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「名もなき写真のチカラ 写真家 浅田政志」

2022-03-20 | 街角の話し
初回放送日: 2022年3月13日


消防団や極道など架空の設定を演じきるユニークな家族写真で知られる浅田政志。しかし今、自分の色を出すのではない「名もなき写真」に心奪われている。11年前、東日本大震災の被災地で、津波に流された写真が、人々に寄り添い支えとなる姿を見たことがきっかけだった。多くの人ではなく、誰か一人の感情を揺さぶりたい。新たな写真のチカラを信じて新作に挑む浅田の半年を追う。

映画も観ました
浅田家! 小生のブログは ここ 
様々なシチュエーションでコスプレして撮影するユニークな家族写真で注目を集めた写真家・浅田政志の実話をもとに、二宮和也と妻夫木聡の共演、「湯を沸かすほどの熱い愛」の中野量太監督のメガホンで描いた人間ドラマ。4人家族の次男坊として育ち写真家になった主人公・政志を二宮、やんちゃな弟をあたたかく見守る兄・幸宏を妻夫木が演じ、家族の“愛の絆”や“過去と今”をオリジナル要素を加えつつ描き出す。浅田家の次男・政志は、父の影響で幼い頃から写真に興味を持ち、やがて写真専門学校に進学。卒業制作の被写体に家族を選び、浅田家の思い出のシーンを再現した写真で学校長賞を受賞する。卒業後しばらくはくすぶっていたものの、再び写真と向き合うことを決意した政志が被写体に選んだのは、やはり家族だった。様々なシチュエーションを設定しては家族でコスプレして撮影した写真で個展を開催し、写真集も出版され、権威ある賞も受賞する。プロの写真家として歩み始めた政志は、全国の家族写真の撮影を引き受けるようになる。しかし、2011年3月11日、東日本大震災が発生。かつて撮影した東北に住む家族のことが心配になった政志は被災地に足を運ぶが、そこで家や家族を失った人々の姿を目の当たりにする。第44回日本アカデミー賞で黒木が最優秀助演女優賞を受賞。 



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Let`s Go!若一調査隊!九州SP第一弾!菅原道真“左遷”後はどんな生活?」

2022-03-20 | 街角の話し
楼門
奥に見えるのが本殿
「Let`s Go!若一調査隊!九州SP第一弾!菅原道真“左遷”後はどんな生活?」
2022年3月16日(水)
菅原 道真(すがわらの みちざね、承和12年6月25日〈845年8月1日〉- 延喜3年2月25日〈903年3月26日〉)は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。

忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めた。しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後怨霊と化したと考えられ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。
太宰府への移動はすべて自費によって支弁し、左遷後は俸給や従者も与えられず、政務にあたることも禁じられた[35]。『菅家後集』に収められた「叙意一百韻」では、左遷・流謫の身に至るまでの自らの嘆きを綴っている。大宰府浄妙院で謹慎していたが、左遷から2年後の延喜3年(903年)2月25日に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59。刑死ではないが、衣食住もままならず窮死に追い込まれたわけであり、緩慢な死罪に等しい。
延喜23年には醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨御した。『日本紀略』はこれを道真の恨みがなしたものだとしている。4月20日(923年5月13日)、道真は従二位大宰員外帥から右大臣に復され、正二位を贈られた。

延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これも道真の怨霊が原因とされ、天暦元年(947年)に北野社において神として祀られるようになった。

一条天皇の時代には道真の神格化が更に進み、正暦4年(993年)6月28日には贈正一位左大臣、同年閏10月20日には太政大臣が贈られた。

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(初出の『拾遺和歌集』による表記。後世、「春な忘れそ」とも書かれるようになった

菅原道真(天満大自在天神)を祭神とする天神信仰の神社である天満宮は全国に1万2000社ともいわれます。 自称日本三大天神という神社も多く、「日本三大天神」には諸説ありますが、一般的には総本社の北野天満宮(京都市)、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、そして日本最古の天満宮という防府天満宮(山口県防府市)の3社です。
今回はそのうちの太宰府天満宮 ホームページは ここ
なお 大阪天満宮は ホームページは ここ
息子達の合格祈願は、ずっとここだった。計3回来たことになる。
ブログは 天満宮の十二支方位盤には鶏(酉)がいない - gooな話し ここ
防府天満宮 も参拝しました ここ

道真公は九州への西下の途中、防府に立ち寄りすっかりこの地が気に入り、自分が死んだら魂となって帰ってくると約束します。「身は筑紫にてはつるとも、魂魄は必ずこの地に帰り来らん」
九州で公が亡くなった翌年(904)日本で最初の天満宮として創建されました。

本殿
飛梅




テレビでは令和の元となった万葉集の歌も紹介されました

初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ
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