ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

旅で出会ったローカルごはん95…広島・平和記念資料館の展示&『若貴』のお好み焼き

2007年09月08日 | ◆旅で出会ったローカルごはん
 

 子供の戦争教育を兼ねての広島への家族旅行でやってきた、平和記念資料館の展示で、なぜ広島へ原爆が投下されたか、という経緯についてがよく理解できた。いくつもの候補都市の中で、広島が投下地に選ばれたのには様々な理由があるけれど、何かの条件が違っていたら別の都市になっていた可能性があったことは、背筋を寒くさせた。候補地の中には自分が住んでいたことがある都市も、今住んでいる都市も入っており、場合によったら原爆にまつわる諸事が、もっと身近になっていたのかも知れない。
 2階からは、原爆の威力とその被害についての展示が続く。パネル展示を過ぎて広いスペースに出ると、右手の一角に瓦礫と火災のジオラマ、そこには大火傷を負った被爆者を模したマネキンが立っており、リアルというか少々おぞましい。ほか被爆者の怪我の様子を写した写真パネルや、焼け焦げた遺品など、少々子供たちには刺激が強いかもしれないが、しっかりと見ておいてほしい事実である。

 途中、実物大の原爆の模型を見かけ、足を止めてみる。中規模の都市を一瞬で壊滅させたのだから、巨大な爆弾かと思いきや、長さ3メートル、重さ4トンほどと、結構小柄な印象だ。計画当初の長さよりも全長が短くなったため、「リトルボーイ」という呼称がつけられた、と解説にあるが、無差別殺戮兵器にしては愛らしい名称に、何だか違和感を感じてしまう。
 付近には原爆の破壊力と投下の際の基礎データが記されていて、その威力が分かる数値がいくつも並んでいる。この小柄な爆弾にはウラン23550キロ搭載されており、一瞬のうちに臨界量を越えて、高性能火薬1万6000トンに匹敵する破壊力を持つという。
 当日は、この原爆を搭載した爆撃機エノラ・ゲイ号ほか、科学観測機、写真撮影機の3機編隊で、相生橋を投下目標に作戦の実行にかかった。相生橋は当時、太田川の両岸に加えて平和公園のある中州にもかかる、珍しいT字型の橋だったため、上空から視認しやすく投下の際の格好の目標になったのである。


実物大の原爆の模型。これで14万人の死者を出したという

 そして高度9600メートルで投下された原爆は、43秒後に相生橋の南東300メートル、原爆ドームに近い島病院の上空600メートルで炸裂後、投下後1万分の1秒で火の玉が直径28メートルに、さらに1秒後に直径280メートルになったのち、熱線と放射能、数十万気圧の爆風とともに、市街一面に拡散した。
 火の玉の中心部の温度は30100万度以上、爆心地の周辺は3000度だったというから、人間も含め様々なものが、一瞬で気化してしまったはず。自分が死んだことすら分からないうちに、気体となって蒸発するというのは、いったいどんなものなんだろうか。
 結果、この小柄な爆弾一発のおかげで、死者は14万人、半径2キロ以内の建物は跡形もなく壊れ、広島は文字通り壊滅状態となった。加えて拡散したおびただしい量の放射能により、広島は当時、70年間あまりは草木も生えないだろうといわれていた。それが現在はすっかり復興したどころか、西日本屈指の規模を誇る大都市に成長したのだから、戦後における広島市民のバイタリティーには感心させられる。

 さらに原爆による様々な被害状況を伝える資料を順に眺め、結局館内をひと通り見学し終えるまで、2時間近くの時間を費やした。濃密な展示のせいもあり、子供たちも少々くたびれた様子。この展示を見た直後で何だが、ともあれ昼飯の時間ではある。
 ちなみに戦後の復興の際に、広島の人々を支えた味が、広島名物のお好み焼きなのである。原爆投下から間もない戦後すぐの頃、繁華街である新天地界隈に集まっていた屋台で、すでにお好み焼きの原型といえる料理が売られはじめていた。当時は「一銭洋食」という名で、水で溶いた小麦粉に何とか集めた野菜くずを具として、鉄板で焼いてソースを塗って供していたという。極度の食糧不足の中、この料理は人気を博し、復興に携わる人たちにとっての活力源ともなったとされている。
 後に具材が増えたり、キャベツや麺を入れるようになったりと、現在のボリューム満点の広島風お好み焼きが形作られていくのだが、起源はこのシンプルな一銭洋食だったことを、原爆投下後の広島復興にまつわる話、として、記憶しておくのもいいかもしれない。

 そうした経緯をふまえた上で、というよりも、単にみんな腹が減ったということで、お昼ごはんはもちろん、お好み焼きである。戦後に屋台が集中していた新天地界隈は、今ではパルコなどファッションビルが立ち並ぶエリアとなり、屋台街は「お好み村」というビルに収まっている。2階から4階までに30軒のお好み焼き屋が集まる、いわば元祖屋台村、といった感じで、ガイドブックにもとりあげられているせいか、観光客や修学旅行生に人気の観光スポットでもある。
 有名なお好み村で食べるのも悪くないけれど、広島の市街にはおよそ2000軒ものお好み焼き屋があり、激しくしのぎを削っているというから、「殿堂」以外の店も面白そうだ。で、訪れた『若貴』は、広島に来るたびに顔を出す店で、お好み村の目と鼻の先の本通りのアーケードにある。エレベータでビルの4階へ上がると、フロアひとつがすべて1軒のお好み焼き屋、というスケールの大きさは、相変わらずである。

 自分はいつもの、豚肉に生エビ、生イカ、玉子、中華麺とたっぷりの野菜が入った「お好み焼きスペシャル」。女性と子供は麺が少な目の「レディース」にできるそうなので、ほかの皆はそれにすることに。大皿いっぱいのお好み焼きは、結構な量に見えるが、瑞々しくたっぷりのキャベツ、生から焼いているためプリプリ、シャッキリのエビとイカ、下に敷いたカリカリの豚肉にパリパリに熱が通った麺と、食べ進めると割とじゃんじゃんいける。
 甘ったるいドロリとしたソースにマヨネーズも、広島風お好み焼きに欠かせないアイテム。オタフクソースが有名な中、この店ではオリジナルの「若貴ソース」が用意されている。生地にも麺にもソースをしっかりからめ、ひと口、もうひと口。子供にひとり1枚ずつは「レディース」でもちょっと多かったようで、残った分まで平らげたら、さすがに満腹でごちそうさま、となった。

 資料館では始終、神妙な面持ちだった子供たちは、お好み焼きで満腹となったところでリラックスしてきたよう。戦争や原爆の悲惨さについて、どれぐらい何を感じてくれたのかは何とも言えないが、今回の旅がきっかけになり、これらに少しでも関心を持つようになってくれればとりあえずよし、という感じだろうか。
 かく言う自分も、集中していたリバウンドか、満腹とジョッキのビールのおかげか、ひと息ついてドッと眠気が襲ってきた。みんな一生懸命見学したのだから、今日はお疲れ様、ということでこの後いそいそ観光して回るのはやめ。広島港を臨むホテルに戻ってひと休みした後、館内でボウリングを楽しんだり、近くの海辺を散歩したりと、のんびり家族旅行モードで過ごすことにしよう。(2007年8月29日食記)


旅で出会ったローカルごはん94…広島・平和記念公園の原爆展示&お好み焼きⅠ

2007年09月04日 | ◆旅で出会ったローカルごはん


 自分たちが小学校の頃は、夏休みになり8月に入ると、戦争にまつわる様々な情報があふれていたように思える。当時の様子を特集したドキュメンタリー番組に、空襲や召集による戦死といった悲劇をテーマとするドラマや映画。8月6日、9日になると原爆を主題にした広島・長崎の特集に追悼行事、そして
15日の終戦記念日まで、一連の流れがあったものだ。
 広島の原爆といえば、中沢啓二作の「はだしのゲン」も、小学校4年生の頃に市民公会堂で映画を見たことがある。原爆投下後の町の様子を描写した映像は、いまでも鮮明に記憶している。現在の特殊メークやCGなんてないのに、焼け払った町を彷徨う被爆者のただれた火傷や溶けて垂れ下がった皮膚は、怖いぐらいに凄惨そのもので、原爆の悲劇が実にダイレクトに伝わってきた。
 この原爆被害を伝える名作が、先日ドラマでリメイクされたのでちらっと見てみたが、子供の頃見たオリジナル版よりも、かなりこざっぱりとした印象だった。ゴールデンタイム放映のテレビドラマということもあり、映像表現がきつくならないよう、いささか手心を加えたのだろうか。

 ともあれ、自分たちの子供の頃に比べ、夏のこの時期に戦争をテーマとした情報が、かなり減ってきているのは事実だろう。加えて前述の新旧「はだしのゲン」の比較のように、報じられる情報の質も幾分変わってきている、言ってしまえば、戦争のもつリアリティが希薄になった気もする。
 今後、戦争を事実として知る方々が年老いていくにつれて、社会全体が戦争の実感が希薄になっていき、次第に風化していく。いつしか戦争が、すっかり過去のものになってしまう時が来るのかもしれない。果たしてそれでいいのだろうか、特に子供を持つ身として、ある程度は戦争の悲劇や決して繰り返してはならないことを、子供たちにきちんと伝えることが、親の義務なのはないだろうか。

 と、前置きが長くなったが、そんな訳で今年の我が家の家族旅行は、子供への戦争教育をメインテーマに、広島となった。広島市街で原爆ドームや平和記念公園を見学させるのはもちろん、もう1箇所、瀬戸内海に浮かぶ大久野島という小島も訪れる予定。その理由は大久野島の紹介編で触れるが、実はこの2箇所を合わせて訪れることに、きわめて重要な意図があるのだ。
 羽田から空路、広島空港へ入り、初日は日本三景&世界遺産の宮島を訪れた。旅の初っ端からハードに戦争資料館見物、というのも重いので、まずは鹿と遊んだり、海上に浮かぶ厳島神社の大鳥居まで干潮時に散歩したり、もちろんあなごめしに紅葉饅頭、焼きガキと「私的テーマ」のローカルごはんもバッチリもこなして1日目は無事、楽しく終了。そして2日目は小雨模様の中、まずは原爆被害の象徴である原爆ドームを見学後、やや神妙なムードでいざ、平和記念資料館へと足を向ける。

 平和記念資料館は、自分はもう3~4度見学したことがあり、大まかな展示内容は知っているつもりだった。それが何年か前に展示内容をリニューアルしたようで、これまでは原爆投下後の被害にまつわる展示が中心だったのに加え、様々な展示スペースが増えていた。
 中でも興味深いのが入口を入ってすぐのコーナーで、「なぜ『広島』に原爆が落とされることになったのか」という経緯が説明されている。足を進めるにつれ、広島が原爆投下地に決められた、驚愕すべき事実が多々綴られていて、ここは子供以上に食い入るように展示にのめりこんでしまった。以下、戦前の広島の町の様子、それに則して広島が投下地になった様々な要因、加えてアメリカ側の都合による原爆投下の理由付けなどを、展示からまとめてみよう。

 第2次世界大戦前の広島は、日清・日露戦争で栄えた軍事拠点で、両戦争時には大陸への物資輸送拠点、日中戦争時には三菱重工が進出して工業港となった宇品港をはじめ、陸軍運輸部に大本営、さらに師範学校もある一大軍都だった。よって街も賑わいを見せており、現在も広島を代表する繁華街である新天地や本通界隈には、料理屋やカフェが120軒あまり軒を連ねていたという。これら繁華街は皮肉なことに、原爆の爆心地にすぐ隣接して広がっていたのである。
 その広島に原爆が投下されることとなった理由の前に、アメリカの原爆の開発について簡単に触れておく。もとはアメリカが敵国のひとつであったドイツに対し、ナチスによる核兵器開発を進めているのでは、と懸念を抱いたのが発端で、ドイツへの牽制の意味もあってルーズベルト大統領の主導で核開発の「マンハッタン計画」がスタート。実験も成功し、実用段階へと進んでいった。

 となれば、原爆の投下先はドイツに向くと思いきや、日本が標的になったのは戦後処理に向けたアメリカの思惑、というかご都合がからんでいる。大戦末期にさまざまな戦争終結の選択肢があった中で、アメリカとしてはソ連より主導権を握れること、なお原爆開発への巨額投資に対して、国民に理由付けができることを最優先に、戦争終結の方策を検討していた。一方、日本は敗色濃厚な中、和平を画策したい際に仲立ちをお願いしようとしていたのが、こともあろうに中立条約を結んでいたソ連。これがアメリカの焦りを呼ぶこととなり、原爆の日本投下へ向けての準備が促進されることとなったのだ。
 それにしても、上記の原爆投下を決めたプロセスは、近年の湾岸戦争やイラク空爆の理由付けともほとんど大差ないように思える。アメリカのエゴ、といえばそれまでとはいえ、アメリカの立ち位置が「国際的警察」といった正義に基づくものでは決してないことが、昔も今も変わらないのが垣間見えるように思える。

原爆投下前の平和記念公園周辺(左)と投下後(右)の模型

 日本に原爆を投下することが決まってから、次に検討されたのが「どの都市に投下するか」。候補地を決める条件となった、直径3マイル(4.8キロ)の都市というのは、要はアメリカが開発した原爆の効力が最も得られる規模というのだから、候補地選びは戦争終結のために意味があるかどうかではなく、原爆の実験台として適切かどうかが重視されていたのはは明白だろう。
 1945年4月27日の、第1回目標検討委員会会議では、17都市・地域が候補に挙げられた。全部挙げると東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保。自分の住む町や郷里がこの中に入っているという方は、背筋が凍ったのではなかろうか。5月11日の第2回会議では、そこから京都、広島、横浜、小倉の4都市が候補となり、5月28日からこれらの都市への空襲が禁止されたのだが、その理由が「原爆の効力を検証するため、事前の破壊行為を控える」だから恐れ入る。
 7月に入ると、原爆と同じ大きさ・形の模擬爆弾による練習を兼ねた空襲が、富山、宇部、神戸、四日市、春日井、豊田、いわきを中心に展開され、7月25日に最終的に「8月初旬に、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかの都市に原爆を投下する」ことが決定。投下予定の8月6日が晴天だったこと、連合国軍の捕虜収容所がない(と思われていた)ことが、最終的に広島に決まった理由とされている。

 広島と長崎に原爆が投下されてしまったことは、消すことのできない事実だが、こうして投下先が決まった経緯を追ってみると、何かの条件がひとつ違っていれば、別の都市に原爆が投下されていたことも充分あり得る。横浜や神戸のエキゾチックな港町がすべて破壊されていたかも知れず、京都の数え切れないほどの貴重な歴史的文化遺産が、ひょっとすると全く存在していなかったかも知れない。広島と長崎が運が悪かった、というのではなく、上記の候補都市を始め、日本のあらゆる都市が、当事者となった可能性があることを、もっと認識してもいいのではないのだろうか。

 …いろいろ綴った最後に、名物のお好み焼きでローカルごはんで締めるつもりが、まだまだ原爆にまつわる話が続きそう。食べ物ネタがまったくなくてイレギュラーですが、今回はいったんここまで。次回に原爆の破壊力の説明&市街の人気店「若貴」の破壊力満点のボリュームのお好み焼きで、まとめたいと思います。(2007年8月28日記)