集めるためには本当に苦労した。ジャの道はヘビのたとえで、結局、業者に相談して集めてもらうことにしたんですが、募集のため地方へ出張する者には身分証明書や優先乗車証明書など発行し、便宜をはかってやりました。布団なども県内ではなかなか調達できなくて、埼玉県までとりにいったこともあります。三枚一組の銘仙が950円でした。ベッドは吉田家具店に骨折ってもらいましたが、こういう仕事もすべて保安課員が自動車でとりにいったりしてやったわけですから、まったく忙しく、実際、夜も昼もないという状況でした」と語っている。(県警史引用J)



 当時保安課主任(警部補)遠藤保(のち川和署長)
「真金町にいた女たちが、こういうよごれた体で国の役に立つのなら、よろこんでやりましょうと言って、白百合会というのをつくって本当によくやってくれました。最初の2ヶ月くらいは涙が出るほど献身的にやってくれました。ところがそのうち、もうかるからというのでだんだんパンパンというのが出てきた。それですっかり評判も悪くなりイメージがかわってしまったわけです。はじめの人たちの苦労や功績というものがすっかり忘れられてしまった、というのが実情でしょう。」(県警史引用K)



 横浜市内と横須賀市内におけるRAA施設一覧表(県警史引用L)略



 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

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