たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

「絶対的な必然的論理性」を見い出せ

2013-06-11 01:07:23 | Weblog
 正しすぎる論理性は、時として、他人を傷つける。
 ヒトの内的なパラメータとして思考と感情で大きく分けるなら、感情でのやり切れなさを、思考によって埋め合わせようとする時に、力積が生じてしまうからだと思う。

 しかし、「絶対的な必然的論理性」と「気持ちを感じ取ること」とは、原理的に共存できるものだ。
 何かについて論理的に考えて、改善策が思いついたモノを心に落とし込んだ時に、まったくもって価値の無いモノだったとしても、それを考慮に入れた上でもう一度思考を使えば、大抵、頭と心からの要求は達成されると思う。

 感情に落とし込んだ時に、正しすぎる真実を突き付けずに、その場の安定性を考慮した優しさを振るうことは、相手の現在の感情はそれでいいのかもしれないけど、未来の感情を守ることにはなっているのだろうか?
 などと、もっと考えて、正しい今できることをフィットしていく。

 思考して、それを感情に落とし込んで、それらがまったくの異質であってビックリして、頭を使うって無意味なことなんだ、って決めつける前に、それをもう一度、賢さの中に持っていって、感情でチェックしてみてほしい。
 こういうことを繰り返していけることが慧眼さであると思うし、賢さを無価値なものだと思うときは、「絶対的な必然的論理性」まで追求できていない、中途半端な思考が殆どなのだ。

 この「絶対的な必然的論理性」について、意見の相違、という逃げ方はできない。
 心に落とし込んでいる限り、こういう凄まじい論理の塊を前にしたら、「あなたとは意見が違うんです」っと逃げることはできないのだ。意見や価値観の違いなどではなく、どんな人が考えても、こういうことをしたら一番価値がある、っと心に落とし込めるモノである限り不変だし、そういうことは存在しうる論理。

 逆に言えば、普通、心に落とし込んでいないなら、絶対に逃れられないほど完備性の高い論理を構築することはできない。
 確かに、天才は、これをも頭脳だけでやってのけるけど、ここまでの賢さを持った人は、今まで2人くらいしか会った事が無いし、俺の周りには一人もいない。だから、やっぱり、平凡な俺らは、心に落とし込みながら論理を築くしか、絶対的な必然的論理性を構築することはできないのだ。

 「えー、だからさー、会話に求めているのは、解決策じゃないんだよ。頭でわかっていても、でも、現実的にどうしようもないことってあるじゃん?そういうことをどう受け止めたらいいか?を共感したい、って言うか。。」

 俺は、あの時と同じ言葉を使って、

 『いやいや、それは、思考が中途半端なだけですって。もっともっと、納得できる解決策があるはずだし、それを聞いたら、きっと、、』

 考えることに価値を見い出せるはずだし、俺は、そういうことを常に考え続けるくらいの思考力の絶対量は、持ってるんですよん?笑
 っとハッタリをかましながら、日々を生活している。

 …なーんて思わせられていたなら余計、ただ自分だけ逃げている俺を、許してはくれないよね??
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