過ちて改めざる、是を過ちと謂う。
「論語」にある言葉です。
全くそのとおり、としか言いようがありません。
このような易しい教えに満ちた「論語」こそ、道徳の教科化にあたって、その柱にすべき、大中華帝国の偉大な教えであろうと思います。
ついでに、現在のレッド・チャイナの人々も再び学びなおすべきでしょう。
人は自己の過ちを認めたがらないもの。
世に尊敬を集める人でも、ちょっとした過ちを隠そうとして、にっちもさっちもいかないものです。
現代社会では、過ちを犯した場合、それを素直に認め、改善策を講じれば、それほど責められることはないものです。
しかしえてして、過ちを糊塗しようとしてさらに嘘をつき、その嘘をさらに強化しようとしてまた嘘をつく、地獄のような循環に巻き込まれた時、組織であれ個人であれ、真なる破滅を迎えるものと思います。
夢野久作という、今では忘れ去られてしまったかのような感がある戦前の作家が、「少女地獄」と言う佳品を残しています。
誰からも好かれたいと願う若い看護婦が自殺するところから物語が始まり、残された手記から、彼女が誰からも好かれるために、嘘の上塗りを重ねていたという物語です。
夢野久作といえば、「ドグラ・マグラ」という大作が知られていますが、「少女地獄」のような小品もまた、楽しいものです。
「ドグラ・マグラ」は、発表当時、読めば気が狂うというキャッチ・コピーで人気を集めた、精神病とも何とも言えない主人公の物語で、長い物語の末、結末が始まりにつながるという、永久機械のような作りになっており、高校生の頃熱狂的に読みふけったものです。
自殺した桂枝雀が主演して映画化もされましたね。
この物語を演じたことが自殺の一因だとすれば、真に怖ろしい小説ですねぇ。
映画も複雑なストーリーをよく咀嚼して、興味深いものでした。
まぁ、それはともかく。
私にも、小さな嘘をつきとおすために嘘の上塗りを重ねたことがあります。
そのような時、脳内麻薬でも出ているのか、「論語」の教えなど何のその、平気で嘘を突き通して何とも思わないのですから、因果な性分に生まれついたものです。
誰にでもそういう経験があるのではないでしょうか?
ただ、私の場合、嘘があんまりうまく出来ていると、その嘘にうっとりし、やがては何が嘘で何が真か分からなくなるという奇癖があり、我ながら悩ましいことです。
しかし、この世に存在する物、何が真で何が嘘なのか、何が単なる思い込みなのか、分からないように出来ているように思います。
だから私は、真実は物語にしか存在しえず、それは物語が嘘八百であるという前提のもとに存在しているからこそなのだと思っています。
それは逆に言えば、確からしく思える現実の世界は、いかにも曖昧で、私たちの存在自体の確からしさを疑わせる、朧な世界だということを示しているのに違いありません。
それなら私は、生きながらこの世の者ではないかのごとく、朧に生きていく他ないのだろうと予感しています。
私こそ、「論語」の教えを学びなおさなければいけない、狂気をはらんだ愚か者なのかもしれません。
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