年相応、という言葉がありますね。
子どもには子どもの、思春期には思春期の、学生には学生の、若い社会人や中年の中間管理職にはそれ相応の役割があり、悩みがあるというわけです。
近頃、そのことを実感します。
40代も半ばになってそんなことを感じるとは、遅きに失した感がありますが、独身を貫き、趣味や恋愛など、若者の特権と言うべき楽しみを永遠に楽しもうという勘違い中年男女が急増している今、私は少しマシかなと思います。
言わば現世は、誰もが年相応、身分相応の猿芝居を演じ続けることによって成り立っています。
それを拒否して自分探しという不毛な精神上の旅を続ける者もいますが、それは食えるあてがあってこそ出来ること。
一般的には食うために、嫌でも猿芝居の世界に打って出て、その芝居を続けなければ食えなくなるという恐怖ゆえ、猿芝居を続け、気が付いたら老境に差し掛かっていた、というのが本当のところなのではないかと思います。
猿芝居から抜け出す才能が無い者は、ジャンボ宝くじなどに夢を乗せ、芝居なしに生きられる将来を夢見るのでしょう。
私もまた、必ずジャンボ宝くじを購入する愚か者の1人です。
幸福とは一体どういうことなのでしょうね。
心理学者のマズローは、衣食住の心配が無く、社会的にも成功した場合、自己実現という欲求が生まれ、これを充足させることが幸福であると説いています。
マズローの心理学 | |
フランク・コーブル | |
産能大出版部 |
また、在野の評論家、コリン・ウィルソンは、晴れた休日の朝の気分を例に、至高体験というものを人は誰でも経験しており、至高体験を自在に感じられる境地こそ幸福であると説いています。
また、至高体験こそ自己実現であるとし、先行するマズローの理論も取り入れています。
至高体験―自己実現のための心理学 (河出文庫) | |
Colin Wilson,由良 君美,四方田 犬彦 | |
河出書房新社 |
なんだか脳内麻薬を自在に放出出来る感じがして怖ろしいですが。
しかし、極東の島国に生まれ、骨の髄までこの島国の文化伝統に浸かりきって生きてきた私には、至高体験だとか自己実現だとか言う、結局はおのれの欲望を満たすための方便に過ぎない理屈には、どうしても納得できないでいます。
「方丈記」で有名な鴨長明は、「発心集」という著作を残しています。
要するに、発心を起こして仏門に入った様々な例を紹介し、発心を勧めているわけですが、ご本人は望んだ役職に就けずに京都郊外に庵を結んで、発心した風を装いながら、祭りがあれば都に出かけ、事件があればやっぱり都に出かける俗物ぶりです。
大体発心して庵を結ぶというのに、なんだってまた都に歩いて行ける所をえらぶのでしょうねぇ。
方丈記 発心集 歎異抄 現代語訳 | |
三木 紀人 | |
学灯社 |
かの西行法師も、
世の中を 捨てて捨てえぬ 心地して 都離れぬ 我が身なりけり
という俗物らしい和歌を残しています。
わが国の先人の言葉を見れば、猿芝居を止めようとて止められぬのが人というものであるかのごとくです。
しかし私は、それを知りながら、明治期に流行った高等遊民のような生活を、出来ることなら明日からでも始めたいと思うのです。
しかし、そう思い続けながら、仕事を続けて22年近くが経ってしまいました。
これからも、ジャンボ宝くじやLOTO7などに儚い夢を乗せ、猿芝居に幕を下ろす夢を持ち続けるより他、生きようがありません。