昨夜は江藤淳による愛妻を看取った手記「妻と私」と自分史的な「幼年時代」それに福田和也、吉本隆明、石原慎太郎、3氏による江藤淳への追悼文が所収された文庫本を読みました。
200ページ足らずということですぐに読み終わりました。
江藤淳という高名な文芸評論家の名前くらいは知っていましたが、敬して遠ざけ、ついぞ読んだことがありませんでした。
文芸評論を読むくらいなら、文芸作品を読んだほうが良いと思っていたからです。
このたびその著作を読むことになったのは、書店で見つけてなんとなく、というのが実態です。
「妻と私」は末期がんに侵された妻を看病し、看取り、さらには妻亡き後著者自らが大病して闘病する様子を描いたものです。
その筆には鬼が宿ったがごとき迫力があって、読む者を圧倒します。
江藤夫妻には子供がおらず、二人だけで、夫婦と言うより同志愛のようなもので結ばれて生きてきたような印象を受けます。
妻を看病しながら、時間は日常的な時間と生死の時間という分類ができ、しかも生死の時間は死の時間にならざるを得ないと言うことに気付いたことが語られます。
しかも死の時間はとても甘美なものである、とも。
著者は死に行く妻とともに甘美な死の時間を過ごすわけですが、その死後、日常的な時間に戻ることが大変困難になります。
江藤淳は妻の死後わずか8カ月で自殺しています。
脳梗塞から生還した後の自分は形骸に過ぎず、その形骸を自ら処分するだけだ、という意味の短い遺書を残して。
もちろん肉体の痛みや衰えが激しかったのでしょうが、妻を恋うるあまりの後追い自殺、もしくは時間がずれた心中とも解釈できます。
二人の絆がどれほどのものであったのか、他人には推測すらできません。
二人だけで楽しく暮らし、その挙句、心中のような最期を迎えるのは切ないことです。
私たち夫婦にも子供がおらず、いずれはどちらかが独り生き残るはずです。
二人一緒に死ぬのだとしたら、それは不幸な事故に巻き込まれたはずで、そのような最期を望むはずがありません。
私は自分が独り生き残ることが想像すらできず、そのようなことになったら江藤淳のように同居人の後を追ってしまうかもしれません。
私たち夫婦にとっては他人事ではありません。
生死の時間を生きざるを得なかった強烈な読書体験で、それはとても怖ろしいものでした。
その時が来るのが怖くてなりません。