藤田東湖や吉田松陰の思想に共鳴した幕末の尊王攘夷急進派は、倒幕によって明治維新を成し遂げると、古事記や日本書紀などの建国神話を基に、日本を天皇親政の皇国(スメラミクニ)としてつくりあげていきました。1882年に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した「陸海軍軍人に賜はりたる敕諭」(軍人勅諭)、1889年に制定された「大日本帝国憲法」、さらには1890年に発表された「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)などはすべて、藤田東湖の「神州誰君臨、万古仰天皇」という考え方に通じる内容のものだと思います。明治時代、日本は諸外国と違って、「神国」であり「神州」であるとされたのです。
古くは、北畠親房の『神皇正統記』にまで遡り、江戸時代には水戸学や国学で論じられた建国神話に基づく皇国史観が、明治の国家権力によって国民の思想として、また、国民の生き方を縛るものとして示された結果、真面目で純真な若者ほど、この皇国史観を深く学び、自らのものとして行動したのではないかと、蹶起将校の陳述を読んで思いました。
未遂も含めると、1930年代には、二・二六事件に至るまでに、
1931年(昭和6年)3月20日の三月事件、
1931年(昭和6年)10月の決行を目標として日本陸軍の中堅幹部によって計画された十月事件(別名錦旗革命事件)、
1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した血盟団事件、
1932年(昭和7年)5月15日に武装した海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した五・一五事件、
1934年(昭和9年)に日本陸軍の陸軍士官学校を舞台として発生した陸軍士官学校事件
というような反乱・クーデター・要人殺害事件がありました。
なぜこうした事件が続いたのか、ということの答えは、二・二六事件蹶起将校の陳述のなかに示されていると思います。
例えば、蹶起将校の一人、香田清貞は、当時の国民の窮状に心を痛め、
”私は兵等のこの話を聞いてああそうかと云つて済まして居ることは出来ません。何んとかしなければならぬと云ふことは常に考へて居りました”
と言っています。また、
”陛下が斯くし度い斯くあるべしと云はれたならば直ちに之が国民に徹底し国民が之を拝誦して行ふ”
のが当然なのに、現状はそうはなっていないと、例をあげて言っています。だから
”統帥権干犯者を討取ることに依つて清浄な立派な人が出てくることになるのであります。よく人物がいないと云ふ人がありますが日本は神国であります。只不義を討取ることに依つて立派な人々が現はれて来るのであります。”
ということで、要人殺害を計画・実行したのです。そして、それが多くの人々が望んでいる”昭和維新”であることに、”確固たる信念を持つて居ります。”というわけです。
”大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス”と定められていた当時の日本では、こうした蹶起将校の情勢認識や考え方を否定することは、困難であったと思います。国民の窮状を放置することや統帥権干犯は、皇国日本では許されないことだったのです。
蹶起将校による1936年2月26日の反乱・要人殺害は、”軍人の本分は大権を擁護すること維新を擁護することにある”という主張に基づく行動であり、それは幕末志士の要人暗殺や異人斬りと同じように、彼等にとっては、どうしてもやらねばならないことだったのだと思います。
逆に、政権中枢や軍の上層部は、二・二六事件に正面から向き合い、処断することは出来ない情況だったということでもあると思います。だから、狡猾な方法で反乱軍を鎮圧し、戒厳令下の上告なし、弁護人なし、非公開、即決の特設軍法会議で、蹶起将校十六人を死刑、その他数人を禁錮に処して、自由な報道を禁じたのだと思います。政権中枢や軍の上層部にとっては、事件をうやむやにしたり、隠蔽したりするしか方法はなかったのだと思います。
下記に抜粋した文章にあるように、蹶起将校の一人、渋川善助は”公訴事実”に悉く反論しています。特に下記の三点は見逃すことができません。
”一、本件は反乱罪とせられあるも何れを以て反乱の罪なるや。若し奉勅命令に背きたる所為が同罪となるとすれば私は其の命令に背き又は之に反抗したる事実なく、
二、我現下の情勢を目して元老、重臣、官僚、軍閥、財閥等所謂特権階級が国体の本義に悖る事実は実際であつて蹶起趣意書に記載してある通りであります。これは観念にあらずして事実であります。
三、所謂昭和維新を断行云々とありますが言葉の問題にあらずして精神であつて臣民として何人も陛下に翼賛し奉るべきで之を悪意に執るべきではありません”
二・二六事件は、伊藤博文や井上馨、岩倉具視、山県有朋など幕末の尊王攘夷急進派が明治維新以後に作った皇国日本では、起こるべくして起こった事件だろうと思います。
”表向き”だけではなく、ほんとうに ”廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決シ、上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行イ、智識ヲ世界ニ求メ”ていれば、上記のような反乱・クーデター・要人殺害事件は起きなかったし、その後、戦争に突き進むこともなかったのだと思います。
でも、薩長を中心とする倒幕派によって作られた、古事記や日本書紀などの建国神話に基づく皇国日本は、実際は、倒幕派のための日本といえるような実態であったために、内部崩壊する可能性を孕みつつ、戦争に突き進んでいかざるを得なかったのだと思います。
蹶起将校の陳述を読むと、二・二六事件などの反乱・クーデター・要人殺害事件の数々は、表向きの”皇国日本”と、薩長を中心とする藩閥のための政治の矛盾が引き起こしたと言っても過言ではない気がします。
また、蹶起将校のような純真でまじめな青年を、建国神話や尊王思想で縛ることなく、彼等に”智識ヲ世界ニ求メ”ていろいろな思想を学ぶ機会を与えていれば、世界で通用するはずのない”皇国日本”を乗り越えて進んでいただろうし、少なくともあれほど悲惨で惨酷な戦争を継続することもなかったのだと思います。
下記は、「二・二六事件裁判記録 蹶起将校公判廷」池田俊彦(編)高橋正衛(解説)(原書房)から抜粋しました。
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第七回 公判調書
<香田清貞の部>
・・・
陛下が斯くし度い斯くあるべしと云はれたならば直ちに之が国民に徹底し国民が之を拝誦して行ふと云ふことになります。
以上の様に考えて居りました。斯くして初年兵下士官等を教育して居る中に一つの矛盾を感じました。斯くの如き忠良なる下士官兵の身上特に経済上のことを考へますと気の毒な点の多いことでありました。
初年兵七十四・五名中軍事救護を要する者が三十五名位あり、夫れに近いものが二、三十名ありまして全く生活上心配のないもの及単身であると云ふものは僅か十五名位のものであることであります。私が兵に身上を聞きますと皆大丈夫でありますと答へます。又父兄も家のことは大丈夫であるから家のことは心配せず勤めて来いと云つて居ります。この様な事例は沢山ありますが既に村中氏が当公廷に於て述べております。
私は兵等のこの話を聞いてああそうかと云つて済まして居ることは出来ません。何んとかしなければならぬと云ふことは常に考へて居りましたが之に付て如何にするかと云ふことに付いは私には判らなかつたので只上官に其の事情を話し何んとかして呉れと申出て居たのでありました。
尚経済上のことに付て一つ申上げて置き度いのは私は昭和二年頃生まれ故郷の佐賀に帰省しました。そして中学校時代の同級生に田ん圃の傍で会ひました。其の時同級生から俺は朝から晩まで働いて居る。決して遊んで居ないのであるが毎年々末には借金が殖えて行く。一体どうしたらよいかと云つて聞かれました。其時私はそうかと云つた丈けでありましたが、私の郷里は二毛作田で米や麦が沢山穫れて豊かな土地でありますが、其の様な状態であることを知りました。私は兵の真心とこの社会の矛盾とを如何にして救ふべきか判りませんでしたから只上官に話してお願いする丈けでありました。
其の様な状態で昭和六年に入り十月事件が起る前頃になつて当時連隊の将校室で時局に付て昼食の際連隊の中少尉の間で研究し様と云ふので会合しました。其時国家革新と云ふ様な問題が出て栗原から或る案が提出されました。当時一般の空気は軍人が其の様なことをしては不可と云ふので先輩将校が栗原中尉を圧迫し様とする態度を執つて居たので、私はこれを知り事情如何に不拘先輩が之を圧迫すると云ふのは不可と思ひました。其の後栗原中尉から菅波三郎大尉に会つて呉れと云はれたので同大尉は私と同期生でありましたから私も会つて見様と思ひ栗原中尉と一緒に当時菅波大尉の居た同潤会「アパート」に行き同人に会ひました処、菅波大尉は私の考へて居た様なことを実行し様として居ると云ふので、所謂十月事件の計画内容を話して呉れました。そして尚色々話を聞き又栗原中尉から北一輝著日本改造法案大綱をも見せられました。私は菅波大尉を信頼して居りましたので同人と行動を共にする決意をしたのであります。其当時の同志は村中孝次、安藤大尉、栗原中尉私等でありました。
私は当時国家革新と云ふことに付て理論的な頭が未だ出来て居なかつたのでありますが、十月事件の実行計画目的等も決定し又実行後の建設計画の内容も見せて貰ひました。夫れには当時指導的立場にある人の人名も出て居りました。一般には建設計画がなくて事を行ふのは破壊丈けではないかと云はれました。これは今回の事件に付て憲兵から取調べられたときも同様なことを聞かれましたが私は当時建設計画に付ては異なつた考へを持つていました。即ち建設と云ふのは無い所へ物を作ることであります。然るに我国体は完全無欠のものでありまして私共が之を作るものではありません。只種々な埃や汚が付て居たり垢が付て居たりしますので之を取除くと云ふことが考へられるのであります。この取除くと云ふことが即ち光ると云ふことになるのであります。従つて建設なるものは我国体に合致しないことであります。例へば統帥権干犯者を討取ることに依つて清浄な立派な人が出てくることになるのであります。よく人物がいないと云ふ人がありますが日本は神国であります。只不義を討取ることに依つて立派な人々が現はれて来るのであります。建設計画を樹てて事を行ふと云ふことは我国体に悖るものであります。
私は斯くの如き考へを持つて居たので十月事件の計画については或る疑問を持つて居りましたので、菅波大尉に何か不純な点を感ずるか貴様はやる気かと云つて聞きました処、同大尉は確にさうだ俺も同じ様に考へられるが物事には勢と云ふものがあるから斯くなつては止むを得ない。若しも不純な点があれば外部にあつて傍観せず之に飛込んで行き其の不純な点を取除かねばならぬと云はれ私も同感でありましたから参加の決心をしたのであります。
又当時同志は国家革新を叫び農村救済とか外交刷新とか経済を建直すとか云ひ個々のことを挙げて論じて居りましたが、これは陛下の大御心に反しはしないかと考へました。私共は生活が困難であるからとか飯が食へないからと云ふ様なことでは不可である。私共は大御心に依るならば餓死も亦喜ぶものであります。私は以来聖勅を拝誦しまして昭和維新と云ふのは前回に述べた通り確固たる信念を持つて居ります。
昭和元年十二月今上陛下御践祚後に於ける朝見式の際賜はりたる詔勅中に明瞭に昭和維新に関して仰せられて居ることに依りますと、
一、思想に付て
一、経済に付て
一、国体に付て
一、人口に付て
の以上四問題が示されて居ります。
思想については
輓近(バンキン)(セイタイ)漸ク以テ推移シ思想ハ動モスレハ趣舎異ナルアリ
と仰せられて居ります。この趣舎相異なるありと云ふのは色々の思想が相対して居るのであります。これはどうしても討取らねばなりません。日露関係は思想を異にして居ります。赤露を討つことは単に彼の兵力を討つことではありません。彼の思想を討つことでなければなりません。
経済については
経済ハ時ニ利害同シカラサルアリ此レ宜シク眼ヲ国家ノ大局ニ著ケ挙国一体共存共栄ヲ之レ図リ
と仰せられて居ります。明治大正の時代に於て資本主義は国運の隆昌を来たしたが現在に於て之が果たして隆盛を来すことになるかどうかを考へて見よと云ふことであります。
国体について
国体ニ不抜ニ培ヒ
と仰せられて居ります。これは即ち国体明徴にすることであります。この為に我国はどんどん生長しどんどん養分を吸収して居ります。国体に付いて根本的なものを堅持して大権を擁護し顕現することであります。
人口に付て
民族ヲ無彊(ムキョウ)ニ蕃クシ
と仰せられて居ります。これは満州事変のことを意味するものでありますが、只二千万三千万の人口を解決することではありません。無彊と仰せられて居ります。現在世界の文物は皆開けて居ります。我国は人口が拡張して居りますのでこの拡張を期して大いに開拓すべしと云ふ御趣旨であります。日本が全世界の機運を統合して新たなる光を全世界に与えなければならぬと云ふことにあります。私が何んとかせねばならぬと云ふのはこの大御心に依るのであります。この私の苦痛は押へられて居りました。これは国民の翼賛が足らぬのであると痛感しました。私共軍人は軍人としての本分があります。私はその本分を尽す為に努めて来ましたが或る者は軍人が之に関与しては不可と云ふものもありましたが、私は軍人の本分は大権を擁護すること維新を擁護することにあると信じて居ります。この事は明治十五年の軍人に賜はりたる勅諭中に、
天子ハ文武ノ大権ヲ掌握スルノ義ヲ存シテ再ヒ中世以降ノ如キ失態ナカランコトヲ望ムナリ
と仰せられて居ります。これに依りまして軍人は特に大権擁護の職責を与へられて居るものと信じ其の考へを持つて勤めて行かなければならぬと確信します。
以上の様な私の信念は昭和六年頃から昭和七年五、六月頃までの間に得たものでありまして、其後この信念に依つて行動して来たものであります。
・・・
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第十九回 公判調書
<渋川善助の部>
・・・
問 本件に付検察官の陳述せられたる公訴事実に付意見又は弁解すべきことありや
答 それに対し当法廷に於て今泉義道を除く各被告人が申上げたことに付て同感であります。私としては次の八点に分て申上げます。
一、本件は反乱罪とせられあるも何れを以て反乱の罪なるや。若し奉勅命令に背きたる所為が同罪となるとすれば私は其の命令に背き又は之に反抗したる事実なく、
二、我現下の情勢を目して元老、重臣、官僚、軍閥、財閥等所謂特権階級が国体の本義に悖る事実は実際であつて蹶起趣意書に記載してある通りであります。これは観念にあらずして事実であります。
三、所謂昭和維新を断行云々とありますが言葉の問題にあらずして精神であつて臣民として何人も陛下に翼賛し奉るべきで之を悪意に執るべきではありません。
四、日本改造法案大綱に則り本件を決行したる如くあるも然らず、蹶起将校中には同書を見たることなき人もあるのであります。
五、本件は第一師団が満州派遣前に於て決行せざるべからず如く観察せられあるも満州に師団が派遣の有無に拘らず決行の時期になつて居たのであります。
六、本件の首脳者として村中、磯部、香田、栗原等を指されて居りますが本件には首脳者はなく却て実行を促進したるは他の若い将校であると思ひます。
七、私が地方の同志を蹶起せしむる目的を以て拳銃を中橋照夫に交付したる事実を問われて居りますが、現下国家内外の情勢は民衆が維新に翼賛するは当然でありまして当時私は地方の状況は知らなかったので蹶起せしむる目的を以て同人に拳銃を交付したるものではありません。
八、本件蹶起後坂井部隊に投じたるは事実なるも同部隊を指揮したることなく唯意見を述べたに過ぎません。
・・・
問 被告は日本改造法案大綱に掲載しあることに賛成か。
答 私は大体に於て当時卓見と思ひました。同法案大綱の内容及著者の精神を誤解して居る人は多い様でありますが、あれは欧州戦争直後当時社会主義が台頭して其の思想が盛んになって居た際之に対抗する為に書かれたものであり、私有財産の制限なども時代に応じて其の標準を定むべきは勿論であります。著者も其の精神と思ひます。又金融機関のこともよく吟味して見れば解るのであります。あの当時に於てあの程度に書かねばぴんと読む人の頭に響かぬので左様に書いたものと思はれます。
緒言に於て、「天皇大権の発動を奏請し天皇を奉じて速に国家改造を完ふせざるべからず云々」とあつた様に思ふ。北氏は法華経に帰依し居る人であり国家の為に生死を賭して愛国の精神を以て書かれたものであります。それを何事か不穏矯激なるものの伏在せるが如く誤解して居る人のあるのを遺憾と思ひます。内容を吟味して行けば同氏の精神も判ると思ひます。
問 本件決行の計画を如何にして知れりや。又同志の連絡は如何。
答 私が青年将校が何事か遣るだろうと感じたのは相沢中佐公判の頃からであります。同公判に於て満井中佐が初から提言せられたことが些も反省せられず相沢中佐が公判で叫びしことが軍首脳部や上層部に反省の実が見えないのみならず却て下の方に弾圧を加へ真相を書かんとすれば発禁となり、正しいことが伝へられず、外に方法がないといふ状況であつたので、純真なる青年将校のことなれば何か遣らねば治まらぬだろうと感じたのでありました。私は相沢公判の状況を青年将校に伝へる為に村中と竜土軒の会合に二、三回当時行つて説明しましたが、当時左様に感じたのであります。
二月中旬頃西田宅に行つた所村中と会ひ其のとき村中より第一師団が満州に行かぬ前に在京の青年将校が蹶起するに至れば、君は其の時どうするかと云はれましたので私は遣るときは何時でも自分も参加すると云つたことがあります。それが本ものとなつて此度の事件が起つたのであります。
本件の計画あることを知つたのはその後で二月二十三日午前九時頃小石川区の水道端の直心道場に村中が参り本件決行の計画を話され愈々二月二十六日未明を期し決行することになつたと告げられましたので知りました。
・・・
問 被告人は蹶起趣意書に同感か。
答 はい同感です。
問 本件に参加したる原因動機は如何。
答 私が本件決行に参加するに至りたる事情は予審に於て手記として提出して居りますから御覧を願ひますが尚多少付言します。私は国家革新運動の経歴に於て申上げました如く我々の見聞測知する所総て国家を矯正せんとするものであり、悠久の昔より永遠の将来に向つて進化は日進月歩永劫不断の破邪顕正(ハジャケンショウ)が行はるるのでありますが、皇国の国体は肇国の御神勅並に列聖の御詔勅に仰ぎ奉り国史の遺跡に照して明かであります。即ち皇祖皇宗国を肇め給ふこと宏遠に徳を樹て給ふこと深厚に万世一系に皇謨(コウボ)を伝へ給ひ宝祚の御隆え天壌と与に無窮にましまし万民克く皇運を扶翼し奉りて君民一体一国一家、義は君臣にして情は猶父子の如く祭政一致忠孝一本にして八紘一宇六合光被の天業を具現恢弘すべく日に新に月に進み年に弥栄なるにありますが、国内の情勢を見れば欧米輸入文化の余弊が漸く累積し此の制度機構を渇仰(カツギョウ)導入し之に依つて其の地位を維持しつつある階級は恰も横雲の如く仁慈(ジンジ)の大御心を遮りて下万民に徹底せしめず下赤子の実情を御上に達せしめずして、内は国民其堵に安んずる能はず往々不逞の徒輩をすら生じ、外は欧米に追随して屡々国威を失墜せんとせらるるのであります。「万里の波涛を開拓し四海の億兆を安撫せし」と詔ひし維新の御宸翰も、
「天下億兆一人モ其所ヲ得サルトキハ皆朕カ罪ナレハ」
ト仰せ給ひしも、
「罪シアラハ我ヲ咎メヨ明津神(アキツミカミ)、民ハ我身ノ生ミシ子ナレハ」
との御仁慈も殆ど形容視せられたるが如き有様であります。
殊に軍人には「汝等皆其職ヲ守リ朕ト一心ニナリテ力ヲ国家ノ保護ニ尽サハ我国ノ蒼生ハ永ク太平ノ福ヲ受ケ我国ノ威烈ハ大ニ世界ノ光華トモナリヌヘシ」
と望ませ給ひしも現に我国の状況は蒼生窮に喘ぎ国威は亜細亜にすら怨嗟せしめつつあるのであります。軍人亦宇内の大勢に鑑みず時世進運に伴はず政治の去就に拘泥し世論の是非に感迷し報告尽忠の大義を忽苟にしあるの現状であります。
又農村漁村は疲弊其の極に達し生活の不安を感じて居るの情況であります。
之は要するに所謂元老、重臣、軍閥、官僚、政党等所謂支配階級が国体の本義に恃り大権の尊厳を軽んじ私利私欲を壇にし国政を紊り国威を失墜せる元兇であると推定するものであります。
即ち倫敦条約並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯、至尊兵馬大権の僣窃を図りたる三月事件或は学匪共匪大逆大本教等利害相結んで陰謀至らざるなき有様であります。国体明徴問題においては政府当局と妥協し渡辺教育総監自ら天皇機関説を擁護するの情勢にあります。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件憤騰、相沢中佐の剣尖となるも故なきではありません。之れ国情が与へた当然の蹶起であります。就中教育総監更迭に伴ふ統帥権干犯、渡辺教育総監の天皇機関説問題に関しては青年将校の意見具申は中途に阻まれ或は無視せられ部外よりの批判論難は官憲に依つて弾圧せられ軍隊は一部特権閥族の私兵化せんとしたのであります。
国の乱るるや匹夫(ヒップ)猶責あり況んや至尊の股肱として国家の保護に任じ我国蒼生をして国威を世界の光華たらしむべき重責にある軍人にて立たずんば忠にあらず「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と詔ひし大御心を奉戴して国家の保護に任ずべき絶対の責任を果たさんとして純真なる将校が出撃したるは其の本分たるものであります。
政府及軍上層部の重職にあるものは事毎に辞職を以て其の責任を免れんとして反省是正することなく大御心に副ひ奉らんと為さず。事茲に至つては君側の奸臣軍賊を斬除して中枢を粉砕して神洲の正気を放つ。軍人の任務として克く為すべく臣子たり股肱たる絶対道として蹶起したるものにして最後の実力であります。私も彼等青年将校と同じく叙上の如き理由に依り報国の大義に相協ひ同志として決行に参加するに至つたのであります。
問 現在の心境は如何。
答 悪いことをしたとは思ひませんが。
宸襟を悩し奉りたることは恐懼の次第であります。
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