マガジンひとり

オリンピック? 統一教会? ジャニーズ事務所?
巻き添え食ってたまるかよ

ギミー・デンジャー

2018-03-09 19:25:51 | 映画(映画館)
Gimme Danger@早稲田松竹/監督・脚本:ジム・ジャームッシュ/出演:ジム・オスターバーグ as イギー・ポップ、ロン・アシュトン、スコット・アシュトン、ジェームズ・ウィリアムスン、スティーヴ・マッケイ、マイク・ワット、キャシー・アシュトン、ダニー・フィールズ/2016年アメリカ

伝説は終わらない

「ゴッド・ファーザー・オブ・パンク」と呼ばれ、カリスマ的な人気を誇るロックンローラー、イギー・ポップ。そして、音楽にこだわりながら独自の世界を作り上げてきた映画監督、ジム・ジャームッシュ。イギーが率いたバンド、ザ・ストゥージズの熱烈なファンであり続けるジャームッシュは『デッドマン』『コーヒー&シガレッツ』でイギーを役者として起用するなど、二人は親交を深めてきた。そしてこの度、イギー自ら「俺たちストゥージズの映画を撮ってほしい」とジャームッシュにオファー。今まで映像で語られたことのなかった伝説のバンド、ストゥージズの軌跡を綴るドキュメンタリーが完成した。

鬼才ジム・ジャームッシュから、史上最高のロックンロール・バンド「ザ・ストゥージズ」へのラブレター

映画はバンドが解散状態にあった73年から、バンドの歴史を振り返っていく。ミシガン州アナーバーで知り合った4人の若者たちが、秘密の隠れ家的な一軒家「ファン・ハウス」に集まって自分たちのサウンドを作り上げようと実験を重ねた青春時代。やがて、彼らは共にデトロイトのロック・シーンを牽引したバンドMC5との交流を通じてメジャー・デビューを飾る。しかし、彼らの過激で型にハマらない音楽は世間からキワモノ扱いされ、思うように活動できない中でドラッグがバンドを蝕んでいく…。

ジャームッシュは本作において、メンバーと本当に近しい関係者にのみ取材をする方法を選んだ。イギーを軸に、当事者たちの言葉だけで語られるストゥージズの華々しくも混乱に満ちた歴史。制作期間中、メンバーの3人(ロン・アシュトン、スコット・アシュトン、スティーヴ・マッケイ)が相次いでこの世を去ったが、彼らとその証言は映画の中に刻まれている。孤高のバンド、ストゥージズ。その真実が今明らかになる。




40歳から始まった左の肩凝り。夜に向精神薬を服んで、痛みがゼロになるのと入眠するのが一致する感じなので、自律神経などの心因性と、身体の老化の合併によるものだろう。天候によっても重い時がある。

身体に表れる心の病の症状は人それぞれのようだ。ウシジマくんの生活保護編では、主人公は人前などで緊張したり神経が昂るとウンチを洩らしてしまう。身につまされる。日本社会は極度な対人関係重視で、常に「立場」であるとか「お気持ち」であるとか気にかけて生きることを余儀なくされる。相互の監視というか呪縛というか、出典が定かでないが、ツイッターで先月、↑左のような画像が出回って、光の密集はツイッターのトラフィックを示すのだという。

LINEっていうのもあるんでしょ。よく知らんけど。大変だよね、いまの子どもは。そういうのって、市場原理の一種じゃないですか。人気がある人・自己宣伝・承認欲求・自意識過剰。対人関係の苦手な人でも、いやおうなく競わされ、捨てる神あれば拾う神ありで救われる場合もあるかも分らないが、依存症のようになってしまう場合もあろう。心の病は、いったんスイッチが入ると、なかなか脱けられないのだ—




悪名高い独善アート系、ジム・ジャームッシュ。映画というのは政治力で撮るものだ。政治家や社長はお金と女に汚い。ラース・フォン・トリアーやキムギドクといったアート系の映画監督が、このところの #MeToo の流れによって過去の悪業を暴露されている。驚かない。悪人だから作れるような映画だったからね。

音楽はまったく次元が違う。ショービジネス/人気商売だから汚い側面があるのは避けられない。が、殺人犯に成り下がったフィル・スペクターの音楽も、友人の恋人を寝取ることが趣味だったというジョー・ストラマー(ザ・クラッシュ)の音楽も、人格とは切り離して永遠の輝きが約束される。

音楽は自由だ。映画や小説とは違う。ジャームッシュに撮ってほしいとイギー・ポップが要望したとのことでも、そこはジャームッシュも音楽を立てている。監督のエゴが控えめ。イギーとストゥージズの魅力がよく分る映画となった




左からFUN HOUSE (1970), RAW POWER (1973), LUST FOR LIFE (1977)。先に述べたような理由で、アーティストの私生活や言動にあまり興味がない。音楽が良ければそれでいい。バイオも調べないという私も、イギー・ポップの活動の周辺はあまりに謎めいていて、この映画は見たかった。ストゥージズの最初の2枚からRAW POWERまで間が空き、名義もレコード会社も変る。ボウイの関与はどれくらいだったのか。そこからボウイがプロデュースしてソロ活動が軌道に乗るまでもやや空く。

イギーの意向なのか監督の意向なのか、ここではデビッド・ボウイはやや突き放した見方をされている。いかにも芸能人、という。イギー・ポップはもっと、本能に衝き動かされて生きる全身芸術家のような存在。半裸のステージで、客席へダイブしたりするのも、ファンサービスというより、彼の音楽=混沌として爆発的な、エネルギーのかたまり=の延長。

ボウイっていうのは常に演出を考える人だったでしょう。天才には違いないが、カリスマであろうという、自意識のかたまりのような。だから、ボウイやストゥージズの仲間が先に亡くなって、イギーが健在というのが、映画を見てとても納得がいった。心の病に通じるような束縛のない、真の自由人なのである。長生きしなはれ—
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ムーンライト

2017-11-24 19:10:30 | 映画(映画館)
Moonlight@早稲田松竹/2016年アメリカ/監督・脚本:バリー・ジェンキンス/出演:ナオミ・ハリス、マハーシャラ・アリ、トレヴァンテ・ローズ、ジャネール・モネイ、ジャハール・ジェローム、アンドレ・ホーランド、アシュトン・サンダース、アレックス・ヒバート

あの夜のことを、今でもずっと、覚えている。

名前はシャロン、あだ名はリトル。内気な性格で、学校ではいじめっ子たちから標的にされる日々。自分の居場所を失くしたシャロンにとって、同級生のケヴィンだけが唯一の友達だった。高校生になっても何も変わらない日常の中で、ある日の夜、月明かりが輝く浜辺で、シャロンとケヴィンは初めてお互いの心に触れることに…

自分が何者かを探し、自分を愛することができた時、初めて誰かを愛することができる—
本年度アカデミー賞作品賞受賞!
世界中が瞬く間に虜になった、純粋で美しい愛の物語


自分の居場所を探し求める主人公の姿を、色彩豊かで革新的な映像美と情緒的な音楽と共に3つの時代で綴ったこの物語は、北米で大ヒットを記録し、第89回アカデミー賞では作品賞・脚色賞・助演男優賞の3部門に輝いた。LGBTQをテーマにしたラブストーリー、また黒人だけのキャストやスタッフによる作品がオスカーを受賞するのは共に史上初のことであり、まさに歴史に残る快挙となった。

なぜ『ムーンライト』が世界中を魅了しているのか――。それは人種、年齢、セクシュアリティを越えた普遍的な感情が描かれているからだ。どうにもならない日常、胸を締め付ける痛み、初恋のような切なさ、いつまでも心に残る後悔…思いもよらぬ再会によって、秘めた想いを抱え生きてきたシャロンの暗闇に光が差したとき、私たちの心は大きく揺さぶられ、深い感動と静かな余韻に包まれる。




みなさんはどんな夢をみるでしょう、睡眠時、誰しも悪夢にうなされたくはない、淫夢といわずとも、イイ夢みたいですよね。

私の場合、母方の親戚が大家族で、子どものころ泊りに行ったりすると普段の生活と異なるハレの場でもあり、しばしば夢の舞台装置となる。またこれに劣らず高校時代の夢もしばしばみる。高校の校舎がまったく違う複雑な形状になっていたり、卒業して何年かしてからまた高校へ入り直すような奇妙な設定のことも。

3年前の冬、高1時代の友人でその後仲違いしてしまった村松くんが相手の淫夢をみて以来、彼は私のオカズ=自慰行為の主演男優として圧倒的なプレゼンスを築く。しかし夢としてはその後1回くらいしか登場していない。やはり圧倒的に登場してくれるのは千野くんだ。高2のころ私がメロメロになって、周辺の友人関係を一挙に失ってしまった、運命の相手。

淫夢であることは滅多にない。彼は、私にとって単純な性欲などというものを超えた存在だ。村松くんは私とちょっと似た陰険な性格で、変態性欲の気もないではない、淫夢をきっかけに、オッこれは…という新鮮な驚きを与えてくれたが、千野くんは誠実で優しく、お茶目な面もあり、全員が勉強できる前提の都立高で誰にとっても好ましい存在だった。高2のクラス替えで、それまで2つに分れていた書道クラス=なので美術の私と書道の千野くんや永田くんは高1のみ同じクラスに=が一つにまとまり、このクラスは少し自意識的にイキッていたのか通例は演劇である高2秋の文化祭の演目に、通例は高3で作る映画をもってきた。千野くんはこの主演男優だった。

私は高2でクラスが分れてしまっても放課後は書道クラスを訪ねて千野くんや永田くん奥村くんら高1の時からの友人と毎日のように一緒に帰っていたが、彼らの映画制作が進むのと並行して、どうしたわけか私と千野くんが2人きりで帰ることが多くなり、レコード店などへ立ち寄ったり、共に過ごす時間が長くなってゆき、次第に私は彼にオネツとなっていったのだ。

ピークはこの映画が完成した文化祭、9月下旬の三日間である。二人だけのデート。ベイ・シティ・ローラーズ
彼が主演した映画をはじめ4本か5本くらい映画や演劇を見たな。夢のようだった。しかし幸福な時間は長く続かなかった。私の恋心は、彼らにとっては厭わしいものに他ならない。夢の文化祭から3週間後、絶交されてしまった私。いまとなっては、その後の人生を含めても、やはり彼と2人きりで過ごした甘い夢は、すべてのエネルギー源といってもいい特別な位置にある。彼はもうとっくに結婚して子どもも大きくなり、私を思い出すこともないだろう。しかし私にとっては不滅だ。年をとってボケると、寝ていなくても悪夢の続きのように不安や恐怖で叫んだり譫妄状態におちいる人が少なくないと聞くが、私の場合は千野くんら友人や父母親戚が守ってくれるだろうと楽観しております。

ムーンライト? もちろん悪い映画ではないが、これが作品賞かと。地味で、とくに斬新なところもないので。ララランドはもっと好悪が分れるのかな。映画などショービジネス界は、プロデューサーや監督や俳優による過去の性暴力が次々と告発され、いま新たな時代への生みの苦しみなのか、それとも終りの始まりなのか、といった状況にある。私にとっては後者。映画から教わることはもうない—


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トランボ ハリウッドに最も嫌われた男

2017-01-05 20:39:09 | 映画(映画館)
Trumbo@早稲田松竹/監督:ジェイ・ローチ/出演:ブライアン・クランストン、ダイアン・レイン、ヘレン・ミレン、ルイス・C・K、エル・ファニング、 ジョン・グッドマン、マイケル・スタールバーグ

『ローマの休日』を書いた男は、なぜハリウッドから追放されたのか?

第二次世界大戦後、共産主義排斥活動「赤狩り」が猛威を振るうアメリカ。その理不尽な弾圧はハリウッドにも飛び火し、売れっ子脚本家ダルトン・トランボは、議会での証言拒否を理由に投獄されてしまう。やがて出所し、最愛の家族の元に戻ったものの、すでにハリウッドでのキャリアを絶たれた彼には仕事がなかった。しかし、友人にこっそり脚本を託した『ローマの休日』に続き、偽名で書いた別の作品でもアカデミー賞に輝いたトランボは、再起への歩みを力強く踏み出すのだった…。

理不尽な弾圧と闘い抜いた脚本家の、苦難と復活の軌跡を描く感動の実話!

オードリー・ヘプバーンの可憐な美しさとともに語り継がれる『ローマの休日』は、恋愛映画の不朽の名作として世界中で愛されているが、誰がこの物語を思いつき、脚本を書いたのかを知る人はほとんどいない。本編にクレジットされなかった真の作者ダルトン・トランボは、いわれなき汚名を着せられてハリウッドから追放され、栄えあるアカデミー賞のオスカー像を受け取ることもできなかったのだ。

1940~50年代にハリウッドを震撼させた赤狩りによって、長らく偽名での創作活動を強いられたトランボが、愛する家族の支えを得て不屈の闘いを繰り広げる姿を描いた『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』。テレビシリーズ「ブレイキング・バッド」で知られるブライアン・クランストンが、硬い信念を貫いたトランボの型破りでユーモアに満ちた生き様を体現し、アカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。激動期ハリウッドの内幕を細やかに描くとともに、言論や思想の自由という現代に通じるテーマを追求した本作は、観る者の心を揺さぶってやまない—




はなみ ‏@hana3873 1月3日
ニュース女子は前から酷い番組だった。女子とかついてるけど、おっさんたちが一緒に出演してる女性たちに世の中について教えてあげる、みたいな構図で気持ち悪い。女性たちも、うんうん、ふ〜ん、へぇ!日本すごい!韓国中国ひどい!みたいな感じだし。オエ!

さるとら ‏@sarutora 1月2日
なんとなくテレビを見ていたら、ドランクドラゴンの鈴木という人と子役がアメリカの動物園を訪れる、という番組で、オランウータンを見た鈴木さんが「昔、西新宿にこういう人いっぱいいたけどね」というような発言。鈴木さんもだが、これをテロップ付きで流すテレビ局も相変わらずひどい

滝季山影一@冬コミ3日目w07a ‏@ETakiyam 2016年12月5日
持ちこむな三銃士を連れてきたよ
「音楽に政治を持ちこむな」
「映画に反戦を持ちこむな」
「流行語に反日を持ちこむな」(New!)
その陰で一人とり残され涙にくれる、
「特撮に恋愛要素を持ちこむな」




「このテーブル乞食(ホスト)が! 太客の売り掛け金500万円を回収できなくて、ケツ持ちのウチに、店が泣きついてきたんだわ」 = 「日銀がアホノミクス・金融緩和の一環として年6兆円のペースで上場投資信託ETFを買い、ことし末には日銀の株保有率が10%を超す企業がユニクロ(ファーストリテイリング)をはじめ13社にのぼる。ETFには業績の悪い銘柄も含まれ、株価が経営内容を正しく反映しなくなり、経営の監視が甘く、不祥事を防ぎにくくなると懸念されている」


年金積立金を運用する独立行政法人GPIFも30兆円に上る日本株を保有。ヤクザなら、客から取り立てられなければホストを追い込んで奴隷労働や人身売買で元をとることができるが、日銀やGPIFのボンクラ役人にそのような管理実行能力は期待できない。ロクな結果を招かないだろう。

すなわち、トランプ相場が来た!とかいって投資を呼びかける雑誌や証券会社は、テーブル乞食ならぬ相場・株式市場乞食であるといえよう。米国発のリーマンショックで日本の方が傷が深かったように、日本そのものが何事も米国に左右される弱い立場であるのに加え、わが国は政府や企業やマスコミが序列化・官僚化されて、より一蓮托生度が高く、いざという時に下々の国民が(ホストのように)泣きを見ることは必至である。

TOKYO-MXの『ニュース女子』とかいうのがひどい内容で、以前にもSEALDsは中国や共産党からお金をもらっているというデマを流したし、先日も沖縄の基地反対運動はどこからか日当をもらっているのだという根拠のないヘイトデマをやっていた、と正月のツイッターTLで目にした。その回には脊山麻理子・杉原杏璃といったロンハー・ガールズが出ており、番組の広告主はDHCなのだという。

こいつらはテレビ乞食なのだ。ケツ持ちのヤクザ=自民党政権の意向を忖度し、政府に逆らう者や野党を悪く印象付ける情報操作を行う。コンテンツの表現の自由は、報道の自由から決して独立しているわけではない。大いに結び付いている。映画のトランボは素晴らしい。どんな逆境でもユーモアを忘れない。こうした映画が作られることこそ、トランプの暴走=マッカーシズム再来に対する牽制球になりうるし、アメリカの偉大さを示すものだ。ひるがえって日本の現状は、あまりに薄ら寒く、笑いも凍る—


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エクス・マキナ

2016-10-13 19:37:48 | 映画(映画館)
EX MACHINA@早稲田松竹/監督:アレックス・ガーランド/撮影:ロブ・ハーディ/編集:マーク・デイ/出演:ドーナル・グリーソン、アリシア・ヴィキャンデル、オスカー・アイザック、ソノヤ・ミズノ/2015年・イギリス、アメリカ

正直なのは人間か? 人工知能か?

検索エンジンで有名な世界最大のインターネット会社“ブルーブック”でプログラマーとして働くケイレブは、巨万の富を築きながらも普段は滅多に姿を現さない社長のネイサンが所有する山間の別荘に1週間滞在するチャンスを得る。 しかし、人里離れたその地に到着したケイレブを待っていたのは、美しい女性型ロボット“エヴァ”に搭載された世界初の実用レベルとなる人工知能のテストに協力するという、興味深くも謎めいた実験だった…。

意識・感情・性、そして真実と嘘。
全てがアップデートされた、最新のSFスリラー


IT企業のCEOが所有する山あいの邸宅に招かれ、人工知能のテストに協力することになったプログラマー。しかし実験は次第に怪しげな心理戦と化し、人間と人工知能の主従関係は崩壊していく――。 『28日後...』『わたしを離さないで』で脚本を務めるなど、数多くの話題作を手掛けているアレックス・ガーランドが満を持しての監督デビューを果たし、インディペンデントの低予算作ながら本年度アカデミー賞視覚効果賞を受賞、脚本賞にもノミネートされた話題作が『エクス・マキナ』だ。

『アバウト・タイム ~愛おしい時間について~』 のドーナル・グリーソン、『リリーのすべて』のアリシア・ヴィキャンデル、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』のオスカー・アイザックという、いまハリウッドで最も注目される若手実力派の3人が、物語の鍵を握る人間&人工知能を巧みに演じる。優れたスリラーであると同時に、人間存在の根源的な意味を問う本作。スタイリッシュなヴィジュアルや音楽で彩られた、新感覚の作品の誕生である。




夜のうどん職人トンダ ‏@R18Tonda 10月11日
スケベ漫画読んで「お尻に突っ込んだちんちんをそのままマ◯コに突っ込むと危ない」とかしたり顔で言う大人になんてなりとうない!

ぽっこら @poccora_ 10月11日
「ちんちんがすでに危ない」って出鼻挫いてくる輩もいるんだよ信じらんない。


生でアナルに挿入すると病気になる可能性が高い。逆に、病気になる筈なのに、なぜ登場人物たちが平気でそういうことをしているのか、気になって読み進められない神経質なタイプの人もいる筈だ。エロ漫画に対していちいち指摘するのは野暮というものだが、大事なことだから、いちいち言う役割の人もいてよい。

気にならないのは、不都合な真実に蓋をする「ご都合主義」が、エロ漫画のみならず、あらゆるものごとに蔓延しているからだ。ジョージ・ルーカス監督は「宇宙では音はしない筈では?」と問われ、「僕の宇宙ではするんだ」と答えたとか。なかんずくSFにおいて、ご都合主義というか、科学的な裏付けがなくとも、この作品の中ではこうなんです、というお約束が多すぎる。

ドラえもんの秘密道具に、一度でも裏付けが与えられたことがあるだろうか。とうてい不可能なことだらけ。これは科学でなく、魔法である。オカルトだ。オカルトの語義は「隠す」。この世のことわりを解き明かす科学とは、そもそも方向性が真逆。




きら星のごとき、ユダヤ系の音楽家たち。特筆すべきは、ボブ・ディラン、イギー・ポップ、スティーリー・ダン、ビースティー・ボーイズなど多くの場合、彼ら自身が既に一つのジャンルであるといえるくらい独創的で、その後フォロワーはいても、ずっと抜きん出た存在であり続けていること。

まるで生物の進化のようだ。はるか太古から同じ姿をしているトンボやゴキブリもいれば、大いに繁栄したが一転絶滅してしまった種も。人類は地球の新参者だが、いまや満ち溢れ、化石燃料を燃やし、生命と似たものを自ら作りだそうとまでしている。

この営みは成就するだろうか。ホーキング博士が警鐘を鳴らすように人工知能はやがて自ら進化して人類を駆逐するのだろうか。この映画は、かつて見た『チャッピー』ほど、その困難さをSF特有のご都合主義で解決してしまってはいない。もっとシリアスだ。人工知能が、その優秀さを自ら証明できるよう、開発者のブルーブック社長はそれに美しい女の義体を与え、優秀だが独身のオタク的な男社員を誘惑させる。社長は「検索エンジンのシェアを握ることで人の欲求を完全に理解した」と驕りたかぶるエゴイスティックな男で、東洋人に似せた別の義体を酌婦兼夜伽として侍らせている。キョウコという名だ。

この驕りが油断につながり、クールで鮮やかな結末を招く。日本人ならオタク社員と人工美女を結ばせるだろうが、もちろんそうはならない。甘くはない。甘くないが、それでもやはりSFのご都合主義から逃れ得ているわけではない。人の、表面に現われているあらゆる情報を解析すれば、人を凌ぐ人工知能が生まれるだろうか。私はこれは、生命の長い歴史を無視し、ある部分に特化して人に似せた(一例として囲碁や自動運転)稚拙な道具に過ぎないと思う。命や人体や脳は、まだ完全に解き明かされたわけではない。ユダヤ人の音楽には、彼らの苦難の歴史が反映され、凝縮されており、人工知能が例え音楽だけに特化したとしても生み出せるものではない。

しかしこの映画には教訓がある。科学には実験が不可欠だ。グーグルになぞらえたブルーブックのように、グローバル化した大企業は、さらなる優位を築くため、人を実験材料とするのに躊躇しないだろうということ。キョウコは英語が分からない設定の性奴隷ロボット。「VRのポルノ早く」と待ち焦がれる日本のオタクは格好の被験体となることでしょう—


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旧作探訪 #150 - 男性・女性

2016-04-13 20:02:41 | 映画(映画館)
Masculin Féminin@早稲田松竹/監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール/原作:モーパッサン/音楽:フランシス・レイ/出演:ジャン=ピエール・レオー、シャンタル・ゴヤ、マルレーヌ・ジョベール、カトリーヌ=イザベル・デュポール、フランソワーズ・アルディ/1966年・フランス

カウンターカルチャーとポップスに彩られた60年代パリの青春
《マルクスとコカコーラの子どもたち》を描く


軍隊帰りの現代のウェルテル的青年ポール、その恋人のイエ・イエ歌手のマドレーヌ、ポールの友人で、ベトナムに平和をと叫ぶ、活動家ロベール、マドレーヌの女友達でポールの恋を妨げるカトリーヌ、ロベールが愛するおとなしい娘エリザベート。60年代後半フランスの若者たちの生活を彩る15のファクト。

『男性・女性』は、ベトナム戦争やビートルズ旋風など、撮影された65年当時のアクチュアルな現象を織り込んで、パリの若者群像をドキュメンタリー・タッチで描く(台詞やキャラクターは俳優たちへのインタビューから作り上げていったという)。「アンナ・カリーナ時代」の集大成ともいうべき前作『気狂いピエロ』のロマン主義的な色彩は影を潜め、政治と恋に明け暮れつつも、消費社会に取り込まれていく若者の姿が、ジャン=ピエール・レオー演じる主人公の目を通してドライに描かれる。

本作の最大の魅力は、時代背景や、レオーという俳優の実像と重なるヴィヴィッドなドキュメンタリー性といえるだろう。歌手の恋人シャンタル・ゴヤ相手に空回りする、レオーの一挙手一投足は愛おしくも、何ともイタい。「世界の中心は愛だ」と言ってのけるレオーに、「世界の中心は自分よ」と返すゴヤはチャーミングだが、夢想家のレオーとリアリストのゴヤとの温度差は際立つばかり(「男性」と「女性」の間の・には「深くて暗い河がある」のだ・・・)。ゴダール特有のロマンティシズムをレオーに託し、ドライな悲喜劇としてまとめた本作を境に、映画作家ゴダールの青春期も終わりを告げていく・・・。




◆夢と欲望、それってどう違うの?
2006~07年頃、観劇にハマッていて、若者主体の小劇団の公演で主演女優が吐いた、この台詞が忘れられない。考えさせられたものだ。
前にも述べたが、夢は個人の自由だ。他人には左右されない。が欲望は、他人より大きいとか小さいとか、勝つとか負けるとかで煽られ、時には自滅を招くようなものだ。そうした性質上、欲望を共有するとなると、いじめや戦争のような形をとり、夢を共有するとなると、「差別のない平等な社会を作りたい」=革命のような形をとる。で、夢と欲望は、どう違うのか。


◆有吉弘行はギャンブルが好きでないらしい
お笑い芸人というと、「飲む・打つ・買う」をイメージしてしまうが、有吉くんは飲む・買うはともかく、ラスベガスのカジノへ行った時も「1万円しか賭けなかった」らしい。スロットマシーンのボタンを押しても、ぜんぜん面白くないそうだ。他人が大勝ちしても、あまり煽られないのかな。例のバドミントン選手の話題が彼のラジオで出た際、語っていた。

そうした面は、誰それにどんな風にいじめられたいかという「わかるーー!」の投稿コーナーにもうかがえる。ありえないような設定の、珍妙な変態性欲ながら、周囲がどう言おうと、俺は分かるぜっていう、少数意見の擁護のおもむき。別件で、ボーイズラブ・腐女子について、土田晃之や坂上忍が批判的な見解を述べて、ヤンキー保守層の馬脚を表していたが、有吉くんは女装や同性愛についても寛容そうだ。


◆腐女子はプーチン大統領がお好き
しかし腐女子やゲイの人たちは、男性的記号の強い男に惹かれる。シンプルに「強い男が好き」。例えば、わりと富裕な専業主婦が、夫がキッチリ稼いでくれれば、外に女をこしらえようが子育てに非協力的だろうが汚職していようが我関せず、という態度と、腐女子がマフィア映画やロシア文化を好み、汚職を暴こうとするジャーナリストの暗殺を指令するような独裁者で悪人であることは問わず、プーチンさんは諜報部出身で柔道家でコワモテだから好きっていうのは共通している。専業主婦と腐女子、ヤンキーとオタクは精神風土が近しい。


◆右翼も左翼もTPPには批判的
プーチン大統領、ほか中国や英国の指導部も「パナマ文書」により、タックスヘイブンを利用した資産隠し・税金逃れが暴かれつつある。この問題、わが国の政府は調査する気がないそうだ。国民・ネット民も、矢口真里のCMには過敏に反応して叩き、放映中止に追い込むくらい、目につく小さな悪には不寛容だが、富裕層・権力層の隠れた巨悪はスルー。

中国やロシアはもちろんとしても、ジャーナリズムの層が厚い米国ですらパナマ文書への反応がいま一つなのは残念ではあるものの、現今の米大統領選で、ネトウヨに酷似した考え方のトランプ候補から、社会主義的な左派のサンダース候補、果ては最も大統領の座に近いと目され、大企業から献金を受けているクリントン候補まで、「TPPは労働者の利益にならない悪い貿易協定」として反対を表明しているのは注目される。少なくとも、労働者階級の味方を演じなければリーダーにふさわしくないという認識が定着しているのはうらやましい。




映画が後半に入ってしばらくすると、「この映画は『マルクスとコカコーラの子どもたち』と呼ばれたい。分かる人には分かる」との字幕が。「分かる人には分かる」は余計だ。自意識の腐臭がする。上映時間103分とのことだが、長く感じる。まだ終わらないのかな、と何度も思ってしまった。ストーリーらしいストーリーがなく、散漫で独りよがり。大学生が小論文にまとめる前の、断片的なメモやノートを見せられているよう。

おそらく同じ時代には、斬新な手法で、見終えた観客が、触発されて男と女の問題、共産主義や資本主義の問題を考えたり話し合ったりしようとする映画だったろうが、夢より欲望が優勢となり、マルクス主義が葬られた今のにっぽんでは、アンビバレンス=相反する感情・価値に悩む若者の心情が遠い。パリを舞台とする勝ち組の小演劇のようにも感じられてしまう。有吉くんのラジオや『闇金ウシジマくん』のような、今のリアルな肌触りを求めたい―
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旧作探訪 #149 - ヴィヴィアン・マイヤーを探して

2016-03-16 20:32:03 | 映画(映画館)
Finding Vivian Maier@早稲田松竹/監督・脚本:ジョン・マルーフ、チャーリー・シスケル/2013年・アメリカ

その才能は謎の扉の奥に――
ヴィビアン・マイヤーとは何者なのか?


2007年、ジョン・マルーフというシカゴ在住の青年がオークションで大量の古い写真のネガを手に入れた。その一部をブログにアップしたところ、熱狂的な賛辞が次から次へと寄せられた。ところが、その撮影者の名前「ヴィヴィアン・マイヤー」をネットで検索しても1件もヒットしない。2年後、彼女の名前を再び検索したところ、彼女が数日前に亡くなったという死亡記事が見つかった。ついに彼女の所在を突き止めたジョンだが、意外な事実を知ることになる――。

アカデミー賞ドキュメンタリー賞ノミネート! [発見された]天才写真家
世界が絶賛した奇跡のドキュメンタリー


1950年前後からナニー(乳母)として生計を立てながら、15万点以上に及ぶ写真を撮影していたヴィヴィアン・マイヤー。しかし生前1枚も公表せず、写真家として称賛されることはなかった。セルフポートレートに写るヴィヴィアンは、ミステリアスで不機嫌そうなのにもかかわらず、写真全体に溢れる雰囲気はとてもユーモアに溢れる。そして、彼女が撮影した人々もまた、その人らしさに溢れた最高の瞬間を収められている。

作中で彼女との思い出を語るのは、彼女が世話をした子供たちや雇い主であるその親たち。そこで浮き彫りになってくる、彼女の抱えていた問題や悲しい記憶。しかし、それらは真実のようでありながら、聞けば聞くほど彼女の本当の心は分からなくなっていくようでもある。語られるナニーとしてのヴィヴィアンと、写真家としての彼女の素晴らしい作品とが交互に映る映像を観ていると、変わり者で秘密主義、他人をよせつけない堅物の女性という周囲の印象と、遺品の中に見え隠れする「作品を見てもらいたい」という思いの差に胸が締め付けられる。

誰かと繋がること、何かを発信すること、他人に自分を気付いてもらうことは割と簡単な時代になった。しかしだからこそ、余計に他人の目や、意見ばかり気にしてしまいがちなわれわれ。『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』は、情報過多の現代に生きるわれわれに、孤独の中で研ぎ澄まされた才能を突きつけ、多くの問いを投げかけずにはおかない――




映画を見て、一夜明けたら、ショーンナントカという人物が話題の中心にいた。
ごくわずかな番組を除いてほとんどテレビを見ない私には初耳の名だ。いや正確には、「ショーンK」なる略称ならば、ツイッター上で目にしたことがある。おおむね揶揄的に扱われていた。

近年、こうした人物の知名度は「御祝儀価格」化が著しい。
そもそも実勢価格はゼロかマイナスで、小保方さんや佐村河内さんのように彼らを評価したり起用した人物まで負の連鎖に巻き込まれるような、よくない噂の火元として消費され、アッという間に忘れ去られる。

詳しくは「デフレTHEゆーめいじん」で述べたように、この傾向は消費するわれわれをも巻き込み、日本人全般の価値を下げる。米国の大統領選も今回は特にくだらなくてウンザリさせられるものの、世界中から注目されていることは確かであるのに対し、われわれの方はだんだん海外の人から関心や敬意を持たれなくなり、日本国の位置付けを自ら低からしめているように思えてならない。




「死後に発見された天才」
街頭で写された過去の写真を探してオークションや骨董市を漁っていたマルーフ青年が発見し、彼はたいそうな情熱家で、MOMAなどの権威ある美術館には門前払いをくらうも、ネットで少しずつヴィヴィアンの作品を発表して反響を得ると、個展を開くため奔走、プリントを売って資金を得ながら、多くの場所で開催し、ついに彼女の才能への評価を定着させるに至った。

被写体の人物等と共鳴し、ある瞬間を切り取った彼女の写真は、われわれをハッとさせる。高名な写真家も、他の誰にもない視点があり、新たな表現の基準になりうるとお墨付きを与える。彼女は女性としては大柄で、男性との接触を恐れる一方、雑踏を恐れず、子ども連れでスラム街へ入って勝手に写真を撮ったり、録音機を持ってスーパーで時事問題についてインタビューしたりした。大量の新聞を貯め込み、子どもに手をあげたり、雇い主とトラブることもあった。生涯貧窮に悩み、老後は、乳母として育てた子どもの何人かが彼女のためにアパートを借り、そこで83歳まで暮らした。

しかし誰も彼女が貯め込んだネガフィルムや新聞の類いには興味を示さず、生前その独特な才能が知られることはなかった。彼女の写真は、孤独な、無名の、住み込みの乳母という人格の軽んじられる存在だったから、撮ることができたのか、すべてが傑作といえるのか、あるいは彼女の他にもそうした存在は埋もれているのか、謎は尽きない。

ただ言えるのは、前回の『牡蠣工場』と同じく、市井に生きる無名の人の姿が、私の心を動かし、温めてくれるという事実である―
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ラブ&マーシー 終わらないメロディー

2015-12-27 19:18:36 | 映画(映画館)
Love and Mercy@早稲田松竹/監督:ビル・ポーラッド/出演:ジョン・キューザック、ポール・ダノ、エリザベス・バンクス、ポール・ジアマッティ、ジェイク・アベル、ケニー・ウォーマルド、ブレット・ダバーン、グレアム・ロジャース/2014年・アメリカ

いつかは、ここを出て、愛を迎えに行かなくては―

1960年代、カリフォルニア。夏とサーフィンの歌が連続ヒットし、ザ・ビーチ・ボーイズは人気の頂点にあった。が、新たな音を求めてスタジオで曲作りに専念するブライアン・ウィルソンと、ツアーで演奏するメンバーたちの間に亀裂が入り、さらには威圧的な父との確執も深まって、ブライアンはドラッグに逃避するように。心血を注いだアルバムPET SOUNDSの不振をシングルGood Vibrationsで挽回するも、芸術的な期待が掛かる新作へのプレッシャーから心が完全に折れてしまい、アルバムSMILEはお蔵入り。

それから20余年、彼に再び希望の光をもたらしたのは、美しく聡明な女性メリンダとの出会いだった。しかし、惹かれ合う二人の間に、ブライアンのすべてを管理する精神科医ユージンが立ちはだかる。メリンダの協力のもと、遂にブライアンは自分の本当の歌を取り戻すために立ち上がるのだが──。

誕生から半世紀を経た今も、時代を超えて愛され続けている名曲を生み出したザ・ビーチ・ボーイズの中心的存在ブライアン・ウィルソン。だが、それらの曲を作っていた時、ブライアン自身は苦悩に引き裂かれ、精神状態は極限に達していた。何がそこまで彼を追いつめたのか? ブライアン・ウィルソンの衝撃の半生が、本人公認により初の映画化。

監督は、『それでも夜は明ける』のプロデューサー、ビル・ポーラッド。60年代のブライアンをポール・ダノ、80年代のブライアンをジョン・キューザックと、異なる二つの時代を二人一役で描くという大胆なアイデアで、ブライアン・ウィルソンの苦悩と救済に迫る。




アメリカ人の手になる、音楽家の伝記映画には外れがない。
筈だったが、ことし見た3本は、

ジャージー・ボーイズ(フランキー・ヴァリとフォー・シーズンズ)>ジェームス・ブラウン>ラブ&マーシー

という感じで、音楽は申し分ないとしても、映画としての出来にバラつきがあり、2時間でお話としてまとめなければならない映画の制約を痛感した次第である。

「小説」や「政治」の延長上のような、身も蓋もない下世話な様式=映画。
それに対し音楽は、あらゆるものから独立し、高貴である。
人や言葉は裏切るが、音楽は裏切らない。望む限り、いつも同じところにいてくれる。

長く生きたからといって、音楽により近づけたという実感もなく、子どもの頃も、初老の今も、音楽との関係は変わらない、ある意味、私にとって神のようなものだが、音楽の世界には、明らかに神から選ばれ、お近づきになったというような人物がたまにいる。

ことしの映画のフランキー・ヴァリであり、ジェームズ・ブラウンであり、ブライアン・ウィルソンである。




イーストウッドが題材としたフランキー・ヴァリは、この中では穏健な人物で、音楽も親しみやすいポップスだ。が、残る2人は、いずれも神がかり的な人物で、共に親との関係に問題を抱えている。母親が手放し、孤児同然で育ったジェームズ・ブラウンは、ダイナミックだが悲痛なところもある音楽を作り、ビジネス面も全てコントロールしようと強烈な父権として君臨するタイプの人物であった。

それに対しブライアン・ウィルソンは、スパルタ教育を施しウィルソン3兄弟をスターの座へ導くも、一転ブライアンの天才に嫉妬し、彼を抑圧しようとする父親から始まって、ビーチ・ボーイズの営業面のリーダーであるマイク・ラヴ、そして前妻マリリンとバンドが精神面ボロボロのブライアンを管理させようと雇った精神科医ユージーン・ランディ、この3人の暴君に振り回され、なかなか心の安らぎが得られず、それもまた彼の無垢で美しい音楽につながるような、いわば悲劇の天才だったろう。

ランディ医師は、150キロ以上に太ってドラッグ漬けだったブライアンを24時間監視し、健康を回復させるも、やがてカリフォルニア州の医師の倫理規範に反してビジネス面でもブライアンを洗脳し、彼の復帰により得られる利益の独占を図ったとして、新しい恋人のメリンダやバンド側から提訴されることに(↑写真は、健康回復しソロ・アルバム制作にあたっていた頃の左ブライアンと右ランディ医師)




ランディ医師、映画ではこんな感じ。
ヤバイ奴に単純化されているのだが、ブライアンがそんなヤバイ医師を必要とするまで追い詰められた60年代末~70年代の苦闘の時期もひどく省略されてしまっている。名盤PET SOUNDSや幻のSMILEについてもとおりいっぺんの描写だ。

萩原健太、中山康樹、村上春樹、あるいはSMILEや、やはりお蔵入りとなった2ndソロSWEET INSANITYをめぐるあまたの海賊盤業者、ブライアン・ウィルソンの音楽に一家言を持ち、金の成る木のようにして彼に関わろうとする者は数限りないが、ランディ医師は、曲りなりにも彼の肉体的健康を回復させ、80年代以降の彼の曲としては最高のLove and Mercyを生み出させるに至ったのである。もって瞑すべし―



Brian Wilson
Rhino Flashback
Rhino Flashback
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バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

2015-12-09 20:09:32 | 映画(映画館)
Birdman or the Unexpected Virtue of Ignorance@早稲田松竹/監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ/出演:マイケル・キートン、ザック・ガリフィナーキス、エドワード・ノートン、アンドレア・ライズブロー、エイミー・ライアン、エマ・ストーン、ナオミ・ワッツ、リンゼイ・ダンカン/2014年・アメリカ

もう一度輝くために、もう一度愛されるために、すべてを手放し、羽ばたこう―

シリーズ終了から20年、今も世界中で大人気のスーパーヒーロー《バードマン》。だが、その役でスターになったリーガンは、今は失意のどん底にいる。再起を決意したリーガンは、レイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」を自ら脚色し、演出と主演も兼ねてブロードウェイの舞台に立とうとしていた。ところが、代役として現れた実力派俳優のマイクにおびやかされ、アシスタントに付けた娘のサムとは溝が深まるばかり。果たしてリーガンは、再び成功を手にし、家族との絆を取り戻すことができるのか?

米アカデミー賞作品賞など主要部門4冠! 人間ドラマの天才・イニャリトゥ監督が初めて挑むコメディともダーク・ファンタジーともとれる斬新な世界! 実力派俳優たちのアンサンブルと、全篇ワンカットかと見まごう長回し映像が圧倒的な臨場感で迫る。




Amazonのレビュワー? レビュアー? 気持ち悪くないですか。
本でもCDでも、誰それはこう言った、誰それが参加、誰それ風の。固有名詞や引用が多い。米Amazonではいくらかマシなようだが、固有名詞や引用、形容、ほとんどが過去からの、他人からの借り物で、レビュアー自身に切り込むようにはなっていない。

TOP50レビュアーだか知らないが、Amazonの商法ありきでしか発言できない癖して、自分は影響力があるんだとか勘違いしてんじゃねーぞ




梶尾真治@「猫の惑星」PHP研究所 @kajioshinji3223 11月30日
(続き)水木さんからお手紙が届きました。貸本や版悪魔くんと時代怪奇漫画の生原稿が入っていました。そして、直筆のお返事が。「SFは怪奇ものと違って、土俵のない相撲みたいなものだから、あまり意欲がわかないのです」と。それからその言葉が頭の中でリフレインするようになりました。(続く)


貸本版の『悪魔くん』は、水木しげるさんが徴兵されそうだったころ耽読したという宗教や哲学の本からさまざまな要素が集められており、子どもの主人公がいざ地上天国を実現しようとしても、結局は悪魔を呼び出して力を借りるというやり方をとらざるをえず、かえって悪い結果を招く。この物語自体、人類の歴史に対する批評というかパロディのようになっており、人に救いはあるのかという根本的な問題が読者に投げかけられる。

未来については読者に委ねているのだ。
これに対しSFは、アシモフの「ロボット三原則」であるとか、いま自動運転車に対応する法整備の必要性が浮上しているように、土俵=新たなルールを想像・創造しなければならないが、多くのSFはここが粗雑で、人の行いを綿密に検証した形跡が乏しく、荒唐無稽なものになってしまっている。

あるいは、SFを好むようなお客が視野狭窄なおたくだから、それに応じてそうなってしまうという表現形態・様式・ジャンル・市場の問題でもある。
「映画」もそうだ。ハリウッド映画というと、決まり切っている。創造性のかけらもない。こうしたことに、あるいは『悪魔くん』以上に人間の営みすべてに切り込み、挑戦し、新しい世界を作っているのが、この映画だといえよう。




「批評」はとりわけその対象になっている。
Amazonほど特殊でなくても、小さな世界の権力者。出版界やマスコミありきで、実態はそのお座敷に呼ばれるババア芸者に過ぎないが、一般人は大きな存在のように錯覚し、この映画におけるニューヨーク・タイムズ紙の演劇批評家のように、興行の帰趨を左右する力を持ってしまっている。

批評自体を批評してしまおうという意欲的な姿勢は、ほか万事に及んでいる。単に映画や演劇、ショービジネス界だけを風刺しているというより、人間が生きるすべてを俯瞰し、もうちょっと新たな視点を追加してみると、もっと楽しく毎日が新鮮に生きられるのではないかと観客をいざなう。

人は知らず知らずのうちに、過去に縛られ、生活に倦み、人生に制約を設けてしまっていないだろうか。イニャリトゥは映画作りを通して、人間の自由、その発展可能性を訴えかける―
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セッション

2015-12-04 19:52:43 | 映画(映画館)
Whiplash@早稲田松竹/監督・脚本:デイミアン・チャゼル/出演:マイルズ・テラー、J・K・シモンズ、メリッサ・ブノワ、ポール・ライザー、オースティン・ストウェル、ネイト・ラング/2014年・アメリカ

《完璧》を求めるレッスン。二人のセッションは、誰も見たことがないクライマックスへ―

名門音楽大学に入学したジャズ・ドラマー志望のニーマンは、実績のある鬼教師フレッチャーのバンドにスカウトされる。ここで成功すれば、偉大なミュージシャンの仲間入りという夢に大きく近づく筈だ。しかし、待ち受けていたのは、天才を生み出すことに取りつかれたフレッチャーの、常人には理解できない《完璧》を求めるレッスンだった。浴びせられる罵声、仕掛けられる罠。ニーマンの精神はじりじりと追い詰められてゆく。恋人、家族、人生さえ投げ打ち、フレッチャーが目指す極みへ這い上がろうともがくニーマンだったが・・・。




セッションとバードマン、ことし2月のアカデミー賞で話題を呼んだ作品の2本立て。いずれも、演劇や音楽、新聞や興行といった、さまざまな市場や媒体の仕組み・構造そのものを問う視点を持つ斬新な作品で、脱・構造のような意図はバードマンでより強く、目くるめく新鮮な感覚を与えてくれるが、俳優の存在感や狂気ギリギリのテンションではセッションに軍配が上がる。映画はまだこんなやり方があったのか、という希望を感じさせる2作だ。

ジャズという特殊な音楽ジャンルについて、先日の記事「音楽と高慢」で触れた、マイク・モラスキー氏の記述による、戦後日本の一風変わったジャズ受容とその位置付けが、この映画における《完璧》を求める《狂気》への理解の一助に。

五木寛之、筒井康隆、中上健次といった作家、相倉久人、平岡正明といった批評家によって、ジャズは低級なダンス音楽でなく、自由・革命・アナーキーに通じる霊的な文化現象で、それを聞くことはそれだけで特別な体験であるという、独善的でやや男根原理的な独特の「ジャズ文化」が形成されるに至ったことは、マイルス・デイビスやジョン・コルトレーンが新たな境地を拓いていた同時代であることを考えれば無理からぬこととはいえ、演奏できない、言葉を弄するだけの人物がオーガナイザー、精神的指導者として音楽家や客の動向を左右できるような状況はやや異常であるともいえよう。

やくみつるやデーモン小暮が相撲部屋の親方を務めるようなもので。
クラシックは、ベートーヴェンやシューベルトを下手に弾いても、それはベートーヴェンやシューベルトであり続ける。が、下手に弾かれたマイルス・デイビスやジョン・コルトレーンというものは存在しない。ジャズは演奏力を絶対的に必要とする。その演奏力は、過去に築かれた技術・論理体系が定まっており、それに基づく音楽大学など教育システムが整っている点はクラシックと同じだが、世界中にジャズ・クラブがあって、あちこちでフェスティバルやコンクールが行われており、プロになれなかったアマチュアでも高い技術を持ち、お客を楽しませられるような広い裾野がある、その中で頂点を目指すことに段違いの特別さがある。




多くの志望者が血のにじむような努力を重ね、一握りの者だけがたどり着ける、高み。
教師フレッチャーの教え子で、最も成功した者で、せいぜいウィントン・マーサリスのバンドの首席奏者とか。ウィントン・マーサリスなんて1曲も持ってない。価値体系が定まり、システムが整っているということは、新たな音楽上の発展は望めないということでもある。そうした中で、特別なジャズの境地に至るということは、いかに過酷で、一般社会とは相容れない、狂気ギリギリの、もはや教えるというより殺し合いにすら見えるほどでなければたどり着けないものなのか。こんなことが本当にあるのか、という驚き、未知の感動を体験させてくれる映画でした
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イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密

2015-11-04 20:43:37 | 映画(映画館)
The Imitation Game@早稲田松竹/監督:モルテン・ティルドゥム/出演:ベネディクト・カンバーバッチ、キーラ・ナイトレイ、マシュー・グード、マーク・ストロング/2014年・イギリス、アメリカ

世界の運命を変えた天才学者の、あまりにも切ない秘密とは──。

第二次世界大戦時、ドイツ軍が誇った世界最強の暗号<エニグマ>。英国がドイツに宣戦布告した1939年、英軍と諜報機関MI6は極秘で暗号の解読を任務とするチームを立ち上げ、若き天才数学者アラン・チューリングをその一員に起用する。

協調性を欠くチューリングは同僚を見下し、一人で暗号を解読するための自動装置の制作に没頭、業を煮やしたデニストン中佐は彼を解雇しようとするが、この方法しかないと確信していたチューリングはチャーチル首相に手紙を書いて訴え、彼をリーダーとしてチームは再編成されることになる。新たに一般から募ったメンバーには、女性ながら優秀で、チューリングと一時婚約することになるジョーン・クラークも含まれていた。

そして遂にチューリングの装置はエニグマ解読に成功するが、最終的な戦争の勝利のため、あるいはその後の冷戦下で、彼らの業績は政府にひた隠しにされ、数学者としてコンピューターの開発にも意欲を示していた戦後のチューリングは同性愛の罪で逮捕されるに至る―




前回「ヤフオクの海賊盤業者に悪い評価を付け、もちろん報復で私も悪い評価を付けられた」と述べたが、これはヤフオクならではの治安の悪さで、アマゾンはもっと統制が利いている。マーケットプレイス出品者が客を評価することはできない。心外な評価でも、出品者は甘んじて受けねばならない。

アマゾン>客>出品者というヒエラルキーが厳然としており、下位の者同士でトラブルがあっても、アマゾンだけは儲かる、最悪でも損はしない構造が確立されている。
さすがにわが国のアマゾンはサービス開始していないが、米本国にはAmazonメカニカル・タークと呼ばれる、アマゾンを介して賃仕事を出品したり買ったりするサービスがあるそうで、時給200円くらいにしかならなかったり、賃金が支払われないなどのトラブルが続発し、ターカーと呼ばれる出品者から「私は人間です。アルゴリズムではありません」など抗議の声が寄せられているとのことだ。




米IT企業が、生きた人間をアルゴリズムとして扱う。
その原点には、英国の戦勝のため、敵の暗号を解読する「電子計算機」=最初期のコンピューターを制作した天才数学者、にして同性愛者のアラン・チューリングがいたのだ。

苦労の末、解読に成功した彼のチームは、暗号の情報=ドイツ軍のUボートなどの作戦行動に、ただちに反応するのではなく、諜報部のもっと多人数のチームが極秘裏に、どの情報には即応するか、あるいは無視するか(無視した場合は当然自国民の犠牲につながる)を軍事的に判断するのに委ねる。

もしこれが表沙汰になれば、政府はたとえ戦争に勝っても犠牲者の遺族の憤激を買うに違いないし、そもそも政府は対独戦の勝利の後にはソビエトとの次なる戦いが控えていると考え、戦後も情報を徹底的に隠した。

この軍事的な秘密と、同性愛が違法であった時代の英国で、クリストファーという若くして死んだ親友に恋心を抱き、彼に触発されて暗号やコンピューター開発にかけがえのない生きる目的を見いだすに至るチューリングの秘密が重なって、映画のサスペンスは汚れなく神聖な色彩を帯びる。これを演じ切ったベネディクト・カンバーバッチが圧巻である。

祖国を戦勝に導き、コンピュター技術の先鞭を付けた偉大な存在でありながら、同性愛の罪で「服役か(女性ホルモン投与による)化学的去勢か」の二者択一を迫られ、失意のうちに生涯を閉じたチューリング。
私が無職・独身・精神科入院歴の前半生と引き換えにしながらも、どうにか間に合って同性愛趣味の同人誌を世に送ることができるのも、彼のような先人がいてくれたおかげだ―
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