無意識日記
宇多田光 word:i_
 



んで。そうそう。SFツアーのヒカルさん、準備バッチリで歌唱が自動運転だったわよね、たんまり努力したんだろうなぁ凄いなぁという話をしてたんだった。

歌唱が自動になるメリットは、やはり歌いながら他のことが出来ること。ハンドマイクでステージを歩き回り聴衆ひとりひとりと目線を交わし身振り手振りで煽り立てる。やっぱりフロントが棒立ちなのより、アクティブに目を楽しませてくれた方がこちらも盛り上がるからね。前回の「聴かせる」ライブから一転、「燥ぐ」ライブへのシフトの為にはこの自動運転スキルは必須だったろうな。

ところがですよ。これが私に意外な効果をもたらした。前に書いた通り、ヒカルさんが楽しそうだとこっちも楽しくなってくる。そんな感情の同調はなかなかに歓迎すべきことだが、どうにもその「自動運転ぶり」にまで同調してしまった感が強いのよ。具体的には、ヒカルの歌の細かいところを覚えていないっ! いつもなら細かい節回しがアルバム・バージョンと違うな〜だなんて感想を幾つも持つのだけど、そういう記憶が全部「なんかノリノリで楽しかった!」というシンプルなフィーリングで埋め尽くされてるのよね。

ライブ中に「うわやばいやばい、あんまりにも楽しくて浮かれてしまってるわ」と何度も思っていたのだけど、まぁ極上に楽しいから仕方ないよね、今日はそういう日だからね!だなんて開き直ってたらヒカルさんが『One Last Kiss』を歌った後(即ちコンサート本編最終盤)に

『ありがとう〜。なんか今日あたしちょっとボーッとしてるかもしれない…なんか夢、夢見てるみたい(笑)。』

だなんてMCをしたのだっ! それを聴いて

「やっぱりか!!!!」

と大納得してしまった。そうなのよ、あたしもず〜〜っとボーッとしてるってか、夢見心地で浮ついたまんまライブを観てた…いや観てたというか、楽しそうなヒカルに同化してたんだわ。シンパシーやエンパシーで結びついてる人同士って、こんなことになるのね。もしかしたら、私以外でも似たような感想持ってる人居るんでないか??

そいでだ。ヒカルさんにフォーカスすると、これ、つまり、そんなギリギリの集中力がなくてもそこまでの全部の歌を歌えてたってことなのよね。夢見てるみたいなあやふやな集中力であっても、少なくとも私の耳にはそこまでの20曲、ヒカルは1箇所も歌詞を間違えてなかったし(でも誰か8月31日は歌詞間違えてたって言ってたな。まぁ私が聞き落としてることもあるわよねそこは)、あまりの歌の安定感に惚れ惚れするほどだったんだけど、そんなパフォーマンスを殆ど意識を集中させることなく遂行できたってのは、そうさね、あたしが観たのも全18公演中17公演目だったし、そこまでの実績で大分自信がついてたってことだろうねヒカルに。最初に体内のスイッチを押したら、後は全部やってくれる!っていうくらいに。(かなり誇張した表現だけれども)

ただ、この時間を通して、私は「宇多田ヒカルのコンサートを観てそんな感想でいいのか?」と一旦疑問に思ったのは確かだ。特に前回の『Laughter In The Dark Tour 2018』が過去最高に「歌を聴かせる」公演だった為、そうか宇多田ヒカルはライブで熱唱を刻みつけてくれるんだなというモードに近年はなっていたし、なんなら未だにDVDを観て「あたしが聴いたのと違うな」と思ってしまう程に生の歌唱が具体的な印象なのだ(私が観たのは横浜公演、映像商品は幕張公演)。それくらいに歌唱の節々が記憶に刻まれるライブだった。

今回は違う。歌の細かい表情とかはよく覚えていない。とにかく楽しかった!という漠然としたしかし疑いのない強い感情とヒカルの楽しそうな身振り手振りなんかが記憶に残っている。同じアーティストでこんなにコンサートの味わい方が変わることなんてあるの!?と驚く程に、前回とは全然印象が変わってしまった。

中には『誰かの願いが叶うころ』のように、スタジオ・バージョンや『UTADA UNITED 2006』とは異なる声色やメロディの表情の付け方、更には新しいバンド・サウンド・アレンジと、演奏に入るタイミングを虎視眈々と窺うリズム隊の気迫など、非常に細かく具体的な記憶が残っている楽曲もある。確かに最近の私は昔に比べると記憶力が皆無になっているけれど、こうやって、前回のツアーと同色の、一生覚えているであろうインパクトもちゃんと与えられているし、こちらも覚えていられるのだ。なので、「私の方が変わった」というより、「ヒカルのアプローチが激変した」というのが正解に近いんだと思われる。

そういう意味でこの『SCIENCE FICTION TOUR 2024』の公演は、

「宇多田ヒカルについついノせられてしまったコンサート」

だったと総括できると思うのよね。少なくとも私にとって、私が観た8月31日の公演はね。しかも、上記の『今日ボーッとしてる』発言を踏まえると、どうやら

「宇多田ヒカル自身も宇多田ヒカルにノせられてしまったコンサート」

でもあったようで。よく自分の為すことに自信のある人は「大船に乗ったつもりでいてよ!」と言ってくれるものだが、ヒカルがヒカル自身にそう声を掛けていたかのような、そしてヒカル自身も自分という大船に乗っているような、不安のない、心から安心して舞台の上の人も下の人と楽しめる、関わる人誰もが夢中になれる素敵なコンサートだったよ。でもやっぱり、具体的な記憶が少ないのはちょっぴりだけ悔しいぜっ!(笑)

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8つのクロニクルが発売になるが、そう、今回もというべきか、結局『UTADA IN THE FLESH 2010』は円盤化されなかった。前回の妄想が万が一当たってたりするのなら、もう今後円盤化される可能性は限りなくゼロに近い。どうしてこうなったのか。

まず考えられるのは、リリースの為の権利を獲得できなかったケースよね。ヒカルのレコード会社移籍の推移がややこしい上、このライブの仕切りはもともと「Live Nation」だったから、当時の関係者が散逸してどこから話を始めていいかもわからないのかもしれない。その上、当時UTADAのCDをリリースしていたユニバーサル・ミュージックの洋楽部門とはその昔『UTADA THE BEST』で険悪になっている。もし担当者がそのままなら連絡しづらいし、入れ替わってるなら話がわからない。どちらにしろ詰んでいる。これは話が進まないやね。

だが事態はもっと深刻かもしれない。権利を獲得できないだけではなく、そもそも『UTADA IN THE FLESH 2010』のマスター映像そのものがもうどこにもないのかもしれない。或いは、あっても誰も所在を把握出来ていないとかね。これは結構ありがちなことで、何しろ映像作品は権利者が多岐に渡る為、恒久的に安定したレコード会社が管理してないと途端に行方不明になってしまう。これはもっとシンプルな音源についてもよくあることなので、仮にこうなっているとすれば今後円盤化はおろか、Netflixや U-NEXTなどでの配信すら覚束ないかもしれない。

確かに、今でもこちらでは昔iTunes Storeで購入した映像をダウンロードして観れはするのだけど、これはあクマでiTunes Store(今ではApple TV)で配信する用にマスタリングされた映像でしかなく、大元のマスター映像とは違うものだ。故に、これをそのまま他所で使う未来はあんまりない。

うーむ、八方塞がり。


「クロニクルズから外れた」理由として考えられるもっと穏やかな理由は、「マスター映像の画質が低いから」。前々からなんでこのライブはSD画質でしか配信していないのかと言われてきたと思うのだけど、そもそもがHD画質&音質で撮られて&録られてないのかもしれない。今回のクロニクルズの目玉はやはり「Blu-ray化」なので、その為にラインナップに名を連ねられなかったというのは、大いにありそうなことだ。それだって、まぁ、DVDで出してくれてもよかったんだけどねぇ。今からでも遅くないから、『EXODUS』発売20周年記念盤の特典として『UTADA IN THE FLESH 2010』DVDをだな…もう遅いか。ならば5年後に来る『This Is The One』20周年で…いやだからもうその頃には円盤事業自体がだな…。


と、なんだかんだ理由はつけられるのだけど、いちばん大きいのは、現在のエピックソニーとユニバーサルのスタッフの皆さんに思い入れがないことだろうな。同ツアーに。エピックソニーの面々からすりゃ当時のUTADAの活動は「俺たちから宇多田ヒカルを奪いやがって」という感情に加え「稚拙なプロモーションしやがって」という至極真っ当な憤りを抱える案件だったはず。いや皆さんもっと穏やかな口調の方々ですけれども。本音のところはそんな感じだったんじゃあ、ないかなぁ? それがあるから、様々な困難を克服してまで円盤化に漕ぎ着ける気分じゃないの、というのが根底にあるのかもしれません、ね。


…はい、いつにも増して妄想満載でお送り致しましたm(_ _)m
全部が的外れで、ある日ひょっこり円盤化されたらいいなって、心底思ってます。いいライブなんだアレは!ホントに!!

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