無意識日記
宇多田光 word:i_
 



読者層を考えて、だなんて柄にもない事を言ってしまった。自分が読みたいもの、読んでよかったと思えるものを書くという基本スタンスは変わらない。心境の変化でもあったのか私。多分、日記を書くにあたって色々な人たちから沢山情報を貰っているしそれがないとそもそも何も書けないのでその感謝の気持ちも多少あるんだろうな。でもまぁやっぱりマイペースでいきましょう。


全部すっ飛ばしてくまちゃんから始めてみよう。彼は男の子である。長らくそう思われてきたがゲイだとHikaruが勝手にカミングアウトしてくれたお陰で性別が確定した。レズの場合もゲイと呼ぶ可能性が微レ存とか言ってたらキリがないので確定で。

なんで男の子なのだろう? 見た目?名前?それともテディベアって女子居ないの?あれがオランウータンなら性別わかりやすいのに。これは根本的な疑問である。Hikaruも深く考えずにいつのまにか、という事だろうか。

恐らく、最も尤もらしいタイミングは、Hikaruがベッドでくまちゃんとじゃれあってて不意に口をついて出てきたメロディーが「ぼくはくま くま くま くま~♪」だったまさにその瞬間だったのではないか。自然に歌った歌が「ぼくはくま」だったのだから、くまちゃんは男の子だろう。男の娘な可能性が微レ存とかもういいから。歌が生まれた瞬間に性別が確定したとすればこれはもうHikaruにとっても理由は「よくわからない」のではないか。

そして、最終的にHikaruはくまちゃんになりたがる。百万円だかそれ以上だかをかけてギガントを作り上げる。並々ならぬどころか常軌を逸した情熱だ。ここがまた興味深い。幾ら溺愛してるからといって、その愛情の対象に、自分がなりたいと思うのか? 例えば私が「宇多田ヒカルになりたいか?」と訊かれても答に窮してしまう。「なってみたいか?」という質問なら即座にYesと答えるが、それは「どんな感じか知りたい」という意味であって、なりたいのとは訳が違う。そう考えると、「なってみたい」人はたくさん在るが、「なりたい人」って俺居ないんだな。自己実現云々より、前も書いた通り「ただ知りたい人」なので誰かとかいう前に「何かになりたい」という感情が果てしなく薄い。そんな事より知りたいのだ。くまちゃんは何故男の子?

Hikaruがギガントを着るに際して、特に性別は重要ではなかっただろう。そんな事よりくまちゃんになりたい。ただひたすらそれだけだ。いつの間にか決まってしまっていた設定なんてどうでもいい、と。

なりたい何かがない私がなりたい何かが溺愛の対象であるHikaruの気持ちなんてわかる筈もないのだが、ほんの少しだけ考えてみたい。

Hikaruの自己実現がくまなのだ。安らぎや癒やし、元気を与えられる存在になりたい、といったところか。

しかし、現実にくまちゃんとの会話を見ていると、Hikaruは彼に対してどう振る舞っているかといえばお母さんだろう。色々と教えたり諭したり、遊んだり宥めたり抱き締めたり。それに対して無邪気に返すくまちゃん…いや勿論彼は対等な目線で話している為親子という感じでもないのだが、Hikaruはくまちゃんと話している時は異様に包容力があり、異様に幸せそうだ。

逆から考えてみるべきだったかもしれない。いちばん重要だったのは、Hikaruが、くまちゃんと話してる時に"なってる自分"の方だったのではないか。くまちゃんと話す事で、優しく、穏やかな口調、気持ちになれる。そして、それは何かといえば、"憧れの母親像"だったのではなかろうか。それは、部分的には純子さんが体現していた事で、また、部分的には純子さんに足りない部分でもあった。憧れというより、理想の、と言った方がいいのかもしれない。Hikaruが本当に欲しかったのは、くまちゃんのように奔放に無意味に自信家に甘えん坊に振る舞っても優しく受け止めてくれる存在、つまり、彼女はくまちゃんと話している時にだけ演じられる"あの役割"が自分にも居てくれたら、と願っていたのかもしれない。

それなら、私にもギガントになる理由がわかる。くまちゃんになる事で、Hikaruが演じる"あの役割"、即ち「憧れの理想の母親像」を得る事が出来るようになる。そうなって初めて、秘められたHikaruの願いが叶うのではないか。でも実際にギガントになっても、肝心のその役割を担って演じてくれるHikaruがどこにも居ないのだが…。


そうすると、くまちゃんとHikaruの会話の正体がみえてくる。あの時、くまちゃんとして話しているのがHikaruで、Hikaruが演じている方が、何か別の誰かなのだ―とそう考える。ややこしいぞ。ややこしい。でもこれは、俺が話さなくてはならない。キリヤンはCasshernで似たような演出をしていたが、あれではまだまだ不十分だ。通じ合った2人は、自分の思う事を相手が、相手が思う事を自分が話すようになる。要するに入れ替わるのだ。Hikaruとくまちゃんはそこまでの関係なのである。


流石に難易度が高いな今回は。ひとつもわからなくったっていい。仮説としても大胆を通り過ぎて誇大妄想に近い。しかし、何か本質を掠っている気がしてならない。だからくまちゃんは男の子なのだ、とこの先に言える気がしてならないのだ。しかし、本当にそこまで辿り着けるだろうか…。

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ヒカルの映像やら写真やらは、もう日本では数千万人単位で出回っているのだろうか。私はシンプルに、多分Hikaruは本音をいえばそっとしておいてほしいのだろうから特に観ようともしないのだが、何だこの疎外感。ヘンなの。実際にスルーしてる人は一切発言してないだろうからこんなもんなんだろうけど。

話を大幅に短縮して結論だけ書けば、私はテレビ新聞雑誌に"権威"を感じていないんだと思う。用があれば使わせて頂くし、でなければスルーする。それだけの事なのだが、多くの人はかなり無自覚的にマスコミ依存なのだろう、見た上であーだこーだと愚痴を言い、何一つ改善されない。確かにメディアは余りにも巨大で、一朝一夕には何も変わらないが、自分の行動も変えられないのにそんな巨大なものを動かせ…るのが今の時代ってもんか。何だか総て対岸の出来事という感じで。私はネット依存だけどマスコミ依存ではないのでとっととスルーしときますね。…この話はやっぱり長くなるなぁ。いちばん向こうが嫌がるのは「無関心」なのだが、依存してると無理だわね。

2人が伝えたい事はメッセージに書いてある事だろう。こっちはそっちがベースだ。宇多田ヒカルはデビュー時から発信基地を持ってきた。マスコミが如何に正確な情報を伝えるにあたってアテにならないか。私は優しくないのでわざわざ不快感を訴えて抗議するなんて親切はしない。Hikaruが発信する情報だけで十分だ。尤も、そもそもヒカルの事を知れたのもそうやってマスメディアが大騒ぎしてくれたお陰なので、その大恩を忘れるというのも人としてどうかと思うけれども。


読者層を想定して話を整理するだけでも字数を使うなぁ。マラソン覚悟でないとこのテーマにはおいそれとは踏み入れられないんだな。一生ズシリと重くのしかかるもんな。母親を自殺で喪った事実。


今回もひとことだけ付け加えておくか。こっちが主文なんだけど。

メッセージを読んで安堵した理由は幾つかあるが、ひとつは、それだけ長い期間苦しんできたのなら、「死」の衝撃自体は、そんなに唐突ではなかったかもしれない、という事。精神疾患の部類に分類される人のみならず、話を認知症患者さんまで広げれば多くの人も当事者になるのだが、生きているうちにこちらの顔や名前がわからなくなったりというのは相当のショックで、往々にしてそれは、後から振り返ってみるとその人が実際に死んだ時よりも精神的打撃は大きかったりする。家族との闘病の記録は、本人の結末が死であった場合、家族にとってそれは長い長い"入院"生活からの"退院"みたいなものだ。妙な響きだが、前も述べたように喪失感と後悔と居心地の悪い安堵感の複合が心に去来する。死は衝撃的だが、ある意味その深さや大きさについてはある程度"予習済み"ともいえる。だから、2人は今毅然とした対応を取れているのだろう。勿論文章ではある程度「やせ我慢」が出来るので、会って話してみれば憔悴しきっているのかもしれない
が、赤の他人に"そう受け止めてほしいからそう書いた"のだろうから、こちらもそう受け止めた上で発言する。今までもそうしてきたし、これからもそうしますよ。

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何かズレているなぁ、と思ったら前提を確認していなかった。私は精神的なタイプとして、圭子さん側の人間だ。世間的には彼女の方が病気なのかもしれないが、脳というのは多義に渡る器官であり、病気かどうかなんて社会性以外の定義は持ち得ない。ややこしい話を全部すっ飛ばすと、繊細過ぎる人間は世の中生きにくい。誰よりもちゃんと事実や真実が正確に見えているのに、少数派だからといって異端扱いされる。端的にいえば、世間は絶対多数の至極鈍感な者たちがいちばん快適に暮らせるように設計されているのだ。少数の天才は大多数のバカに合わせなくてはならない。大変ね。

私は自分の事をその少数の天才だと言ってる訳じゃない。ただ、大多数鈍感者が、そのことにすら気付かないのは欺瞞だと思っているだけだ。貴方が正常だと言われているのは貴方が世界に対して正しいからじゃない、ただ、たった今人数が多いというだけだ。それを忘れてはいけない。遺伝子に正解なんてない。ただ生き残れてきた一例でしかないんだから。

圭子さんは少数派だった。そういう風に私が言いたいだけである。その気分をもって、こちら側だと言ったのだ。


心の病という時、本人がその事について困っている場合と、そうではない場合の両方が考えられる。前者は病気だと言ってあげた方がいいことが多いし、後者は社会性次第となる。照實さんが「気まぐれ」の一言に集約させたのは、彼にとってそれが生きていく為の障害だとは認識されなかった、彼と彼女の作る関係性(小さな社会)においては問題がなかったという事だ。そこは、少しヒカルと温度差があったように思われる。


…いかんな、語る事が多すぎて、くまちゃんになかなか辿り着けない。どのルートを通ればいいのやら…


ひとつだけ、メモしておこう。ヒカルは自分の事を『EVAでいうならアスカがいちばん近いと思われてる』と分析していたが、今思うと、ヒカルがアスカと自分を重ねたのは、旧劇版を観た方なら思い出すだろう、母親が自分の事をわからなくなった経験をもつ者としての共感からだったのかもしれない。そう考えると本当にいたたまれない。また、ナウシカの母親は…っとそこまでいくと長くなりすぎるな。今回の更新はあまり読まれないだろうし、ここまでにしておきます。

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