今日は好天に恵まれましたが、北風が吹いて寒い一日でした。
事務室の中は暖房が効いて快適でしたが、タバコを吸おうと外に出ると、風がひどく冷たく感じられました。
すっかり晩秋ですねぇ。
そして、もうじき、冬がやってきます。
冬というのは、どこか死を感じさせます。
死と言えば、光源氏の生涯を思い起こします。
前半の華やかな女性遍歴から一転して、ついには出家。
光源氏亡き後も、物語は続きます。
多くの女性と浮名を流し、不遇な時代もあったものの、後に大きな権勢を誇りながら、晩年は最愛の妻、紫の上の死を悲しみ、出家して隠遁してしまいます。
思えば光源氏という人、多くの近しい人を失っています。
母である桐壷更衣、桐壷の母(源氏の祖母)、恋人である夕顔、最初の妻、葵の上、父である桐壷院、父帝の妻でありながら密通を交わし、源氏の子を産む藤壺、やたら嫉妬深い六条御息所、恋敵と言うべき柏木、最愛にして最後の妻、紫の上。
光源氏にとって最初に経験したのが、母、桐壷更衣の死。
この時光源氏、わずか3歳。
人の死がどういうものか分からず、周囲の異様な雰囲気を察し、あやし、と感じます。
要するに、変だ、妙だ、と感じているわけです。
次が、6歳の時、祖母の死。
皇子六つになりたまふ年なれば、このたびは思し知りて恋ひ泣きたまふ。
と表現されています。
死の意味がなんとなく分かって、恋しがっているわけです。
そして17歳の時、互いの素性を明かさぬまま、男女の関係になった恋人、夕顔の死。
あが君、生き出でたまへ、と嘆きながら、言はむ方なし、と諦めの境地に陥っています。
この諦めが、死を本当に理解した、ということでしょう。
あやし、とも思わず、恋ひもせず。
それでも、生き返ってくれ、と嘆いているあたりが、若さというか、哀れを誘います。
そして、最後に、プレイボーイであった光源氏が一途に愛した紫の上の死にあい、彼は出家します。
人の死に際して、その死を受容していく様が、年齢によって変わっていくことが、端的に表されているように思います。
私が初めて身近な人を失ったのは、14歳の時、母方の祖母でした。
ただ、母方の祖母は長崎に住んでいたため、数えるほどしか会ったことはありません。
そのため、深い感慨を覚えることもありませんでした。
次が、26歳の時、父方の祖母。
こちらは私が25歳で一人暮らしを始めるまで同居していたので、ショックを受けはしましたが、長く患っていたせいか、悲しみよりも、楽になってよかったね、と言った思いを覚えました。
その後職場の同僚を何人か亡くし、その都度ショックを受けましたが、なんといても最大のショックは、42歳の時に父が亡くなったことでしょうねぇ。
もともとお父ちゃん子だったのか、その後1年間で体重が24キロ落ちた時は、自らの命も危機にさらされているように感じました。
しかしいずれの死も、私にとって悲しかったりショックであったりしても、結局は受け入れる他ない、言はむ方なし、というものでした。
光源氏のように幼い頃に身近な人の死を経験していないので、当たり前ではありましょうが。
最近、死生学とか、終活とかいうことが流行りのようになっています。
あまり小難しいことは考えず、古典文学から、死の受容を学ぶということも有意義なのではないかと考えているこの頃です。
源氏物語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) | |
角川書店 | |
角川書店 |