ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

悪女正機

2010年09月17日 | 思想・学問

 早いもので、来週はお彼岸ですね。

 現在、仏教行事が主ではありますが、戦前は秋季皇霊祭と言って、神道のお祭りとしての休日でした。
 いずれにしても、自然現象にかこつけた行事ですので、仏教だ、神道だと、目くじら立てることもありますまい。 
 起源も明確ではありませんし、比較的近いご先祖様が行ってきたことを、私たちもやろう、というだけの話です。

 仏教と神道といえば、わが国が仏教を受容するに際しては、比較的静かに進んだように見えます。多少の争いはあったにせよ、国を二分するようなことはありませんでした。
 聖徳太子の父帝の用明天皇は、「自分は仏法を信じ、神道を敬う」と言って、あっさり両者併存を決めてしまいました。
 
 平安の御代になると、この矛盾が出てきます。
 「源氏物語」で、六条御息所の娘が伊勢斎宮となるため伊勢に下向しますが、六条御息所は伊勢神宮を罪深き所と呼んで、娘の身を案じています。
 伊勢斎宮と言えば、最高神、天照大神を祀る、最高の格式を持った巫女で、皇族から少女が選ばれるならわしがあります。
 仏教から見れば、格が高い神様ほど、罪も深いのです。
 
 ちなみに伊勢神宮の正式名称をご存知でしょうか。
 神宮とだけ。
 
 「源氏物語」は女性の物語と言ってもよく、当時の女性は法華経の中に女人成仏が説かれていることから、法華経を特別な経典と考えていた節があります。
 じつに頻繁に法華経が出てきます。
 葵上のお産の場面では「加持の僧ども声静めて法華経を読みたる、いみじう尊し」。
 紫上が六条御息所の霊に取りつかれたときは「物の怪の罪救ふべきわざ、日ごとに法華経供養ぜさせたまふ」。

 作者、紫式部も女性でしたから、龍女成仏の教理を説いた法華経第五巻「提婆達多品」には、特別の思い入れを持ち、物の怪になってしまった六条御息所をも救おうとし、それはもはや女人成仏というより、(親鸞ではありませんが)悪女正機ともいうべき様相を呈してきます。

 「源氏物語」は神道よりも仏教に重きを置いていたのは明らかですが、神道が衰退の道を歩むわけではありません。
 神道と仏教は近づいたり、離れたりしながら、現在に至るまで脈々と日本人の精神史に足跡を刻んでいます。
 
 日本人が幼いころから神道と仏教とに同時並行的に接するのは、宗教的寛容又は無関心を養ううえで、有効だろうと考えます。
 昔はこれに儒教も加わっていたのですがねぇ。

源氏物語と仏教
中井 和子
東方出版

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家屋

2010年09月17日 | 思想・学問

 民主党代表選の決着とともに、猛暑は終わりを告げました。
 ここ数日、朝夕は肌寒いほどです。

 日本の家屋は夏をしのぎやすいように造られている、とはよく聞くことです。
 裏を返せば、寒さには弱いということでしょうねぇ。
 障子やら襖やら、紙で外と内を区切ろうというのですから、ずいぶん心細い話です。
 現在私はコンクリートで分厚く固められた集合住宅に住んでいるので、冬は暖房がほとんど要らないほど暖かいのですが、夏は冷房なしにはいられません。駅近くに立地しているので、騒音やらプライバシーやらで、窓を開けて涼をとるということは考えられません。
 
 プライバシーといえば、これは訳語がないのですね。
 訳語がないということは、わが国ではもともとそういう概念がなく、また、文明開化以降もそのような概念を持つ必要がなかったということでしょうか。

 日本家屋の特徴は、部屋と部屋を襖で仕切ること。
 つまり大部屋を小さく仕切っただけのことで、開けようと思えば簡単に開けられますし、鍵をかけても素手で破壊できます。
 幼児の頃から個室を持つのが当たり前の欧米とは大きな違いです。

 「水戸黄門」などでは、旅籠で休むご隠居一行のすぐ隣、襖一枚隔てただけの部屋に、わけありの年増などが宿泊していたりします。
 現在では考えられない、驚くべき不用心です。
 しかしそれが当たり前であった時代には、開けない、という約束事を破るのは、とても恥ずかしく、世間様やご先祖様に申し訳が立たない悪事だったのでしょうね。
 
 家屋に限らず、一つの鍋をつつき合うとか、銭湯や温泉に大勢で入るとか、酒を飲むにもさしつさされつ、何事につけ日本はプライバシーとは縁の無い文化だったようです。
 
 逆に欧米で訳せない言葉に、心中があるそうです。複数の人間がほぼ同時に自殺した、また、無理心中などは、殺人後、犯人が自殺した、としか言いようがない、とのことです。

 日本人は親子や夫婦など、近しい人に介入しすぎるのでしょうか。
 家族といえども結局は他人なので、他人に対すれば他人行儀にもなりましょう。
 しかし他人行儀というのは礼儀でもあり、親しき仲にも礼儀ありと言うとおり、家族だろうと恋人だろうと、礼儀を重んじるべきでしょう。
 我が子といえども一個の別人格と思い知れば、おのれの所有物かと見まがうような、幼児虐待は起きないでしょう。

 古刹やお城などを訪れるたびに、大名や高僧といえど、プライバシーはなかったのだな、と思います。
 時折訪れて喜ぶのは良いとして、それが豪邸であっても、古式ゆかしい日本家屋に住むのは、ちょっと無理かな。


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