真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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三・一運動と高宗前皇帝の急逝(毒殺?)

2014年03月06日 | 国際・政治
 三・一運動とは、日本統治時代の朝鮮で、1919年3月1日に始まった運動であり、独立万歳運動や三・一独立運動などと呼ばれることもある。また、万歳事件、三・一事件などと呼ばれることもあるという。数ヶ月に渡って朝鮮半島全土で展開されたが、朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たったという運動である。

 そして、その三・一運動が、民族挙げての運動になったのは、高宗前皇帝(太皇帝・光武帝)の急逝という事件が導火線になったという。ながらく抑圧されてきた民族の力が公憤として爆発したのは、当時のアメリカ大統領ウィルソンが主張した民族自決主義の考え方に感化されたからではなく、また、難解な漢文で書かれた独立宣言文に共感したからでもなく、殉死を覚悟して韓国の主権守護にあらゆる手を尽くしていた高宗前皇帝が疑問死をとげたからであるという。もちろん、ウィルソンの民族自決主義の主張や独立宣言文も様々なかたちで影響を与えたであろうことは否定できない。しかし、大衆動員の起爆剤となったのは、あくまでも条約批准の拒否や国書の下達、ハーグ特使派遣など主権守護に手を尽くしていた高宗前皇帝の疑問死である、というのである。日本の支配に不満を募らせていた朝鮮民族が、高宗前皇帝の急逝を、日本人による毒殺と見なして不満を爆発させ、起ち上がったということである。
 当時、第2次日韓協約(乙巳条約)が不法に強制されたものであること、また、皇帝が主権守護の意思を持ち、ねばり強い外交交渉を続けて抵抗していることなどについて、韓国国民は新聞報道などでよく知っていたという。したがって、毒殺が疑われる高宗前皇帝の急逝を知らされたとき、君主の仇をうたなければならないと立ち上がった、というわけである。
 
 それは、三月一日の早朝、東大門と南大門などの主要地域に張り出された下記のような壁新聞にはっきりとあらわれているという。

 ああ、わが同胞よ! 君主の仇をうち、国権を回復する機会が到来した。
こぞって呼応して、大事をともにすることを要請する
   隆煕13年正月
                                   国民大会


 また、ソウル以外の地方大都市での集会は、大部分「奉悼会」を開催するとの名文で、大衆が動員されたという。

 米高官に「日韓関係改善は米国外交の優先課題」と言わしめるほどに、現在の日韓関係は冷え込んでいるようであるが、歴史認識の問題として、日本人はこうした事実にも、目を向けなければならないと思う。総督府の日本人関係者が、高宗皇帝の妃である明成皇后(閔妃)を殺害し、高宗皇帝を強制退位させたばかりでなく、日本の植民地支配に抵抗し続けた高宗前皇帝を毒殺したと疑われているのである。
 高宗前皇帝の急性が毒殺であると考えられた根拠は、以前にも触れたが、要約して下記の4つに整理されている。

 (1)崩御後、即時に玉体に紅斑が瞞顕し糜爛した。
 (2)侍女二人が同時に致死した。
 (3)尹徳栄、尹沢栄は当日、晨4時に諸貴族を宮廷内に請激し、日本人が弑殺
    したのではないという証書に捺印しようとする運動に尽力したが、朴泳孝、李
    戴完の両人の反駁によって証書がならなかったのはなぜか。
 (4)閔泳綺、洪肯燮が玉体を歛襲するとき糜爛が早すぎるのを不審に思い、こ     れを外に伝えたところ日本人警官がただちに右の2人を拿致、詰問して激論    した。


 当時、すでに、パリ大学の国際法学者レイ教授が、第2次日韓協約(乙巳条約・乙巳勒約)が無効であると指摘しており、国際法学界でも受け入れられていたということが「日韓協約と日韓併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)で明らかにされている。下記は、その一部抜粋であるが、だとすれば、高宗皇帝の抵抗は当然のことであり、その毒殺説についても、歴史認識の問題として、真摯に向き合わなければならと思う。
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         Ⅴ 光武帝の主権守護外交1905-1907年

2 対米交渉と米国の違約:1905年親書・電報・白紙親書


 ・・・
 
 …乙巳勒約の強制直後、『ロンドン・タイムズ』は条約締結の事実を報道した。この記事は主に日本の資料を用いたもので、日本の公式立場を代弁していた。それにもかかわらず、大臣らが調印を頑強に拒むと伊藤が長谷川を動かして武力を行使し、介入した事実が報道された。この報道と、その後明らかにされた光武帝の勒約無効の外交交渉の事実を知るようになったパリ大学の国際法学者レイ教授は、1906年に『国際公法総合雑誌』に「韓国の国際状況」という論文を発表した。この論文で、彼は光武帝の勒約無効の外交交渉の事実と乙巳条約の不法性について、次のように指摘した。


 ところで、極東の急送公文書の結果、先月11月の条約は、日本のように文明化した国家の精神的かつ肉体的な不当な脅迫によって韓国政府に強要されたのであった。この条約の署名は、日本の全権大使である伊藤公爵と林氏を護衛する日本軍兵士たちの威圧の下で、大韓帝国皇帝と諸大臣から得られたものにすぎない。2日間の抵抗の後、閣議はあきらめて条約に署名したが、皇帝はただちに強大国へ特使、とくにワシントンには大臣を遣し、加えられた脅迫に対して猛烈に抗議をするように命じた。
 署名が行われた特殊な状況を理由に、われわれは1905年の条約が無効であることを確認することに躊躇しない。実際、私法の諸原則の適用により、公法においても、日本の全権大使による個人に加えられた脅迫は、条約を無効とする、同意不備にあたるものと認められる。


 要するに、締結過程で強迫が加えられ、また皇帝がただちに勒約無効化の外交交渉を試みたという事実を根拠に、レイは乙巳条約が無効であることを明らかにした。この論文が発表されて以来、乙巳条約は強迫によって締結されたために無効となる条約の、代表的な事例として国際法学界に知られるようになった。この論文以後、他の国際法の論著にも、この事実が紹介されている。だが、日本の国際法学者である有賀長雄だけがレイの主張を受け入れなかった。彼は日本の侵略をごまかすために、1906年に書いた『保護国論』で、レイ教授の主張と、その根拠となった『タイムズ』記事のように強迫が行使されて条約が締結されても、ほかの国家も類似の行為をしたのだから「おれだけに殺人強盗の罪を問わないでほしい」という詭弁を弄した。その後、この詭弁は国際法学者の論議で一度たりとも受け入れられなかった。後述するが、レイの法律的解釈は、その後、国際法学会で検討が重ねられ、その正当性が再確認されて今日に至っている。

 ・・・(以下略)

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