メールだのSNSだのといった手段が発達してきましたが、恋の告白をするのに、昔懐かしい恋文という手段は、廃れてしまったのでしょうか?
愛だの恋だのといった艶っぽい話を失って久しい私には、近頃の事情が分かりません。
しかし少なくとも、私が若い時分には、まだ恋文は、重要な告白の手段であったように思います。
古語では、艶書(えんしょ又はえんじょ)とも呼んだ恋文。
ラブレターと言ったほうが通りが良いかもしれませんね。
わが国の浪漫文学の奇才、泉鏡花の掌編に、「艶書」という小説があります。
艶書 | |
泉 鏡花 | |
メーカー情報なし |
泉鏡花らしい、流麗な文体と、テンポの良い会話が特徴の、幻想的な作品です。
ある病院に夫の見舞いに行くご婦人。
その美しさに見惚れたお見舞い帰りの男が声をかけます。
病院の近くに狂人がいて、むやみに石を投げる、と警告するのです。
ここから、男女の間に不思議な会話が交わされます。
男がある人妻からの艶書を紛失し、困っていたところ、ご婦人がそれを拾ったというのです。
中身を見たかどうかを気にする男。
女は最初しらばっくれていますが、ほどなくして涼しい顔で「拝見しましたよ」と応えます。
それを聞いてもだえる男。
それを見られれば、先方のご婦人の破滅は必定だと言うのです。
しかし女は、なんでもないことだと、答えます。
女が見舞いのために誂えた花籠、これは道すがら青山墓地に供えられていた花から見繕って失敬してきたもですから、という不思議な言い訳をします。
女が夫へどういう思いを抱いていたかは、その言い訳で知られます。
墓地の花を夫の見舞いに持っていこうとする美しい女と、人妻からの艶書の紛失が怖ろしい男。
男は艶書を破り捨てれば一片が人の目に触れ、火にくべれば怖ろしい火焔となるに違いないと、その処分に困っていたのです。
そして突然訪れる狂人の死。
これらの不思議なパズルのピースを組み合わせると、世にも怖ろしく、不思議な掌編が出来上がるというわけです。
かくのごとき作品が書かれなければならなかったのは、怪異と美を称揚した泉鏡花という作家の魂が昇華したものであることは論を待ちません。
しかしそれには、一人の作家の魂の問題で片付けるには、いささか複雑な事情があろうかと思います。
泉鏡花は独特のロマンチシズムが高く評価されながらも、存命中に早くも時代遅れの文学と見なされるようになったと聞きます。
おそらくプロレタリア文学だの私小説だのといった貧乏たらしいものがもてはやされるに及び、キンキラキンの作品が逆にい古く思えたのでしょうね。
悲しいことに。
しかし、同時代の作家、中島敦は、あるエッセイで、
今時の女学生諸君の中に、鏡花の作品なぞを読んでいる人は殆んどないであろうと思われる。又、もし、そんな人がいた所で、そういう人はきっと今更鏡花でもあるまいと言うに違いない。にもかかわらず、私がここで大威張りで言いたいのは、日本人に生れながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、折角の日本人たる特権を抛棄しているようなものだ。ということである。
と、泉鏡花の価値を再認識しています。
そして今、私のような浪漫的傾向の強い文学愛好家は、泉鏡花こそ、近代の耽美主義文学の先駆者として、これを偏愛しているのです。