無意識日記
宇多田光 word:i_
 



宇多田光の人生の中で最も衝撃的な出来事のうちのひとつだ。もしかしたら、これ以上にショッキングな"事件"はもう二度とないかもしれない、という位の。

ならば、デビューして十数年、Utada Hikaruをどこかからかの時点で応援してきたファンの人たちにとっても、最も心揺さぶられた出来事となっただろう。結婚報道の比ではない。それはまた(何度か)あるかもしれないが、これはたった一度しか起き得ない、何であれば、一度も起こらないかもしれない事件なのだから。ここに於いて、2013年8月22日木曜日に於いて、宇多田光の人生は分断される。ここからは、地を底からくり貫いて作り替えたような異質な旅が始まる。最早一度日は暮れ、この日は終わり、新しい一日を今を生きている我々は、迎える。

さて、何をさておいても、話の本筋とは無関係なのだが、これだけは言わずに居られないので、失礼を承知で記しておく。


藤圭子さんが亡くなって、俺はとても悲しい。


以上。では本日の本題に入ろう。

私は22日の昼、藤圭子自殺かの報を受け取った。喪服姿で、だ。今日は私の祖母の葬儀の日。2013年8月20日の朝、先月満100歳の誕生日を迎えたばかりの彼女は眠るように静かに息を引き取った。21日の夜に通夜を済ませ、今日火葬され骨を拾った所。故人との思い出を話し出すとキリがないが、"大好きなおばあちゃん"との別れの日を過ごしていた。

そのタイミングで、光の母の死を聞かされた為、私は通常よりもかなり冷静で居る事が出来た。勿論この日に飛び降り自殺か何かがあるなんて事は夢にも思えなかったけれど、丸2日間ずっと、人の死について、人を喪う事についてずっと考えていたから、恐らく私の人生の中でも、最もこの報を冷静に受け止められる希有な日のうちのひとつであった事は間違いない。

なので、敢えて言おう。光。貴方はまだ暫く、悲しみに沈んでいる暇はない。貴方は純子さんの一人娘であり、最も親しかった人間のうちの一人。今は、彼女を弔い、見送るべき時だ。しっかり、やんなさい。


もし彼女が今。アーティスト活動の最中であれば、エモーショナルに振る舞う事もまた受け入れられる事もあるだろう。しかし、今光は人間活動中である。人とは異質な人生を送ってきたからこそ、人が人として人並みにやれる事が一通りできるようになりたい、とアーティスト活動を休止して作った時間であるはずだ。ならば、30歳の一人の大人の女性が、自分の母親を喪い、且つ彼女の長女・一人娘であるのなら、喪主を務める可能性が高い。人間関係や家族構成、信仰の差異などで変わる事かもしれないが。

今回私は孫というかなり気楽な立場で葬儀に参加しているが、次、いつ自分が主となって誰かを送るかわからない(勿論私が送られるかもしれない)、そう思いながら、母を喪い喪主を務める伯父や父が、"実務上"何をしなければならないかを細かく観察していた。それは、ほんの小さな事や日常的な事の集積である。食事を何人分用意するかとか、花はどんな名義で誰と誰が出すかとか、乗用車の分乗とか電報の管理とか、そういった様々な雑務の数々だ。今の時代は葬儀会社が殆どの煩雑な手続きを肩代わりしてくれるのでかなり楽にはなったが、喪主として葬儀を回す役割は、相変わらず忙しいもので、正直、(彼にとっての)母の死を悲しんでいる余裕などなかった。今夜あたりは漸く一息つけて思い出に浸りながら一杯飲んでくれてるかな。

光の場合は、母が突然の死、しかも自殺の可能性が高いという事で衝撃度が非常に高く、その悲しみと絶望は察するに余りあるが、しかし、ここを乗り切らなければ人間活動を一年半続けてきた甲斐が大きく薄れてしまう。ある意味、人間活動最大の課題といえる。我が親を弔うという行為は。我々はまだ生きていて、やれる事があるのだ。


それに……やる事があるというのは、何より悲しむ人にとって救いである。もし今直ちに自分の感情と向き合ってしまったら、光は、数ヶ月、或いは数年は立ち直れない。弔いは、無論死者への尊敬と愛が第一であるが、同時に、まだ生きている者が生きていく為の工夫と知恵の伝統的結晶でもある。私の祖母は生前の御縁から真言宗(あの空海のひらいた密教である)で送り出したが、形式は何でも構わない。一人の普通の人間として、一人の母親の娘として、一人の30歳の女性として、やるべき事をやるべきだ。それがいちばん、貴女の為になる筈だから。それ以上は、今の私にはわからない。

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「なんとなくインディーズ特集」。その“なんとなく”の含意について、前回に引き続き、今度は素直にそのまま解釈した場合のお話。

今回のテーマは「インディーズ」では な く 、「インディーズ"感"」である。或いはインディーズ"っぽさ"と言い換えてもいいかもしれない(よくないかもしれない)が、この漢字一字の"感"を付ける為にこの一時間はあったと言っていい。

まず、Hikaruはこう切り出す。『だいたいメジャーとインディーズの違いってみんななんとなくわかってると思うんだけど』。ここがまず面白い。普段何気なく音楽に触れているリスナーは「メジャーとは何ぞや」とか「インディーズとはどう違うか」とか突き詰めて考えて聴いていたりする訳ではない。ただ単に、「今度メジャーデビューする○○のナンバーです」とか「△△って最初はインディーズからCD出してたんだね」とかいう実例を幾つか耳にした事があり、そこからメジャーアーティストとインディーズアーティストの全体の傾向の違いを漠然とだがイメージしているに過ぎない。ここらへんの、つまり、平均的なInterFMのリスナー層を想定して話し始めてる訳である。

そして、ここが重要なのだが、明確に言語化されていない"インディーズのイメージ"を、実はみんなもう持ってるよね、という所から始めていながら、ここから敢えて1時間かけてその"インディーズ感"を解説し、明瞭な概念へと昇華させるのが狙いなのである。Hikaruはそれを、どうやるか。みてみよう。


すぐさま彼女はこう続ける。番組が始まってから僅か一分である。

『簡単に言うと、メジャーレーベルっていうのは凄く大きな会社で、どっかに多分加盟してて、数もそんなになくて』
『それ以外のもっと小さな会社をインディペンデント・レーベルとかプライベート・レーベルって、いうのかな』

『で、ミュージシャンからしていちばんおっきな違いは、メジャーレーベルの場合、何かが出る時に、プロモーションの展開が、凄くこう大規模で、その代わりミュージシャンに行くお金の割合、CDの売上とかから入ってくるお金の割合が少ない』
『で、インディーズだとそこまで大規模なプロモーションは展開出来ない若しくはしない、けれどアーティストに行くお金の分配がもうちょっと多い、っていうとこかな』


…いきなりお金の話である。下世話さ甚だしい。が、いや、まずは言葉の定義と、そこから来る直接の帰結から入っているのだ。つまり、このエピソードでは「インディーズ"感"」という内面的なフィーリングを共有する事がテーマなのだが、そういうあやふやな所に直接行くのではなく、まずは誰にでも共有できるもの…辞書的な定義と、そこからくる現実的な違い、この場合お金の話だが、そういう所から話を始めているのだ。内面的なフィーリングを共有する為に、フィーリングから入るよりまず"共有"の方から入るあたり、いかにもUtada Hikaruらしい。


ここから一時間かけて、Hikaruはその「インディーズ"感"」の"感"の部分をつまびらかにしていく。その模様を次回以降もみていく事にしよう。

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