T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

「遠い椿」を読み終えて!

2012-05-17 13:51:19 | 読書

 

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 澤田ふじ子の京都を背景にした人情時代小説。

 短編6話の公事宿事件書留帳シリーズ第17弾。「人の命の重さ、命の大切さ」をテーマにした短編集と思う。

 粗筋のポイントに下線を、心に響いた文章(本文引用)に赤色をつけてみた。

 

「貸し腹」

 佐野屋の淫蕩な一人娘・おみさは手代の重松を口説いて重十九を懐妊したが、他の男が好きになり、腹の子を堕ろそうと様々な手を打ったものの出産してしまった。

 

 おみさは腹を貸しただけと、重松に重十九を押し付けて店から追い出した。

 重松は棒手振りをして男手一つで重十九を育てていたが、重十九が11歳の時に牛車に牽かれて死んでしまい、棒手振り仲間の源七夫婦に育てられた。

 重十九は小さい時から絵を描くことが好きで才能もあり、逆境に立ち向かい、若くして京都でも評判の絵師になり、年老いた源七夫婦を養っていた。

 その間、佐野屋は火事に遭い、おみさはやくざ者の彦次郎の女房になっていた。

 彦次郎の弟分たちが、生みの親の面倒をみるのが当たり前だろうと重十九を恐喝するが、重十九は、孕んだ子を堕ろしきれないと、産み捨てておいて何を言う、鬼子は親に何するかわからんと、怯まなかった。

 そんな場面に遭遇した菊太郎は、やくざ者の髷を切り飛ばし、奉行所はおみさを次は死罪だと告げて畿内からの所払いを沙汰した。

「小さな剣鬼」

 市郎助の父市左衛門は、永御暇を与えられて8年、「主家に節季の挨拶だけは欠かさず、いつかは必ず帰参が叶えられる時を待って文武に励め」と言って目を閉じた。

 市郎助は父から教えられて子供ながらも田宮抜刀流の居合の遣い手であった。

 父の死に一文の弔慰金も出さぬ藩家。そんな藩家を儂の刀一つで仰天させてやるのも腹いせに面白いかもと、父の死後、時が経つにつれ途方もない虚しさを覚え自分が仮面をかぶって生きているように思うようになった。

 

 そんな折、稽古の帰りに盗賊一団と出喰わした市郎助は、子供と嘲弄されて、盗賊の中の二人を一刀のもとに斬り捨てた。

 ちょうど同じ頃、以前に市郎助に因縁をつけたことのある商家の極道息子が殺され、市郎助に嫌疑がかかった。

 商家の極道息子が因縁をつけていた時、市郎助の剣の捌きを見ていたことから菊太郎は、市郎助の冤罪を晴らすべく彼との立ち合いを申し出た。

 市郎助は間合いを取って立ち会う中で蜻蛉を斬り捨てた。菊太郎は儂の負けだと刀をひいた。

 

 市郎助は蜻蛉の屍に近づき懐紙で優しく包み込んでいた。市郎助は命の重さに目覚めたのである。それまでの暗い情念は市郎助の胸から消え去っていた。

 慰み者にされていた茶屋働きの女が、極道息子の下手人として番屋に自訴してきていた。

「賢女の思案」

 近く嫁ぐ身の呉服問屋・笹屋の娘・お加世が鯉屋に来て、私は捨て子だったことは確実で、育ての親に悪いが、ぜひ実の親に会い、自分の身許をはっきりさせてから嫁ぎたいと言う。

 育ての親の気持を考えたが、とにかく真偽を確かめるために、菊太郎は奉行所で御仕置裁許帳を調べて事実であることを確認した。

 菊太郎の人柄を見て、笹屋の隠居・お伊勢が当時の経緯を話してくれた。

 私が嫁いで当代の七右衛門を産んだその頃、夫が、近衛家の諸大夫の職を辞した知人が貧乏の底にあったので、その娘・お高に情けをかけて加世が産まれた。そして、お高から相談を受けた。

 弟が放蕩者で加世の父親が解れば必ず強請をかけることは間違いないと、私も夫の世間体もあって、夫に内緒で夫の実の子を店先に捨て子にしたとのことだった。

 

 お伊勢はお加世を引き取ってから、二度懐妊したが女子が産まれたらその子らを可愛がることは間違いないので堕胎してしまったとのこと。

 

 お伊勢は、お高さんは、今、瀬田の唐橋に住んでいるので、加世を連れて日帰りの旅に連れて行ってくれないかと菊太郎に頼む。

 涙を流して抱き合う母親。その姿を傍らで育ての母親が微笑して見守っているといったことを脳裏に浮かべ、自分の母上のことの感慨が菊太郎の胸をぐっと締め付けていた。

「遠い椿」

 お蕗は家付き娘で、手代の一人を婿に十八屋を継いだ。

 しかし、その数年前に、近所の小間物屋の手代・平蔵と駆け落ちして捕まえられたことがあった。

 そのため、お蕗は滅罪のつもりで生きていると言い、平蔵も嵯峨村で日々精進した暮らしをしてきた。

 お蕗は、平蔵の面影をどことなく感じさせる嵯峨村の野菜売りのお杉を贔屓にしていたが、ここ数日、姿を見せないことを密かに案じていた。

 そして、久し振りに顔を見せたお杉から、やくざな男たちに乱暴されかけられたのだと聞いた。

 お蕗は用心棒を付けてやると、鯉屋に来て報酬として月に十両で頼み、菊太郎が行くことになった。

 数回目の時、お杉の髪に堆朱の玉簪を付けていることに、菊太郎が気付いた。それはお蕗が平蔵から貰ったものだった。

 お杉の父親の徳兵衛が、その玉簪はと言うと、ご贔屓にされている十八屋の御隠居さんから貰ったのだと言う。

 

 お杉を自分の娘だと知っているのだろうか、徳兵衛は、胸の奥に長年秘めて生きた様々な悲しい記憶を一挙に甦らせ、顔を俯け物寂しい声ですすり泣き始め、それは慟哭に変った。

 七日ほど、お杉が見えないのでお蕗が心配していると、菊太郎が病んだ徳兵衛に何かあったのではないかと言う。

 お蕗が菊太郎にお杉の家まで連れて行ってくれと頼む。お杉の家の近くまで行ったとき、徳兵衛の葬儀の列が進んでいた。

 

 菊太郎の、徳兵衛は平蔵といっていたとの言葉が、お蕗の胸に錐で揉むに突き刺さった。

 

 あの別れた日に平蔵の傍らで濃紅色の椿が咲き乱れていた情景を思い出され、本当ならうちが産んでいた筈の娘、と嗚咽をもたらすお蕗の耳に、また弔いの鈴の音が寂しく鳴り響いた。

「黒猫」

 捨てても戻ってくるので、餌は十分でないが、孝吉は黒猫のお玉を大事に飼っていた。

 下駄の歯入れの仕事をしている父親が、ある日、古手問屋・俵屋の店の前で仕事をしていて、店の主から息子の奉公の誘いを受けて、調べもせずに、孝吉はそこで奉公することになった。

 

 しかし、俵屋の主人夫婦ともに吝嗇で、息子の徳十郎も、それに輪をかけ勘定高い男だった。

 お玉は孝吉の奉公先で、孝吉との距離をいちも保ち、優しい飼い主だった彼を見守っていた。

 暫くして、菊太郎は、以前に孝吉とうどんを食べたことがあるうどん屋の親爺から、孝吉が店の金を三十両も盗んで行方をくらまし、奉公先の主は、孝吉の父親に、商いは信用が大切だから店から縄付きを出したくない、金は諦めるので、お互いに内緒にしたいと言われ、貧乏な父親は渋々納得したとのことを聞いた。

 噂によると、夜になると、俵屋の屋根の上で低い咆哮に近い悲痛な猫の鳴き声がして、近くの猫や犬もそれに呼応している。また、徳十郎に飛びついて引っ掻いたこともあったとのことだった。

 菊太郎はお玉をそのままに孝吉が逃げるわけがないと不審に思い、何か事情が隠されていると直感した。

 奉行から調べに行くと、菊太郎をお玉が案内するように庭に導いて狂ったように前足で庭を掘りはじめた。そして、腐乱した孝吉の死体が莚に包まれた状態で掘り出された。

 孝吉が飯茶碗を落として割ったことから徳十郎に殴られて死んだとのことだ。

 店は闕所に、徳十郎は死罪になった。

 お玉は処罰が決まった翌日、殉死するように、二条城のお堀で外傷はなく水死体になっていた。

「鯰大変」

 鯉屋の丁稚・庄太が近江の堅田に正月の里帰りをしていた時に、琵琶湖で三間半もある大鯰が多くの銛が打込まれて引き上げられた。

 その大鯰を京都郊外の途中村の材木商が五両で購入した。

 正月明けて数日したら、京都の市内のあちこちで、ご神油、鯰の膏、切り疵腫れ物に効いて舐めれば万病も治ると効能を並べて、一升にすると二十両近い高額で売り歩いていた。

 菊太郎たちは金のからむ悪巧みに相違ないと、買ってきて舐めたら菜種油だった。

 奉行所から銕蔵とその配下と菊太郎が出張って庄太が途中村の材木商に案内した。

 既に、堅田の漁師たちも、あくどい商売は許しておけないと文句を言いに押しかけてたが、そのときには、材木商の主は娘に刺殺されていた。

 菊太郎は大声で、皆の衆、此処の主は娘から己の僻事を咎められ自殺したのだ、それ以外にはありえないと断言した。

 漁師の元締めは、このお人は粋な分別をされる人やと大きく頷いた。

 

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風車?ー670回ー

2012-05-12 16:32:21 | 日記・エッセイ・コラム

 

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 玄関の飾りを「端午の節句」から変更した。

 写真の花の日本原産名は「風車」。中国原産名でいえば「鉄線 or 鉄仙」。

 西洋種を交配したものを「クレマチス」。

 写真の花は「クレマチス」と名札がついていた。 

 

 しかし、「クレマチス」でもいろいろな形や色の種類があり、私なんか全く解らない。

 植物図鑑をつくる人は大変なことだと思った。

 

 今、辞典を編集する人を題材にした三浦しをん作の「舟を編む」を読んでいるので、つい、インターネットで調べてみて実感した。

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母の日!

2012-05-10 17:35:48 | 日記・エッセイ・コラム


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 朝のテレビ番組で、ゲストが自分の誕生日には、母に感謝していると。

 誕生日には、まず、自分を産んでくれたことを母に感謝していますとのことだ。

 確かにこの言葉には重みがある。

 そして、母が死亡している私にも、私の誕生日が私にとって母の日にもなる。

 また、このように考えると、子供が多い「おかーさん」は、年に何回も「母の日」がきて、感謝されるわけだ。それだけの価値はあると思う。

 

 それにしても驚いたことに、店頭にカーネーションの少ないことよ。

 母の日の花は何でもよいようだ。ランあり、紫陽花あり、……、……、と。

 

 (写真がサムネイル(縮小画面)になっているのを、わざわざ元の大きさに拡大し貰うのもどうかと思い、レイアウトを変更しました。)

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5月の気温差!

2012-05-07 11:50:49 | 日記・エッセイ・コラム

 

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 五月の気温差の大きさに改めて気付いてる。

 昨日の関東北東部に起こった竜巻、酷い雷雨、ゴルフボール大の雹には驚きより恐ろしさを感じた。

 大げさだが、私だったら、あの竜巻には酷い動悸がして救急車を呼んでいたかもしれない。

 四国の瀬戸内でも、今朝から雷が鳴り、朝夜明けの気温は14°、昼過ぎには夏日の気温になるとのこと。27°に達するようだ。

 一昨日だったか朝の最低気温が20°だったりと、気温差があまりにも酷過ぎる。

 衣類の整理も冬物がまだそのままに中途半端になっている。シャツやセーターも厚手の物と普通の物、春の薄手の物と3回になりそうだ。

 特に老年になると気温の差に身体がどうも順応しないようだ。

 それに引き替え、自然の植物は一年に一度の花をその季節になると少しの日時の差はあるが精一杯綺麗に咲かせている。

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「蜩の記」を読み終えて!ー4/4ー

2012-05-05 18:09:02 | 読書

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ー親友・源吉の死ー

 原市之進が、家老の使いで、お美代の方様の御由緒書を渡せと言ってきたが、秋谷は無いと言うと、百姓を煽動して一揆を企てていると申し立てがあるので、郡方目付に調べさせる、そうすれば村の者も引っくくれるし、戸田殿を恨むだろうと言う。

 源吉の父の万治が矢野啓四郎を殺めたとの噂からきつい取調べがあるだろうと、郁太郎が知らせに行く。源吉は万治を逃す。

 逃げた万治の代わりに、死を命じたのは秋谷だろうと源吉が取り調べられ、三日目の夜に凄惨な拷問を続いて受け殺された。

 

 郁太郎は、源吉の死に顔を見て、妹に悲しい思いをさせたくなく命の際まで笑い顔を見せてと、号泣する。

 

 

 郁太郎は父に源吉を死なせた咎は誰にあると問う。父・秋谷は家老がお美代の方様に関わる秘密を守り抜こうとすることにあると言う。

 その夜、郁太郎はしっかりした足取りで我が家を後にした。秋谷に許しを得た庄三郎がその後を追う。

 

ー源吉への仇討ー

 源吉が拷問を受けて死ななければならないのは納得できない。すべてを命じた御家老が源吉の死を知らないままでいるのは許されないので、御家老に一太刀浴びせたいと言う郁太郎。

 見届けるために道案内をするのだと言う庄三郎。

 

 家老の面前で、郁太郎は、親友の源吉は郡方目付の厳しい調べを受けて体中に鞭打たれた痣を無残に残し命を落とした。源吉は、私の父を巡る藩内の確執から死に至らされたものなのに、御家老がご存じないのは許せない。領民が酷い目に遭ったことを、領地の村を治める御家老として知らないとは許せないと、脇差の鯉口に指をかけた。庄三郎が助勢に入る。

 

 家老は若者と斬り合いをしたという不面目は避けたく、源吉の家族も磔に致すぞと卑怯な言葉を発した。

 庄三郎は、郁太郎殿、見事。御家老は武士にあるまじき言葉を吐かれた。これは生涯消せぬ恥辱となろう。源吉のため間違いなく一太刀浴びせることができましたと言った。そして、庄三郎に続いて郁太郎も刀を前に置いた。

 庄三郎と郁太郎は座敷牢に閉じ込められた。

 

 牢の中の庄三郎は、刃傷事件の直後はひたすら生きたいと願ったが、戸田殿に接して今は考えが変わったことを知り、

「人は心の目指すところに向かって生きているのだ、と思うようになった。心の向うところが志であり、それが果たされるのであれば、命を絶たれることも恐ろしくない。」

そう思いつつ、庄三郎は薫の顔を脳裏に浮かべた。

 戸田殿ならば、そんな情を抱く気持ちも分かってくれるだろう。

 戸田殿は人を大切に思う気持ちを持った武士だ。だからこそ、私はあの人を信じることができるのだと、満ち足りた思いでいると気付いて庄三郎は頬を緩め、笑って死ぬと言うのは、こういうことなのかもしれないと思った。

 

ー秋谷の鉄拳ー

 家老は信吾を呼び寄せ、秋谷に、法性院御由緒書を渡せば、息子と庄三郎を返し、家譜を纏め終えたならば、その功に免じて切腹の儀を取りやめと致すよう殿に願い出ようと申し渡せと命じた。

 秋谷は、家老は策略の多い人だから、息子らを取り戻し今後も手を出させぬ方策として他に手立てはないと、自分から出かけることにし、側で、幽閉を破り城下に参るのはと止める織江に向かって、そなたにとっても何物にも代えがたい大切な息子だろう、その息子を取り戻しに参るのだと、信吾の馬を借りて家老屋敷に出向く。

 家老の前に出た秋谷は、側の郁太郎に友のためになさねばならぬと思い定めたことを遣ったことは武士として立派な振る舞いだ、私はそなたを誇りに思うぞと優しく言った。

 秋谷が、家老は信じられぬ方ゆえ、御由緒書を持って息子たちを引き取りに来たと言うと、家老は、とうとう儂の前に跪いたと思うと小気味よいと嗤った。

 秋谷は、それは只の紙切れ同然のものだ、御由緒書は慶仙和尚に寺の記録として記すよう頼んだ、家譜を抹消しても長久寺の記録には、家老といえども手をつけることは許されまいと言う。

 

 そして、私は我が命を伸ばすために、御由緒書という藩の大事を使うては武士の誇りが廃れると言い、御由緒書を渡したからには、それがしはもはや死人同然なので許せと、家老の顔を殴りつけ、

「源吉たち領民が受けた痛みを我が痛みとせねば家老は務まりますまい。」

と言って、三人で家老屋敷を後にした。

 

ー秋谷の最後ー

 秋谷が切腹する八月を前に五月に庄三郎と薫は祝言を挙げた。宴がたけなわな頃、戸を叩く音がして庄三郎が出ていくと、村民がお祝いの品を入れた竹籠を持って立っていた。

 七月には烏帽子親は庄三郎が務め郁太郎の元服の儀が行われた。

 郁太郎の元服を終えてほどなく三浦家譜の清書を仕上げた。お美代の方様の出自は、尾張徳川家に仕えた後、牢人となった秋戸龍斉の息女であるとのみ記された。

 十年前、お由の方様が江戸の下屋敷で襲われた一件は、「御側室ニ不意ノ教示アリ、江戸屋敷用人戸田順右衛門罰セラル」と簡略に記録した。

 秋谷は蜩の記に一行記し、それ以外の感慨は書かなかった。

 翌日、藩が家譜を改竄することを見越して、原本を長久寺に預けるつもりで持参した。

 秋谷が未練はないと言うと、慶仙和尚は、「未練がないとは、この世に残る者の心を気遣ってはおらぬと言っているのに等しい。この世をいとおしい、去りとうないと思うて逝かねば、残された者が行き暮れよう」と言って、そなたの未練は他にもありそうじゃなと茶室に誘う。

 松吟尼が秋谷の膝前に茶碗を置いた手がわずかに震えた。「心が乱れ、お恥ずかしゅうございます」と言う。

 その後、二人の間に次のような言葉が交わされた。

 討手を逃れて一夜を過ごした折、秋谷殿は若かりし頃の自分のいとおしむ想いから、私をお助けくだされたとおっしゃいました。その後何も言わずに朝を迎えたことが悔やまれます。

 

 あの折、このまま秋谷殿とどこか遠くへ参ることができたらと思っていました。

 「もしも違う道を歩めば、かように悲しいお別れをせずにすんだのやしれませぬ。今生のお別れが辛ろうございます。」

 「かように松吟尼様とお会いいたしておりますと、それがしも、この世が名残惜しゅうなります。」

 

 八月八日、検分役が来る昼まで、夫婦だけの座敷の中で、「よき夫婦であった。よき縁をいただきました。」と最後の会話をして過ごした。

 

 不意に蜩が一斉に鳴き始めた。郁太郎は、父親が従容として最期を迎えるさまが脳裏に浮かび、この瞬間、命を絶ったのだと、胸にきりりと痛みを感じて空を見上げた。

 

 家譜編纂の功により、ともに相応の禄を戴いた庄三郎と郁太郎は、藩のため、家老を追い落とすことの協力を誓った。そして、郁太郎は力強くうなずいて「義兄上(あにうえ)」と呼びかけた。

 

                      以上

 

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