敗戦の玉音放送を、多くの日本人は茫然自失の状態で聞いたことでしょう。
16年前79歳で亡くなった祖母は、敗戦時、20代後半。
米軍が進駐してくれば、必ず暴行を受け、子どもらは殺害されると信じ、懐に短剣を帯びて、いつでも死ぬつもりだったと言っていました。
それだけに連合軍の比較的穏健な統治に拍子抜けしたようです。
しかし私の祖母がそのような覚悟を決めていたということは、多くの日本人が同じ気持ちであったろうと推測します。
そして子を戦いで失った親達の嘆きはいかばかりであったでしょう。
祖国の勝利を信じて散った兵士とその親は、敗戦という事態を受け止めることが困難であったことでしょう。
たたかひは 永久(とわ)にやみぬと たたかひに 亡(う)せし子に告げ すべあらめやも
たたかひに 果てし我が子の 目を盲(し)ひて 若し還り来ば かなしからまし
釈迢空の和歌です。
歌人、釈迢空としてより、国文学者にして民俗学者、折口信夫(おりくちしのぶ)としてのほうが有名かもしれません。
彼は戦争末期、養子を戦場で失います。
その呆然と、敗戦の衝撃が、彼を激しく動揺させ、上記のような歌が詠まれたものと推測します。
わかりやすい歌ですが、上の歌は戦争が終わったことを亡き子に告げるが、もはや詮無いことだという嘆きが、下の歌は万が一子が帰ってきたとしても、光を失っていたら悲しいことだと、切ない願いが詠みこまれているように感じます。
川端康成は敗戦に際し、「私はもう日本の美しか詠わない」と傷ついた祖国への愛情を誓いました。
多くの文化人が戦争に協力したことに対する反省の弁を述べるなか、小林秀雄は毅然として「私は馬鹿だから反省などしない」と、戦後の日本人の豹変ぶりを嗤いました。
勝負は時の運。
わが国が敗れたことは誠に残念ですが、それ以上に残念なのは、多くの日本人が昨日まで八紘一宇の精神のもと、本土決戦も辞さぬ覚悟を決めていたのに、突如として平和だ反戦だと、空虚な美辞麗句を臆面も無く叫び出したことです。
要するに天皇陛下万歳が真逆に振れて反核平和を言い出しただけのこと。
その心性は全く同じものと言って良いでしょう。
戦後67年を経て、ようやく世論は左右両翼のどちらでもない、常識的な線に落ち着いてきました。
長かったですねぇ。
釈迢空歌集 (岩波文庫) | |
富岡 多惠子 | |
岩波書店 |