無意識日記
宇多田光 word:i_
 



SCIENCE FICTION というキーワードはどうしたって疑似科学や似非科学との接触を招き易い。本来SFというのは科学にそれなりに見識のある著者と読者がそれを踏まえた上で妄想を楽しむ“空想科学小説”であったが、裾野が拡がれば様々な層が入り乱れるのは大きくなったクラスタには起こりがちなことだ。

宇多田ヒカルが、その今や肥大し切った“SCIENCE FICTION"というキーワードに新しい解釈を投じるのは、事前にはまるで予想がつかないことであった。ヒカルはこの言葉を「事実と虚構」として再定義している。私の作詞はこれなのだと。前回触れた『何色でもない花』の歌詞に同義とか事実とか真実とかいった語句が出てくるのも、この立ち位置からの言葉だと思えばわかりやすい。

つまるところこれも、日本人でもアメリカ人でもあり日本人としてもアメリカ人としても疎外感を抱くアウトサイダーとしての立ち位置や、女でも男でもあり女としても男としてもしっくりこないノンバイナリーとしてのスタンスなどと同様に、両方の極の間の真ん中でバランスを取ろうということなのだろう。なので『SCIENCE FICTION』のオープニングは「こどもでもあり大人でもあり、こどもとしては大人過ぎて大人としてはこども過ぎる」刹那の時期を歌った『Addicted To You』でなければならなかった。なるほど宇多田節である。

国籍や人種、性別に加えて年齢もまた線引きや対立、そして断絶を示すファクターとしての機能を現実に持っている。世代間対立ってやつだね。それを「25周年」と銘打って、41歳のヒカルが16歳の時に書いた歌を歌う事で一気にその「どちらでもありどちらでもない」感覚を中心に持ってきた。Re-Recordingに選んで正解だった。

この点に関してはヒカルも確信を得られていなかったようで、インタビューでは選曲にもパフォーマンスにも不安を抱えていると述べていた…筈なんだがソースが見当たらないので私が夢の中で見ただけかもしれない。しかし、見事に奏功した。

そもそも、年齢による対立というのは他の断絶に比べ顕在化しづらい。人種や性別は何かがなければ転換できないが、老いと若きはシームレスに繋がっているからだ。ある時ふと人は老いたことに、もう若くないことに気がつくのだけどなかなか認めようとしない。

ヒカルは『Addicted To You』を通じて、自分の声が変わったのみならず、作詞時の心境の激変とも向き合った筈だ。ここで気づいた。もうこんな歌詞は書けない。こういう感情を持っていないからと。ついつい「戸惑いこそが人生だよ黄猿君……‼︎」とワンピースの名言を呟いてしまいそうになるが、ここはジェーン・スー氏が『SCIENCE FICTION」に向けて放った「簡単に懐かしませてくれないな」の一言で応じておきたい。ある意味、「過去25周年を振り返る」という後ろ向きな企画と相対してすら「今と向き合う」ヒカルの昔から変わらない姿勢は揺るぎなかった。ならば16歳の時に今を戸惑っていたなら、41歳の今もまた戸惑いの最中にあって不思議ではない。何に戸惑っているかは、変わったかもしれないけれど。それを2ヶ月かけて一緒に体感していけるのがSFツアーというわけだ。贅沢極まりないよね。

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