先週のVICE記事の翻訳ん時に「この記事の詳細な感想なんかはまたいつもの日記で触れられるかな」とか書いたので触れようと思ったんだけど、特に付け足すことないのよね。ヒカルの発言内容も初出といえる程のモノはないし。
寧ろ逆の話をすべきかなと。この記事がそうだというのでは全然ないが、この手のしっかりした修飾の多い文章は「インタビューの発言が執筆者のストーリーに合わせて単なる素材として切り取られている事が多い」のは留意しておくべきだろう、という話。これからその手の記事が増えてくるかもしれないしね、宇多田ヒカルが英語圏でより注目されていくとすれば。していかないかもしれないけど。
今回も、どうにもヒカルの発言の切り取り方が不十分で訳しにくかった。例えばここ。
***** *****
だが、わずかばかり門戸を開いて88risingと仕事をして以来、宇多田ヒカルはアジアとの関係性をより深く感じるようになったという。
彼女は次のように語る。
『今までの経験だと、自分のアジアらしさは通常、不快なやり方で私に押しつけられてくるものでした。でも、今回(一緒に)参加した素晴らしい皆さんが周りにいてくれた(ライブの)時には、自分が何者なのかをよりしっかりと掴むことができたんです。』
***** *****
確かに、文意からは「あぁ、アジア人たちに囲まれて居心地良かったんだろうな」という風に解釈できるが、ヒカルは何故「(ライブの)時には、自分が何者なのかをよりしっかりと掴むことができた」なんていう言い方に留めているのか。(原文は"But being around the brilliant people who were part of that set have made me more in touch with who I am.") そのすぐ下ではMiya Natsukiさんのエピソードに関して"Asianess"ってハッキリ言ってるのに。
恐らく、地の文になっている「88risingと仕事をして以来、宇多田ヒカルはアジアとの関係性をより深く感じるようになった」(原文は"Utada has felt a deeper connection to Asia. ")という箇所は、インタビュー中のヒカルの発言なのだろう。だが、一般論でいえば、地の文でこう書かれると、本当にそう本人が言ったかどうか確信が持てなくなる。これはあまりいいことではない。
無理矢理難癖をつけるなら、それこそ「自分を認めてくれている人たちが周りに沢山居たから楽しかった」というのが主旨で、それがアジア人、アジア系の人たちであることは然程関係が無かったかもしれない。ネガティブな環境の例として、自分がアジア系であるという理由で差別された経験があったのは間違いないが(実際原文のヒカルの発言部分に"my Asianess~in an uncomfortable way"とハッキリ書いてある)、ポジティブな環境の例としては、今回のコーチェラの舞台は"one of them"でしかなかったかもしれない。実際、ヒカルは『Utada In The Flesh 2010』に於いて様々な客層から歓待を受けている。自分がみたホノルル公演でも肌の色が3つも4つもあり、聴衆の話す言語も3つも4つもあった。多国籍多人種なファン層を持つのが宇多田ヒカルだ。
だから、こちらとしては、そういう背景をもつヒカルが今回のコーチェラの舞台をどれくらい特別に見ているか、或いは、自身の中でどう位置づけているかを知りたいのだけど、どうにも今のところそこらへんの細かいニュアンスが見えてこないのが私の不服。それというのも、宇多田ヒカルがコーチェラの舞台に立つという“事件”のインパクトが、日本のシーンやアジアの、そして世界のアジア系のシーンに於いてインパクトが強過ぎた為だ。確かにそれは歴史的に大きい出来事だし音楽記者がその点にフォーカスを当てて記事を書くのは当然なのだが、ヒカルの発言のうちその意図にそぐう部分だけを切り取っているのではとファンに訝られてしまうのもまた有り得る事なのだとは、知っておいて欲しいんだけどいや待てそれ俺英語でこの日記書くべきだったんじゃねーの!? …と今頃気づくなど。まぁもぉ遅い。
という感じなので、明後日発売になる「VOGUE JAPAN」でのヒカル自身の言葉によるコーチェラの感想が読めるのは大変期待している。シーンに対するインパクトについても自覚的でありつつ、個人としての感慨もちゃんと述べているバランスの取れたコメントを発しているのではないかと思っているのだがはてさて。
| Trackback ( 0 )
|