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中国経済崩壊と第三次世界大戦の可能性あり。

ジョージ・ソロス

中国経済が崩壊し、第三次世界大戦が起きる可能性あり

2015・8・18ダークネスDUA

ジョージ・ソロスが、中国の大企業であるアリババや、バイドゥの株式をどんどん売却している。「中国売り」だ。ソロスは莫大な金を賭けて利潤を追求している投機家であり、その投機家が中国の成長を投げた。

 ソロスが中国株に見切りをつけたというのは、2015年5月19日の世界銀行のブレトンウッズ会議で自らの口で以下のように語っていることでもわかる。

「中国が経済崩壊し、第三次世界大戦が起きる可能性がある」

これは「世界銀行」の会議の中での発言であることは重要視されてもいい。

 中国経済の崩壊は2015年5月19日の段階で欧米の指導者にはすでに『確認』されていたのである。そうしてどうなったのか?

 ●バブル、正にその頂点で中国株を売り抜けた。

2015年6月に入ってから、中国の上海市場は怒涛の如く暴落していくことになった。

 2015年5月『中国は経済崩壊する』

2015年6月『上海市場の大暴落』

ソロスが口先だけでそのように言っていたのではないことは、この時期に所持していたアリババやバイドゥの株を完全に手仕舞いしていたことを見てもわかる。

2015年5月と言えば、上海株式市場がバブルの最高潮にあった時期である。つまりソロスはまさにその頂点で中国株を売り抜けていたことになる。

 ジョージ・ソロスの物事を見るタイミングというのは、なかなか普通の人にはあり得ない程見事である。まるで相場の動きを知っていたかのような、信じ難いまでのタイミングであった。続く

 

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6・戦災と震災  夢は悪夢となって(2-2)

6・戦災と震災

夢は悪夢になって(2-2)

帰国後は大学を出て地元の中学の先生になった。

国は新しい国策として原子力政策を打ち出した。今度は「夢のエネルギー」と言い出す。

双葉郡は当時県民所得が下から2番目。貧困からの脱却を原発に託し、1971年(昭和46年)福島第一原発が稼働した。

40年後、夢は悪夢になった。本宮氏の仮設住宅に身を置く避難生活は4年4カ月を超す。『また棄(す)てられた』と思い知るには十分な期間だった。

 国も東京電力も誰も法的責任を取っていない。戦争責任を国民の手で問わなかった無責任体質がこの体たらくを生んだ。原発事故の明くる年に郡山市であった反原発集会に呼ばれ、マイクを取った。

「私は子供の時、親に『何故戦争に反対しなかったの』と聞きました。私が今の子供たちに『なぜ原発に反対しなかったの』と問われるでしょう』60世帯居た仮設住宅の住人は半分に減った。

再スタートの拠点となる住まいを新天地に求め仮設を去った。

 自分はその気が起きない。2度の棄民体験が生活を本格再建するエネルギーを奪い取った。仮住まいのまま一生を終える将来像が現実味を増す。趣味はガーデニングだった土をいじると心が和んだ。

 仮設住宅にも花壇がある。ボランティアが来て住民を誘って花を植える。橘さんは遠巻きから見ていた。原発事故が起きて土に触れなくなった。放射能への脅えは、趣味をも奪ってしまったのだ。終わり

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戦災と震災5・満州引き揚げと原発事故・ニ度の棄民

 

戦災と震災

5・満州引き揚げと原発事故(2-1)

2度の棄民気力奪う

国道114号は原発事故から逃げる車で身動きが取れなくなった。フロントガラス越しに見える車の列が記憶の外に在った70年前の光景を呼び起こす。

人の列。闇夜の行進。父母に手を引かれていた。まだ5つ。荒野に切り開かれた道を月光が照らす。大人も無言で歩を運んだ。

橘 柳子(りゅうこ)さん(75)=福島県浪江町=は旧満州(中国東北部)のハルピンで敗戦を迎えた。ソ連軍が迫り、開拓団住民を捨てて逃げた。関東軍の兵舎はとうに、もぬけの殻だった。

幌の無い貨車に押し込まれた。床がスカスカでレールが見える。振り落とされる人が居た。列車はお構いなしに先を急いだ。満州で引き揚げ船に乗った。民間船だった。船内で息絶える人が居た。こも巻にされ海に放られた。

佐世保(長崎県)に着いた。汽車を乗り継ぎ、浪江に戻った。親の故郷だ。藁焼きの煙が空にたなびき、帰国を実感する。

 満蒙開拓は、農民救済と食糧増産の名目で進められた。「王道楽土」。貧しい農家の次男坊、三男坊が国のスローガンを信じ、一旗揚げようと思って海を渡った。

父も農家の2番目。夫婦で入植し。南満州鉄道で荷役検査の仕事をする。開拓団は満州国の治安維持、北方警備の役目も担った。

 「国に棄(す)てられた」と思っている。

関東軍は、いの一番に逃げた。引き揚げ船も民間任せ。

国策で異国に送り込んだ国民を置き去りにした非道を許す気に成れない。続く

 

  

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封殺と黙殺 (2-2)戦災と震災

戦災と震災

4封殺と黙殺(2-2)

 言葉狩りは民衆にも手加減しない。〈若松市(現会津若松市)の31歳の職工の男が昭和12年、集会で『俺は戦争が大嫌い。

 ある部隊は、敵前50メートルの泥田のようなところにおり、大正9年ごろに作った堅パンを拾日間も食ったさうだ。七百人ぐらいがやられ、ほぼ全滅した』と発言し陸刑違反で送局した〉

 内務省が戦前に出した『特高月報』には全国の摘発事例が月ごとに列記されている。戦争への異論は、容赦なく『封殺』された。

***

2001年まであと10年。

  箕浦氏は、相馬市でも砂層を発見し、津波が福島にも及んだことを明らかにした。学内広報誌で「海岸域開発が急速に進みつつある現在、津波災害への憂いを常に自覚しなくてはなりません。歴史上の事件と同様、津波の災害も繰り返すのです」と警鐘を鳴らす。

 政府の中央防災会議は06年の報告で貞観津波を防災対策の検討対象から外し見直しの芽を摘んだ。東京電力は津波堆積物の独自調査をして、『福島第一原発以南では貞観津波の痕跡はない』と結論づけた。

 仙台市は地域防災計画で海岸線800メートルの範囲を津波警戒区域と定めていた。貞観津波は頭に在ったというが、再考はしなかった。

 2010年まであと1年

産業技術総合研究所が貞観津波級の発生感覚を最長800年と推計した。貞観津波から約1100年、いつ来ても可笑しくはなかった。

2011年3月11日。予言は当たった。

「この震災を『想定外』とする評は全く当たらない。正当な評価が出来なかっただけだ」箕浦氏は今年3月、退官した。

 心境を聞こうと取材を申し込んだが、受けてもらえなかった。メディアとのかかわりは、基本的には断っていると聞く。

 孤高の地質学者の胸の内は忖度(そんたく)するしかない。

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戦災と震災4・封殺と黙殺(2-1)

戦災と震災

4・封殺と黙殺

反戦と津波の警鐘は届かず(2-1)

 「津波は陸奥国府城下(今の多賀城市)に達し、死者1000人を超す」貞観地震津波の記録が平安時代の正史『日本紀略類聚国史』に残っている。

 869(貞観11)年に東日本太平洋側を襲った。

 1986年、東日本大震災まで25年。

東北大大学院理学研究科の箕浦幸治元教授(65)は弘前大助教授時代、仙台平野の地層に砂の層があるのを見つけた。海岸線から約4・5キロ地点に分布貞観津波の運んだ堆積物と見られ、史実を科学的に裏付けた。

警告の意を込めて、研究成果を発表する。

 だが見向きもされなかった。多くの地震学者はプレートテクトニクス理論の研究に熱心で、地質学に関心を示さなかった。時はバブル前夜。仙台でも土地開発の足音が聞こえていた。

『適当なことを言うな』警告は業者の嫌がらせ電話の標的になった。研究予算が付かない。メデイアも取り上げない。津波堆積物研究の先駆者の警告は黙殺された。

 *

満州事変翌年の1932年、宮城県大崎市出身の政治学者吉野作造は、同事変を批判する論文を中央公論に寄せた。「満州における××××(軍事行動)の本質は×××××(帝国主義的)」

『×××(自衛権)の看板に隠れても(中略)慈善の×××××××××××××(装の下に人から奪わんとする)が如きもの』バツ印は44か所、反戦思想は検閲の餌食になった。続く

 

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戦災と震災3・ヒロシマとフクシマ(2-2)

戦災と震災

3・ヒロシマとフクシマ(2-2)

不敗神話も安全神話も張り子の虎だ

 何十年と掛けて築いた暮らしを、原発事故が台無しにした。もう1回放射能を浴びるとは思わなかった。安全神話の幕切れもあっけなかった。

 一家で避難した。家を出る日、雪がちらついていた。肩に降りかかる。黒い雨を思い出し、とっさに払った。牛は売り払った。引渡しの朝、牛が目に涙を溜めている気がした。

不敗神話も安全神話も張り子の虎だ。事実を隠し、嘘で塗り固める

前者は正確な戦況を伏せた。

後者はトラブルをなかったことにした。

神話の維持に固執するあまり、必要な対策を表だって取れなくなる論理矛盾に陥り、戦死者をいたずらに増やし、世紀の原子力災害を招いた。

 一家はひと月足らずで戻り、家業を再開した。和牛生産農家として出直す。稲わらの放射能汚染と出荷制限で収入が落ち込み、東京電力からの営業補償を充てて、凌いでいる。

 被爆国が原発に手を出したのは、間違いだったのかも知れない。平和利用だとしても核は核、仕組みも同じだ。2度の被ばく体験がそう思わせる。

このところ物忘れがひどくなった。年も年だ。同じことを繰り返し話したりしている。

「子供が近づいてきて『兵隊さん水をください』と言って・・・」

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田中将大今シーズン初完投の9勝目

田中将大投手今年の初完投

15日に行われたヤンキース対ブルージエイズ戦で田中は今年初の完投、1失点、8Kを奪って今シーズン9勝目をあげ、チームは4―1で勝った。

 今年は6勝どまりではないかと推察し、その辺で右ひじの手術に入るのではないかと2月20日のブログに『今年の田中選手は』で投稿したが、予想を超えて9勝目。右肘の手術がなければ、勝ち星をのばして行くような雰囲気を見せ始めた。

 世界の田中フアンにとってはまことに喜ばしい限りである。

その意味においては、嬉しい誤算と言いながらも予想の外れを皆様にお詫び申しあげます。

 同じ背番号19のレッドソックス・上原投手が打球を右手に受け、手首の骨折が判明、今シーズンの投手生活は終わってしまった。

これまでもけがに泣いた上原だが40歳という年齢を考えると今回の骨折は先行きに心配な骨折ではあるが、これには奇跡的な回復を祈るしかない。

 残る背番号19の田中投手には、怪我することなく、肘も壊れず、上原投手の分も活躍してくれることを祈りたい。

なお、マリナーズの岩隈投手背番号18)大リーグでは日本人として野茂投手(背番号11)以来の2人目となるノーヒットノーランを達成した。

 

 

 

 

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戦災と震災 3・広島と福島(2-1)

戦災と震災

3・ヒロシマとフクシマ(2-1)

『不敗』『安全』偽りの神話

 

 牛の悲鳴を聞いたことがあるか。甲高い。耳に刺さる。震災の日、牛舎から聞こえる60頭の叫び声は一晩中止むことが無かった。

 岡  実さん《89》の=南相馬市=の家は、揺れと原発事故で電気が止まった。ポンプが動かず、井戸水をくみ上げられない。乳牛は大量の飲み水を必要とする。のどが渇き、苦しんでいる。水を欲しがっている・・・あの時も。

『兵隊さん、水をください』。一人の子がよたよたと寄って来た。弱々しい声。体中火傷している。髪の毛が抜けて男女の区別がつかない。皮がむけて、ボロのシャツを着ているようだ。

 焼けただれた肌にゴミがついている。古井戸の水をあげた。泥で濁っていた。岡さんは広島市の船舶通信補充部隊に所属していた。19歳。初年兵だった。

原爆は夜勤明けの寝込みを襲った。爆心地から2キロ。光りは閉じたまぶた越しでも見えた。瓦が落ち、壁が倒れる。意識が飛びながらベッドの下へもぐった。

 同僚が倒れている。死んでいた。茨城県の山田という男だった。空に黒い雲が出来ていた。みるみる盛り上がり不気味なほど大きくなった。

 死体収容を命じられた。担架で次々に運ぶ。腹巻のところを残して全身の皮膚が焼き尽くされていた。目の玉と内臓が飛び出た人も。

脳みそは白いと知った。玉音放送は無線機で聞いた。不敗神話一瞬にして崩れ去った。続く

 

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②・戦災と震災

②戦災と震災

仙台空襲と津波

戦争は駄目だ。人が起す災いだ。

***

空襲のときは部屋で寝ていた。飛び起きて廊下伝いに病院の地下に逃げ込んだ。

 熱かったことを覚えている。誰かが『このままだと蒸し焼きになる』と叫んだ。高熱の重い防火扉を何人かで押し開け、脱出した。外は明らんでいた。

正面の出入り口に焦げ焼けた死体がごろごろしている。片合掌をしてマタギ、表に出た。病院は焼け残った。周りの建物は形跡もなかった。

 父に連れられ、家に戻った。看護師を諦め、地元の漁師の家に嫁ぐ。自分の着物を潰して娘の服を仕立てる母の姿をみたら、勝手は言えなかった。

 空襲と津波。西野さんは2度死の淵をさまよった。

『何度丸裸にされればいいんだか』不運だと思う。

そのたび生き延び、運がある気もする。

津波は天災なんだからしょうがない。それが定めなら受け入れる。津波の水が流れ込み駆け上がった二階で一時「死んだじいちゃんの元に行ってもいい」と覚悟を決めた身だ。戦争は駄目だ。人の災いだ。

自分のところの国民とよその国民に殺し合いをさせる権限は誰にもない。

***

7月10日になると思いだす。孫に話して聞かせる。話したいからなのか。使命感からなのか。多分両方なのだろう。

「ふーん」聞いているんだ甲斐ないんだか。あのとき小6だった孫は高校生になった。

甲子園に出たいと気仙沼の強豪校に進んだ。寮生活でもまれている。

 ***

 5月の連休で帰ってきた。家は元の所に再建している。玄関でぬいだ靴を揃えていた。いつも脱ぎっぱなしで母親に怒られていたのに。気のせいか顔もシュッとしたようだ。

「ばっぱ、甲子園に出たら応援に来てよ」

『なら、長生きせんといかんね』

新聞は、外国で戦争できる法案を通そうとする政権の動きを伝える。

恵太。ばっぱはお前に武器を取らせる国にしたくない。

 

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戦後70年  戦災と震災

戦後70年・戦災と震災

仙台空襲と津波

 戦災と震災。

河北新報7・10

二つの惨禍を潜り抜けた人が居る。戦前や震災前、冷遇されながらも国が誤った道を進まぬよう警告を発した人もいた。戦後70年、彼らは何を思う。

津波で一階がえぐられた家の前で途方に暮れていたら、がれきの向こうに小さな人影が見えた。

こっちに近づいてくる。

 震災の次の日だっけか。次の次の日だっけか。

足を取られないよう探り探り歩を運んでいる。

背にランドセルのシルエット。孫だ。生きていた。「ばっぱのこと、心配で帰ってきた」

 避難所から一人で歩いてきたという。震災の朝に学校へ行ったきりで音沙汰がなかったから、気が気でなかった。

 別のところへ避難した親とは連絡が付いたようで、「あとはばっぱだ」と本人なりに意を決して舞い戻ったらしい。「周りの人に止められなかったか?」と聞いたら、エヘヘみたいな顔をしている。きっと制止を振り切って来たのだろう。

西野真津江さん(84)=石巻市=は孫の体を引き寄せ、息が出来なくなるぐらい抱きしめた。

 70年前のあの日、14歳の少女・真津江さんは父の腕の中にいた。

1945年7月。西野さんは仙台市立病院の看護師養成所の生徒だった。石巻の家を出て寄宿舎住まい。そこで仙台空襲に遭い、北仙台の養老所に身を寄せた。

父が迎えに来た。病院の壁に書かれた生存者一覧に娘の名はなく、一時はあきらめたそうだ。無事と知ったときは大喜びで、顔を見るなり抱きすくめられた。②へ続く

 

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