たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

誤差と運命

2013-06-17 02:54:45 | Weblog
 理論(理想)と実験(現実)を繋ぐためには、それらの誤差を考えることが必要不可欠だ。
 これは自然科学という限られた世界のことだけじゃなくって、日常生活、普通のシーンで沢山でてくること。自分が想定していた理想と、現実は統計的にどれほどの差があるのかを考えて定量化していくことが、次の動作(実験)をよりよくするうえで大切なことだと思う。

 大切な概念であるはずの「誤差」なのに、自分にとって都合の良いように使うヤツが多すぎる。
 たいていは、系統誤差とランダム誤差の違いをきちんと理解せず、ただ「誤差が生じた」っと言うことで、「だから、自分(の実験や行為)は悪くなかったでしょ?」ってやってるケースだ。研究の場合、こういうのは学生だけじゃなくプロでもこういう風にやってることがあったりする。
 普通、どんなに甘い空気であっても、明らかな系統誤差の原因がちゃんと特定されないままに、発表してはいけない。コントローラブルじゃない、ってことだからね。(真値に対して2σ以内であるσとしての)ランダム誤差が生じる理由はとても難しいし、なんやったら哲学的な論点にまで発展しそうだから議論を止めても良いと思うけど、その系で系統誤差が生じてしまう理由は、(そのためだけに新しい実験を組まなくても良いけど)考えれば見当くらいは付くはず。

 少なくとも、「何故、(系統)誤差が生じてしまったのだろう?」っと、本当の意味で考えようとして欲しい。っというのは、誤差についてうるさい俺みたいなヤツをディフェンスするために考えるのではなく、系を掌握するために必須なことなのだと感じ取りながら、心から考えなくてはいけない、と思って取り組む必要があると思う。

 俺は、このように誤差を取り扱う学問である「誤差論」については、(実用面において)マジで自信があるし、特に大学以降に習った内容のなかで、理系のなかで誰にも負けないほど精密に取り扱えるだけの気持ちを持っている。
 ただ、俺は、誤差が好きなわけではないし、むしろ大嫌いだ。自分や教科書が思い描く理想郷とズレてしまうということに対して、思考力を働かせて定量化していくという作業を、俺が好きなわけが無い。あくまで、理想実現のための次の作業として、必要だから仕方なくやってるだけのことだ。

 「誤差」と似たような言葉で、同じように誤魔化しに使えてしまう言葉として、「運命」がある。
 よく特に努力もしないで、意志を持とうともせずに、「そういう運命じゃなかった」「こうなる運命だった」っと、自らにイイワケをする言葉が目立つけど、「運命」はそういうもんじゃない。
 自分がしたいこととか理想が頭の中にある状態で、自分がすべきことを一生懸命して、今できることを必死にやったあとで、履歴を観察してみた時に、「こうなる運命だったんだな」ってわかるのだ。怠惰で、めんどくさがりで、向こうからやってくるのをただ待って、世間が素晴らしいと称賛するようなモノを、手を伸ばそうともせずに選んでいただけの結果を、「運命」とは言わねーんだよ。

 俺に誤差が大事だと教えてくれたおじいちゃんが言ってたけど、もっと、測定をしながら誤差を見積もり状況を確認していくくらいの、臨場感あふれる実験を遂行していきたい。
 今の時代、関数電卓も簡便で、そういうことが簡単にできるんだから、実験ノートに平均との残差を、求まった先から常に書きとめていく実験を遂行されたし、っと言っていた。っま、そんなめんどーなこと、自然科学の実験では絶対にやらないけど(笑)、でも、タイムスパンが長い人生の中ではやるべきだよね。

 自分の理想はこうで、その理想が実験をするたびに変わっていくんだとしても、今の理想からの残差を求め、系統誤差の原因は何かを探り、理想にフィッティングしていけるように、思考錯誤する。
 こういうことを繰り返していくことで、生命現象という名の「意志」が、物理現象という名の「運命」を露わにし、「意志」で「運命」にすら勝っていけるのだと思う。

 敵は物理現象。こう豪語しなきゃいけないシーンが多くなってきているけど、これは例えや比喩ではなく、単純な事実だ。
 っそ、俺は、理科のなかで物理学が一番得意だけど、大きく言ってしまえば、物理現象は好きじゃない。最初から決まっちゃってる決定論も、コントロール不能な確率論も。

 気持ちで物理現象を打破できることこそがホンモノであり、確実に存在しているその現象について、きちんと着目していくことが、理学の最終目標である、ミクロからマクロまでのすべての理屈とそれらを論理的に繋げる理論を構築する上で、一番必要なことなのだと思う。
 まぁ、だからこそ、物理現象を知る必要があるし、それに纏わる誤差の解析をきちんとしなきゃいけないのだけどね。

 趣味として好きなことだけを朝から晩まで繰り返す日々のなかで、少しずつ責任がでてきていて、それが加速し、いつか楽しさを見出せなくなっていったとしても、「何らかの系統誤差が生じている」で議論を止めることをしてはいけないし、ましてや、怠惰のイイワケに「運命」と誤魔化すことをしてはいけない、と俺自身に対して思っている。
コメント
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