ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

ローカル魚でとれたてごはん…岩手・宮古市田老 『渚亭たろう庵』の、地魚にこだわる料理あれこれ

2015年09月03日 | ◆ローカル魚でとれたてごはん
三陸屈指の防災都市と称された田老の防波堤は、まさに「万里の長城」たる堂々たる佇まいである。3本の防波堤を臨めるポイントに立ち、周囲をぐるりと見渡せば、復興に向けての様子が手に取るように分かる。湾内で巨大な渦となり、ここを乗り越え街を押し潰し引いていった津波の凄まじさ。それから4年、がれきの山は草地となり、現在はかさ上げの造成が進み、高台には移転した住宅も建ち始めた。

水門だけ残して決壊した第2防波堤の海寄りには、漁師が作業に使うプレハブの小屋が建ち並ぶ。ワカメ漁やウニ漁に使われているのだが、浜に近いため移転対象なのらしい。かさ上げした国道4号線から海側は、民家などは建てられない決まりで、それでも浜に近いところで働きたい、海が見えるところに住みたいのが、漁師の気持ちなのらしい。

同じ防波堤の内側に建っていたたろう観光ホテルは、4階まで津波を受け壁を破壊されてしまった。震災の遺産として、その姿を残すべく保全中で、営業棟は景勝の三王岩に近い高台に「渚亭たろう庵」として移転した。景色を見てもらうためにここに建てました、と支配人が称するだけに、13室の客室はどれも展望の素晴らしいこと。復興著しい田老の市街や、田老漁港と太平洋を見下ろしつつ、部屋付きの露天ジャグジーに浸っていると、被災地であることを一時忘れてしまうような。

景色はもちろんのこと「宿として地元を利用する」との話の通り、料理も地元の食材にできるだけこだわっている。アワビの肝とコノワタの突き出しに始まり、酢の物は山田のホタテ、宮古のホヤに水タコ、ホヤ、そしてサケの氷頭(軟骨)にマンボウのコワダ(腸)といった珍しい部位も。マツモは地元田老産で、キウイのソースが個性ある魚介たちをうまくまとめている。

続く地物煮魚のクリームソースは、田老でとれたサクラマスで、淡水のマスらしく身の味が淡く軽いこと。ソースのベースは、サケのアラを2時間以上煮込んで作っているそうで、食材を無駄にしない心意気が伝わってくる。突き出しのアワビのキモも、高級魚介である吉浜アワビから外したものだそうである。

支配人いわく、この宿には冷凍庫を置かないことをモットーとしているそう。入札権を持っているので直下の田老漁港で毎日仕入れられ、ウニやアワビ、ホタテ、ヒラメなどは漁協で提供してもらった生簀にもストックしているためだ。数日しけても問題なく、宿の規模が小さく、個人客で部屋出し中心だから対応できるのです、と支配人。これもまた、地元の食材を徹底して利用する表れに思える。

つくりはサワラにチダイ、ヒラマサに、スイという地元の魚も並んだ。どれも身が厚くチダイはシャッキリ、サワラとヒラマサはもったりと脂が甘い。もう一品、田老で揚がったエゾアワビは季節外れながら、ゴリゴリの歯ごたえの後に貝の旨みが華やかに咲く。南部潜りで漁獲されたものを漁協から買ったもので、通常は11〜12月の口開け期間以外は禁漁でとらないのだとか。

そしてメインは、蒸しアワビとワカメのウニソース焼き。加熱して磯旨さが増強されたエゾアワビに、潮の香りが豊かなワカメ、ミルキーに濃く甘いウニと、田老を代表する高級ローカル魚介の揃い踏み的な一皿だ。「天然のワカメは、田老が日本一です。その最高のを巻いて焼いたのですから」と、支配人の推しもパワフルなこと。ちなみに地物のウニは、市場で牛乳瓶入りのが、8個相当の身が入りオススメだそう。殻付きは新鮮そうに見えるが、ウニは剥かないと当たり外れが分からないという。

岩泉の地酒「八重桜」は、名水処の酒だけにスッと素直で魚介に合うこと。こうした食べる支援には、地物をしっかり食べさせてくれる拠点が欠かせない。海と漁港が見下ろせる高台の宿が、田老の漁師たち、そして町の支援につながる旗印になればいいな、と、復興談義に花も咲いて冷酒瓶がどんどん空になる、田老の一夜である。

宮古被災地てくてくさんぽ2

2015年09月03日 | てくてくさんぽ・取材紀行

宮古郊外・田老の「学ぶ防災」の訪問は、数えて3回目になる。万里の長城と呼ぼれた田老の防波堤上から、語り部の方のお話を伺うのだが、いざ立ってみるとこの数年の変遷を実感してやまない。

田老の防潮堤は3つあったのだが、東日本大震災時の津波では用を成さなかった。14時46分の地震から40分後に、まず第一波が到達。いったん防潮堤が跳ね返したところに、最大高15メートルの第二波が襲来した。一波の返しとぶつかって湾内で渦となり、第一防潮堤を乗り越え第二防潮堤を破壊して、田老の市街へと押し寄せたのである。防潮堤が高さ10メートルあったため、市街の人たちには押し寄せる津波が見えず、油断につながり被害が広がったそうである。

2年ぶりに見た防潮堤は、沈下分の80センチほどかさ上げされ、第一防潮堤の水門は内部に野球場を整備するため閉鎖されていた。上に登ると、見渡す限り造成とかさ上げの眺め。2年前に見た、雑草が広がり落ち着いてしまった眺めからすれば、新たな一歩を歩み出したような、盛り土に被災の記憶が抑えられるような、複雑な思いがある。

田老の街は度重なる津波の経験から、防災の町として作られている。強靭な防波堤をはじめ、山側へ放射状に設けられた44の避難路、交差点の角を切り込んで見通しを良くするなど、避難の環境も整備されていた。にもかかわらず181人が犠牲になったのは、備えに対する過信があったといわれる。防潮堤は波を散らして、5分は時間を稼ぐ。10〜15分あれば高台に逃げられるのだから、人を助けても自身の5分だけでも逃げる意識を持つこと、引き返さないこと、「てんでんこ」(散り散りに逃げる)の徹底。これらが大事なのですと、語り部の方が切実に語る。防災には万全も、想定外もないのだ。

第一防潮堤の内側はがれきが撤去され、草地の更地も見え落ち着いた感がある。そうなると被災で家を失った人たちが、被災の記憶が薄れてきて、また浜に戻りたいとの希望が出てきているらしい。2〜5メートルかさ上げした国道4号線から海側は、民家は建てられない決まりになった。それでも浜に近いところ、海が見えるところに住みたいのが、漁師の気持ちなのらしい。

今後は海際に14.7メートルの防潮堤を設け、第三防潮堤を切り離して二重の防潮堤にするという。それでもなお、逃げる意識は持ち続けるべき、と語り部の談。津波てんでんこは利己主義のようで、その背景には家族の、仲間の信頼あってこそ、との話が心に沁みる。「災害は忘れた頃にやってくるのではない。人が被害の記憶を忘れるから災害になるのです」。このたびの被災地探訪で、一番心に刻まれた言葉である。

宮古被災地てくてくさんぽ1

2015年09月03日 | てくてくさんぽ・取材紀行
宮古市の被災地視察、市内に入る前に橋野高炉跡へ立ち寄った。7月に「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産登録されたが、軍艦島や三菱長崎造船所に比べ、やや知名度が劣るかもしれない。しかしながら日本の製鉄史において、かなり重要な史跡群なのである。

橋野高炉はそもそも、幕末に諸外国と対抗するため、国防で大砲の整備が必要となったのが建設の契機。それまでの大砲の素材は砂鉄による銑鉄で脆く、岩鉄による銑鉄製造が急務となった。そこで盛岡藩主・大島高任が設置した洋式高炉が、橋野高炉である。高任は学んでいた蘭学をもとに、独自の方式で建設。陸中大橋で1857(安政4)年に試験運用に成功し、藩営として橋野にて翌年に操業を開始した。技法は西洋の模倣だけでなく、ふいごは地元鍛冶屋の箱型を応用、動力源の水車小屋は日本家屋、高炉の石垣は城郭の技術など、日本固有の技術も用いられているのが面白い。

当時の製鉄の流れは、まず高炉の南2キロほどの山にある採掘場で、露天掘りした岩鉄をここまで運搬。これを溶けやすい3センチほどに砕き、高炉の上端から投入して1300度で焼成する。溶けて炉の前に流れ出た鉄は、池に浸けて冷却し、計量して積み出し港の両石港まで運ばれる。ここから水戸藩の那珂湊や韮山へと送られ、反射炉で大砲に加工されたのである。

見学のメインは斜面に沿って3基並ぶ高炉跡で、敷地の中央にはふいご用の水車を回したり冷却に使う水用の水路跡も残る。当時は2基が常時稼働、炉の底に溜まる石を除去するため1基は改修で休業していたという。それでもたたらと違い30〜50日連続操業できるため、年に250日稼働し938トンを生産していたとか。稼働率も生産量も、かなりのものである。炉はかつて7メートルあった袂あたりの3分の1が残り、石に刻んだ溝を接合したり鋼材の楔を打ったりして揺れに強くするなど、構造の仕組みもわかる。

この度登録の世界遺産、今までは個別に評価していた。しかしながら、ここでの製鉄が韮山の大砲製造に繋がり、銑鋼一貫の製鉄が八幡製鉄所に繋がっている。まさに日本の近代製鉄のルーツといえる史跡、登録を機に評価が高まってもらいたいものだ。

フォルクローロ釜石@釜石

2015年09月03日 | 旅で出会った食メモ
宮古市の震災視察、市内へ入る前に釜石駅前で昼食に。フォルクローロ釜石は、3/29に開業したばかりの、新しいホテルで、1階のレストランでお昼をいただいた。アワビとイクラをメカブで和えた、地元中村屋名物の「海宝漬け」に、釜石の背後の山々でとれる松茸。当地の山海の味覚が素晴らしい。

隣接の「サン・フィッシュ釜石」は、かつての橋上市場が駅前に移転したもの。サンマはまだ走りらしく、根室ものが一尾230円と高値。地物は新もののコンブやワカメ、活けのホタテが並んでいて、養殖の復興が垣間見えて嬉しくなる。

一方でサケは、今年は震災4年目のため少なめとか。サケは成長して戻ってくるまで4年かかり、震災の年は放流してないからだという。とはいえいい面構えのがちらほら見かけられ、今後の回帰に期待したいところだ。

用のない街・新花巻さんぽ2

2015年09月03日 | 用のない街にあえて泊まり旅気分に浸る
花巻の見どころ・宮沢賢治記念館や童話村は、花巻市街からやや離れている。新幹線の新花巻のほうが近く、2キロ弱なので歩けなくもない。沿道にはオブジェが点在、田園から森への気持ちいい道だ。

記念館へはひと山登らなければならないが、花巻博物館に隣接する童話村なら行きやすい。入り口には「やまなし」の碑、園内には賢治の野草園ほか、銀河鉄道の車両に銀河ステーションなどのモニュメントも。コンパクトながら、童話の世界観が楽しい。

ワサビを冷麺食べて、童話村に行って、新花巻の先乗りは終了。10時スタートで、いよいよ被災地入りである。