真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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船中八策、大政奉還上表文、五箇条の御誓文

2018年10月24日 | 国際・政治


 幕末から明治初期の様々な歴史的事実を調べると、昭和のあの馬鹿げた戦争は、明治新政府の政治が受け継がれた結果もたらされたといっても過言ではないように思います。

 列国の圧力が幕藩体制を揺るがした幕末、日本に議会制度を導入することよって、国家の意思形成及び統一を図ろうとする政治思想が、様々なところで論じられました。その公議政体論の代表的なものを読むと極めて似通っていることに気づきます。
 特に注目すべきは、徳川慶喜が提出した「大政奉還上表文」と、明治新政府が発表した「五箇条の御誓文」が驚くほど似通っていることです。

 一例を挙げれば、坂本龍馬の「船中八策」に「万機宜シク公議ニ決スベキ事」とありますが、徳川慶喜の上奏した「大政奉還上表文」にも、「広ク天下ノ公議ヲ盡シ」とあります。また、「五箇条の御誓文」には「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」とあります。同じようなことをいっていると思います。そして、「維新前後に於ける立憲思想」尾佐竹猛(邦光堂)を読めば、似通っている理由がわかります。その一部を抜粋しました。資料1です。武力をもって決着をつけないとならないような違いはないのです。(ただし、「維新前後に於ける立憲思想」尾佐竹猛(邦光堂)の「船中八策」の文章に欠落部分があるため、「検証・龍馬伝説」松浦玲(論創社)のものに置き替えました)

 大政奉還を上奏した徳川慶喜は、孝明天皇による「将軍宣下」によって、日本の統治大権を行使する征夷大将軍職にありました。したがって、大政奉還後は、諸侯会議によって新しい政権が生み出されるべきであったと思います。将軍職にあった徳川慶喜が大政奉還を上奏したにもかかわらず、薩長両藩に「賊臣慶喜を殄戮」せよという「討幕の密勅」が下されたのはなぜでしょうか。また、この密勅と同時に、「右二人久滞在輦下助幕府之暴其罪不軽候依之速加誅戮旨被仰下候事」として、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬の”誅戮”を命ずる勅書も出されていることが、三条実美年譜で明らかでであるといいます。なぜ”誅戮”を命ずるのでしょうか。元服前の満14歳で皇位に就いた明治天皇が、そうした密勅や勅書を発するとは考えられません。

 「検証・龍馬伝説」松浦玲(論創社)の著者は、

”薩長討幕派が十二月九日に敢行した王政復古クーデタは、大政奉還後の公式の政治日程が諸侯会議であることを無視し、あるいはその可能性を横合いから断ち切って、武力で御所を固め天皇親政を宣言したものである。会議抜きで「盟主は天皇」と決めたのである。
 会議抜きも、盟主は天皇も、龍馬の構想とは全く異質だった。倒幕派にしてみれば、会議をすれば盟主が慶喜に落ち着くことは避けられない見通しがあり、武力で、クーデタで事を処するしかなかった。また政権代表には、会議で選ばれるという次元を超えた存在、つまり天皇を当てるしかなかった。

 と書いています。薩長倒幕派(かつての尊王攘夷急進派)の独善性を正しく指摘していると思います。

廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」と明示しながら、薩長倒幕派が、岩倉具視等とともに、天皇を抱き込み、諸侯会議を無視して武力で政権奪取を画策したことは否定できない事実だと思います。薩長倒幕派が「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」と本気で考えたのであれば、諸侯会議で、大政奉還後の日本のありかたを「決ス」べきで、それをしなかった薩長倒幕派が明治新政府を主導したことが、その後の日本の歴史に様々な問題を発生させることになったのではないかと思います。「明成皇后弑害事件」、日清戦争旅順虐殺事件等々…。

 したがって、安倍首相が委員長となって進める「明治150年記念式典」は、近代化のみに焦点を当て、そうした不都合な事実を覆い隠し、薩長を中心とする明治政府の狡猾で野蛮な政治を受け継ごうとするもので、戦争の歴史を振り返り、近隣アジア諸国との歴史認識の溝を埋めることを不可能にするのではないかと思います。

資料1------------------------------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー----

                        第四章 議会設置の論議
第一節 土佐藩の議会論

慶應三年、薩長連合成り、将に武力を以て、幕府を倒さんとし、幕府の謀士等、辣腕を振ふて、薩長を圧せんとし、風雲急なるとき、突如、一大新運動を起し、此両者に割り込んだのは、土佐藩であつた。
 世に宣伝せる坂本龍馬の、八策なるものは、曰く、

第一義 天下有名ノ人材ヲ招致シ顧問ニ供フ
第二義 有材ノ諸侯ヲ撰用シ朝廷ノ官爵ヲ賜ヒ現今有名無実ノ官ヲ除ク
第三義 外国交際議定ス
第四義 律令ヲ撰シ新ニ無窮ノ大典ヲ定ム律令既ニ定レハ諸侯伯皆此レヲ奉じシテ部下ヲ率ユ
第五義 上下議政所
第六義 海陸軍局
第七義 親兵
第八義 皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス
右豫メ二三ノ明眼士ト議定シ諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々
○○○自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下万民ニ公布云々
強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス権門貴族モ貸借スルコトナシ

と右の中○〇〇とあるのは容堂公とするのをわざと避けたのである。而して、此八策に付ては、医師今井順正の名を記憶せねばならぬ。

註30 実は此建白の根源をいふと高知の漢方医今井順清といふ男の発案なのだ医師や町人百姓は孰(イズ)れも勤王家であるが今井は其優秀であつたのである。處が西洋医を研究する為めに長崎へ出て坂本と往来し段々話しあつて見ると頗る名説がある坂本も大に感心してその説を基礎として彼の八策を作つた(佐々木老侯昔日談)とあるが順清は純正で長岡謙吉の前名である。

 此意見の藩論となつたものは、(慶応三年六月十五日に確定せることは中岡慎太郎の日記見ゆ)

一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事
二、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事
三、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事四、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事
五、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事
六、海軍宜ク拡張スベキ事
七、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事
八、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事
以上八策ハ方今天下ノ形勢ヲ察シ之ヲ宇内万国ニ徴スルニ之ヲ捨テ他ニ済時ノ急務アルナシ
苟モ此数策ヲ断行セバ皇運ヲ挽回シ国勢ヲ拡張シ万国ト並行スルモ亦敢テ難シトセズ
伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン


との建白案となつた。これは、坂本が後藤と同船し長崎より上京の際船中にて協定し海援隊の書記長長岡謙吉をして起草せしめたとの説。(31)と後藤象二郎の案といへる説。(32)とあるが土佐藩有志多数の手に依つて修正せられたといふのが正しいようである。


 長岡謙吉は前述の今井順正のことであるがこれも憲政史上伝ふべき人物である。其著「藩論」の所説が、当時の与論喚起に力ありしことは、閑却すべからざるのである。

扨て、右の案は、更に修正せられて薩土盟約となり
 一、方今皇国の務、…以下略 

 ・・・

 仍ち、土佐藩は、将軍をして政権を奉還せしめて、朝廷を中心力とし。之に与論府を以て国論を統一すべしといふにあり。斯くして、勤王党を満足せしめ、徳川氏を滅亡より救ひて、佐幕党の意を得、而して薩長をして独り威権を壇にせしめず、平和に政権を授受して、国民を戦争の惨禍より、免れしめんとするにありて、武力一点張りの諸藩をしてアットいはしめたのである。
 是に於て考察すべきは、土佐藩は如何にして、斯くも重要に、斯くも具体的に、議会制度を意識したかの問題である。其一は、言ふ迄も無く、上来叙述したる時勢の賜である。其二は、藩主容堂の英明である。容堂は支那を通じて、世界の大勢に注意して居つたのである。
其三は、参政吉田東洋の感化である。
其四は、当時海外の文化を窺知する、唯一の門戸たりし、長崎港と、土佐藩の特別関係が、遂に闔藩をして、憲政思想の萌芽を早からしめたのである。
 而して、また別に後節に述ぶるが如く、中井弘の新知識が与つて力ありしことも閑却してはならない。
 更に何人も想像するは外人との関係である。これにつきては、
 土佐に至り、先づ後藤象二郎及び同地に在りたる幕府の若年寄平山図書頭等に会す。
 後藤は最も親しくサトウに接して政事を談じ我国は宜しく英国に倣ひて憲法を定め国会を設くべし   といへり云々
 パークス土佐を去るの後、サトウは留まりて高知城に至り前藩主山内容堂に面す、後藤亦陪坐して共に政事を論議し、憲法及び議会の権能と選挙に関する質問あり、留まること数日の後去りて長崎に赴く云々(「アーネストサトウ氏」の一節)
との史料もある。


第二節 幕府側の議会論

 土佐藩の議会論と、相関連して論ずべきは、幕府側の議会論である。然るに土佐藩のそれは、世に宣伝せるに反し、幕府側のそれは、殆んど世の記憶だに存せないのである。
 幕府如何に衰えたりと雖、有識の士は絶無では無い。また、世界の大勢に付いての智識は必ずしも各藩よりも劣るものでは無い。否寧ろ一歩先んじて居つたとも云へる、然るに敢て議会論に限らず、凡ての施設に付ても、幾多伝ふべき事蹟のありしにも拘はらず、悉く湮滅して人の知るものなきは、何故であるか、言ふ迄も無く、古来幾度は繰り返されたる如く、敗者の常に被るべき悲哀である。

 幕臣大久保忠寛(一翁)は、文久年間既に政権奉還を主張した達識の士であるが、文久二年の春「大小の公議会を設け、大公議会は全国に関する事件を議し、小公議会は一地方に止まる事件を議する所とし其議場は、前者は京都或は大阪に置き、後者は江戸其他各都会の地に置くべし、又大公議会の議員は諸大名を以て之に充て、内五名を選びて常議員とし、其他の議員は、諸大名自ら議場に出づるも、管内の臣民を運びて出場せしむるも、妨なきこととすべし。五年に一回之を開き臨時議すべき事件あらば臨時にも開くべし。小公議会の議員及会期は、之に準じて適宜の制を定めん」との建白を時の政事総裁松平春嶽に上つた。即ち国会と、地方府県会の制を、力説したのである。

 坂本龍馬は、始め大久保を訪ひ、其大政奉還論を聞き、幕臣中斯る達識者あるかと推服し、其説を以て、松平春嶽横井小楠等にも遊説した、後年五箇条の御誓文の起案は、坂本の系統を引ける福岡孝弟、横井の系統を受けたる由利公正、との合作に出でたるは世の知る処である、しかも此二大系統間に介在し、夙(ツト)に大政奉還論、と議会論とを主唱せし、大久保の卓識は、此二者に譲らざるのみならず、或は反つて此二者は大久保の説に啓発する処(トコロ)ありし、といふも可なりである。幕臣側の議会論の第一人者としてまた我国憲政史上忘るべからざる一人として爰に之を記すのである。

元治元年、薩藩吉井友実が大久保利通に送った手紙の一節に

 大久保越州、横井、勝などの議論長を征し、幕吏の罪をならし天下の人材を挙げて公議会を設け諸生と雖其会に可出願之者はさつさと出し公論を以て国是を定むべしとの議に候云々

といふのである。大久保の論は右の如く。また横井小楠の議会論は時節に述ぶる如くである。此頃となりては幕吏の有識者間に、議会論が勢力を占め、それが薩藩に迄知られて居ることが推知される。以て大勢の推移を知るべきである。
 此頃、水野筑後守の唱へた、政体改革論は、純然たる議会論では無いが、大久保の意見に近き説であつた。

 開成所教授加藤弘蔵(後の文学博士・法学博士・男爵加藤弘之)は、文久元年『隣草』の著も出来、慶応二年に其名著『立憲政体畧』の稿を起したのであるから、幕吏間には、議会思想は、相当に知得されて居つたのである。而して最新の智識を以て、具体的に、詳密なる案を立てたのは前掲西周助であつた。

 ・・・以下略 

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                         大政奉還上表文

臣慶喜、謹ンデ皇国時運之沿革ヲ考エ候ニ、昔、王綱紐ヲ解キ、相家権ヲ執リ、保平ノ乱、政権武門ニ移リテヨリ、祖宗ニ至リ、更ニ寵眷ヲ蒙リ、二百餘年子孫相承、臣其ノ職ヲ奉ズト雖モ、政刑当ヲ失フコト少ナカラズ、今日ノ形勢ニ至リ候モ、畢竟、薄德ノ致ス所、慚懼ニ堪ヘズ候。況ンヤ当今、外国ノ交際日ニ盛ナルニヨリ、愈々(イヨイヨ)、朝権一途ニ出申サズ候テハ、綱紀立チ難ク候間、従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ、広ク天下ノ公議ヲ盡シ、聖断ヲ仰ギ、同心協力共ニ皇国ヲ保護仕リ候得バ、必ズ海外万国ト並ビ立ツベク候、臣慶喜、国家ニ盡ス所、是ニ過ギザルト存ジ奉リ候、去リ乍ラ、猶見込ミノ儀モ之レ有リ候得バ、申シ聞ク可キ旨、諸侯ヘ相達シ置キ候。之レニ依リテ此ノ段、謹ンデ奏聞仕リ候。以上 

資料3--------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー----------------------------

                         五箇条の御誓文

一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フべシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ

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