ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

ローカル魚でとれたてごはん…本牧 『日中友好食処 本牧玉家』の、本牧天丼

2019年05月06日 | ◆ローカル魚でとれたてごはん
本牧漁港から本牧の市街へは、再びだだっ広く閑散とした埠頭の中を歩く。漁港といえば魚食堂でのランチが楽しみなのだが、かつて港内で水揚げされた魚料理を出していた「叶屋」は、数年前に閉店。埠頭で見かけた「波止場食堂」にも寄ってみたものの、メニューはハンバーグにトンカツにカレーなど、トラック運転手のエネルギー補給用。あたりはかつて海だった埋立地で漁師町があったわけでなく、界隈での地魚のご飯は期待できなさそうである。

再び産業道路を渡りかつての陸地へと戻れば、米軍の接収解除後に区間整理された街区へと入っていく。コンテナ埠頭から一転してスペイン風の街並みになるが、どちらの景色も今の本牧。中心部まで行けば飲食店も見つかるだろうと、本牧通りまで出たところ、商業施設「マイカル本牧」の並びに「本牧天丼」とのメニューを掲げた店を見つけた。ネーミングのローカルさにひかれて、この「玉家」にて漁港さんぽ後の昼食とした。

黒塗りのテーブル席が並ぶ店内は一見、そば屋のようにも見える。奥には中国料理店にある丸テーブルも配置されるなど、業種も国籍も不明だ。店の能書きによると、関係者に華僑の方がいる縁で、和食と中華をそれぞれ味わえる狙いなのだという。品書きの表紙には「日中友好食処」とあり、めくるとそば、ラーメン、丼もの、中華と確かに幅広い。「昔ながらの本牧の味」との項にはサンマーメン、もやし焼きそばも並び、ハマのローカルフードもしっかりカバー。本牧に根付いた店らしさが感じられ、これは期待できそうだ。

目当ての本牧天丼を注文する前に、店のお姉さんにタネを尋ねると、穴子、キス、スミイカなど地魚を中心とした盛り合わせとのこと。運ばれてきた大振りの丼には、これらに加えカボチャ、ナス、オクラも盛られ、ボリューム感に気分が盛り上がる。キスからいくと、艶々の白身がしっとり、ホロリと上品。スミイカは分厚く対照的にブッツリ、淡い甘さが広がってはスッとひいていく。そしてアナゴは薄めながら身がキュッと締まっており、後味にほのかに土の香りがする。いずれも色の濃い江戸前のつゆに負けず、東京湾の個性的味わいを主張しているかのようだ。

扱う料理の範囲が幅広い「町中華」ながら、この店の売りのひとつは、本牧水揚げの魚介だ。本牧漁港を拠点に操業する漁師から直接仕入れた、文字通り本牧の地魚料理を提供。品書きには地魚刺身三点盛りもあり、大衆的な雰囲気から市場食堂のようにも思えてしまう。天丼もこれら魚介を胡麻油でサッと揚げ、代々受け継がれたタレにくぐらした人気の品。魚種は季節により変わり、ほかイシモチ、スズキ、夏場は運がいいと高級ダネのギンポが入ることもあるそうだ。ネーミングに違わぬ、本牧の季節の魚食を伝える逸品といえる。

店は大正期創業の老舗で、店内には戦前の店先付近の懐かしい写真が掲示されている。市電の本牧三渓園終点の写真も見られ、埋め立て前のこの頃はまだ界隈に浜の風情もあったことだろう。きれいに整備された街並みにある地魚食堂と、かつて海だった埠頭の片隅にある漁港。戦後の変遷といまの漁業事情を合わせて思う、本牧のローカル魚さんぽである。

ローカル魚でとれたてごはん…本牧・本牧漁港

2019年05月06日 | ◆ローカル魚でとれたてごはん
本牧神社の境内からは、右手から正面にかけて小高い緑地が続くのが望める。三渓園から本牧市民公園にかけての園地で、かつてはこの外側が本牧の海岸線だった。神社を後に、八王子道路で本牧の市街を突っ切ると、首都高湾岸線の高架とその直下の産業道路へと出る。この先はかつての海で、崖に沿った緩いカーブが続く様子に、断崖景勝だった当時の様子が伝わってる。歩道橋で幅広の道路と貨物線を渡り越せば、その先はもう埋立地。連なる事業所や工場が、これまでの街並みと一転、無機的な眺めとなる。

本牧から杉田にかけての根岸湾岸は、戦後すぐから昭和30年代後半にかけて、港湾設備の拡大や工場用地として大規模に埋め立てられた。漁師たちも廃業や漁業権の放棄が相次ぎ、横浜の漁業は操業規模の縮小を余儀なくされる。現在、漁港は金沢区の柴と金沢の2つ、ほか「船だまり」と呼ばれる係留所が市内に10数箇所あり、それぞれを拠点に東京湾で操業が行われている。本牧漁港も船だまりに分類されるものの、江戸期から開港を経て今に至る、歴史のある漁港なのである。

だだっ広い埋立地の中を歩き、本牧埠頭に入りD埠頭の付け根にある、中〜小型の漁船が10数隻停泊する船だまりが本牧漁港だ。ここが整備されたのは1997年、船だまりといっても漁港らしい体裁を整えており、漁協の建物を中心に荷揚げと仕分けの施設、漁具の置き場など、全国各地で見かける漁港と遜色ない。底引き網漁が主で、横須賀沖から多摩川の河口あたりまでが主な漁場。漁がある日は船が付くごとにシロギス、イシモチ、アオリイカ、マコガレイ、アナゴなど、東京湾の主要魚介の水揚げで賑わうという。

連休最終日の昼過ぎなのもあり、港の入り口に立つ赤灯台の先の東京湾に目を凝らしていたが、漁船が戻って来る様子はない。停泊場所そばに積み上げられた網などの漁具、荷捌き場の間に置きっぱなしの「本牧」との文字が書かれた水槽に、ハマの漁港らしさがわずかに伝わってくる。あたりを見回して目に入る、巨大なクレーン群や倉庫群に、この漁港の現在のポジションが、改めて感じられる。

では、漁港最寄の町で地魚ごはんをいただいていきましょう。

ローカル魚でとれたてごはん…本牧 『本牧神社』の、お馬流し

2019年05月06日 | ◆ローカル魚でとれたてごはん
浜マーケットで見かけた「地物」の水揚げ港・本牧漁港を目指して国道16号を進んでいくと、間門で分岐に出くわした。右方向が湾岸方面への道だが、事業所や工場が立ち並ぶ埋立地で風情に欠ける。左方向の名勝・三渓園や本牧公園がある市街地で、本牧の街を眺めながらやや遠回りすることに。広々した並木道の舗道を進み、かつて米軍住宅だった和田山の高級住宅街を経て、本牧山頂公園の麓へとたどり着いた。ここで本牧の漁業ゆかりの社に、参拝をしていきたい。

その名も本牧神社は、本牧山頂公園の丘と木々を背に建つ社で、権現造二重破風の大屋根の社殿が堂々と聳えている。もとは横浜港に臨む本牧岬の先端にあり、航海安全の神、本牧の守護神として、地元に信奉されていた。戦後、本牧は米軍に接収されたためしばらく仮遷座していたが、接収後に区画整理された際に本牧和田のこの場所に移された。高台の境内からは本牧の閑静な住宅街、奥には本牧埠頭のクレーン群、右手奥には本牧市民公園の断崖も遠望でき、俯瞰しながら漁村だった風景も思い起こしてみる。

この神社、かつての立地の他にも、本牧の漁業との関わりが見られる。境内社のひとつ、大山阿夫利神社は、大山が相模湾や東京湾の漁師に漁場を知らせる目印なことから、大漁と航海安全のご利益ありとされる。ほか、「ハマの奇祭」とも呼ばれ室町時代から続く例祭「お馬流し」は、馬の首・亀の体を模した茅細工「お馬さま」を、神社に祀ったのちに本牧漁港から祭礼船に乗せ東京湾沖合に流す。災厄を背負ってもらい流す意味があるそうで、国際貿易港の大規模な埠頭の一角で、こうした祭礼が今も息づいているのだ。

では、いよいよ目的地の本牧漁港へと向かいましょう。

ローカル魚でとれたてごはん…磯子 『浜マーケット』の、本牧漁港水揚げの地魚

2019年05月06日 | ◆ローカル魚でとれたてごはん
GW10日目のランで目指したのは、横浜の本牧周辺。かつての漁師町の面影をたどりながら、界隈を訪ね歩いてみましょう。

磯子で立ち寄った「浜マーケット」は、戦後間もない昭和20年に、かつての疎開道路沿いに作られた市場である。のちにアーケードが架けられるなど体裁が整えられ、入口の国道16号に市電が走っていたこともあり、磯子や根岸など近隣からの買い物客でにぎわった歴史がある。幅が狭くやや薄暗いアーケードは当時の面影を留めており、青果店に鮮魚店、精肉屋、漬物屋、惣菜の店など、普段使いの店舗がぽつりぽつりと並ぶ。昼間から地元客が行き交う庶民的な賑わいに、往時の様子も彷彿とさせる。

このマーケット、近隣が埋め立てられる前は根岸湾まで100メートルほどと、名の通り浜そばのマーケットだった。かつては根岸や磯子の漁師が、アジ、キス、スズキ、コチ、ハゼなどの近海物や、砂浜でとれたアサリなどを持ち込んだり、漁師の奥さんが天ぷらなど惣菜を作り売りしていたこともあったという。今では埋め立てで湾は遠くなってしまったものの、鮮魚店を覗くと「近海」「横須賀」「平塚」との札が掛けられた鮮魚が並び、アジ、マサバ、イサキなどの近隣の地物の姿に思わず嬉しくなる。

その中にすぐそばの「本牧」との文字を発見、本牧の港といえば、コンテナ船をはじめとする大型貨物船が着岸する、本牧埠頭が浮かぶ。その一角に小規模ながら漁港も設けられているのは、地元でも知る人は少ないだろう。底引き網や刺し網漁が主で、店頭に見られるマガレイのほかイワシ、サバ、スズキ、カマス、タチウオ、イシモチなど、東京湾の主要な漁獲はほぼ水揚げされる。魚介は主に横浜中央卸売市場、南部市場で取引され、このように地元の鮮魚店で「地物」として並ぶことになる。

マーケットを後に、東京湾へ出る釣り船の釣り宿が並ぶ堀割川を渡ると、川端に八幡橋八幡神社の社殿が見える。このあたりもかつては浜だったところで、境内の灯明は根岸湾で操業するカレイ、イカ、アナゴ漁の打瀬船の目印になったそうだ。根岸湾は遠浅で小川が多数流れ込むことから、富栄養で海苔の養殖も盛んだった。秋から冬には湾岸に並ぶ海苔棚が風物詩だったが、戦後の工場誘致のための大規模埋め立てのおかげで、今はその面影もない。根岸駅近くの老舗の海苔店の店頭には、千葉産の品しかないのが残念である。

さらに、本牧の漁業探訪へ続きます。