「あらすじ」
「誘う男」
三 (おかめの常連四人の顔触れと、その一人の佐之助を押し込みに誘う伊兵衛)
蜆川の川端にひっそりと赤提灯を出している一軒の飲み屋(おかめ)がある。
佐之助は暖簾をわけて中に入ると、俯いたまま隅まで歩き、いつも坐る自分の場所へ行く。
そこに座ってから、佐之助は店の中を見回した。いつもの顔触れが二人、やはり飲んでいる。三十過ぎに見える浪人者と、白髪の年寄りである。大ていは、このほかにもう一人、商人風の若い男がいるのだが、今夜は姿を見せていなかった。佐之助を入れて、この四人が大概看板まで飲んで、店の親爺に追い出される仲間である。
仲間といっても、別に言葉をかわすことはない。それぞれ離れたところで、黙って飲んでいるだけである。それだけの仲に過ぎないが、佐之助は彼等に微かな親しみのようなものを抱いている。
店の親爺は愛想のない五十男で、店を手伝う女のおすみが帰ると、色の黒い小男の親爺一人で酒も料理も出す。
佐之助はたて続けに盃を空けた。辛口の酒が、喉を灼(や)いて滑り落ちるたびに、それまでしぶとく残っていた、血なまぐさい気分と緊張が緩やかに溶けるのを感じる。そして、いつもの怠惰(たいだ)な気分が、ためらいがちに戻ってくるのがわかる。ひと仕事終えたという気持ちがあった。
奥村に言われたとおりに手順を運んで、やり過ぎもやり残しもなかった。三両の仕事がこれで終わったのである。当分は何もしないで、裏店にひっくり返っていればいい。
佐之助は手酌で盃を満たしてから、顔を上げた。浪人者と白髪の爺さんはまだ飲んでいる。どういう人間か、と佐之助はいつものように二人のことを考える。
浪人者(伊黒清十郎)は、市中でよく見かける貧しい身なりの浪人者と違って、洗ったあとはみえるが、いつもさっぱりしたものを着ている。端整な顔立ちと、もの静かな人柄からみて、たとえば手習いの師匠とか、割のいい内職の道がついている人間に違いないと佐之助はみている。だが、手習いの師匠にしては、酒が深すぎるという気もした。何かわけのありそうな浪人だと見える。
浪人にくらべると、白髪の爺さん(弥十)の方は、いくらかは素性がわかっている。爺さんには家族がいる。職人風の三十半ばの息子とも見えるその男が来て、飲み代を払い、酔って足下もおぼつかなくなった爺さんを肩にかけるようにして連れ戻るのを二三度みている。しかし、爺さんの面構えには、ただの年寄りとも思えないところがあった。無口だと見えて、ほかの客と話しているなどというところを見たことはなかった。顔は夏も冬も日焼けしている。そうかといって漁師とも見えないところが不思議だった。一度飲み屋の親爺と話している声は歯切れのいい職人言葉だったのである。そして何かの拍子に救いあげるように人を見る眼に険しい光があった。
この二人にくらべると、今日は顔を見せていない、もう一人の若い男(仙太郎)は、どうということもないという気がする。肥って、酒を飲む手つきが落ち着かない男である。白く艶のいい顔をしていて、商家の若旦那ふうに見える。こんな飲み屋で遅くまで飲んでいるのが不思議で、何か家に帰りたくない事情があるのかもしれないと佐之助は推量している。男の酒の飲みっぷりが荒っぽく、心にいら立ちがあるように見えたからである。
―――それぞれ、わけがあるのだろうさ。
俺を含めてな、と佐之助は思った。そういう人間が、別に言葉をかわすでもなく、黙って飲んでいるのが、佐之助には気に入っている。
佐之助が少し陶然とした気分で飲んでいるとき、店に人が入ってきた。
入ってきたのは、小太りの商家の旦那ふうの男(伊兵衛)だった。五十前後に見え、少し腹が出ているが、身なりも良く、顔には愛想のいい微笑が貼りついている。
男は断りもなしに佐之助の向こう側に座った。佐之助は顔をしかめた。
しばらくして「いかがですか、一杯」と、男はにこにこして言った。
――― 出しゃばりな野郎だ。
腹の中に、かすかに怒りが動くのが感じながら、佐之助は思った。
「いらないよ。俺は人におごられるのは嫌いなんだ」
「ま、そうおっしゃらずに、ちょっとだけ。どうですか」
男はへらへら笑って、
「お話ししたかったもんで」
という男の細く笑み崩れている眼の奥に、刺すような光があった。
―――なんだい、この男は。
岡っ引か、と一瞬身体がこわばったが、男から匂ってくるのはもっと別のものだった。用心深く佐之助は言った。
「話しというのは、何ですかい ? 」
「儲け話があるんですよ。ひと口乗っちゃくれませんか。一人頭、百両は堅いんだが、どうですかね」
佐之助は目を瞠ったが、苦笑して首を振った。
「やばい仕事だろ ? 」
「ただの押し込みです」
「押し込み ? 」、と佐之助は囁き声になったが、すぐに手を振った。
………。
「さっき三崎屋の材木置き場でしたことを、見たんですがね」
と言って、男は立ち上がろうとする佐之助の手首を押さえた。
飯台ががたりと鳴って、白髪の爺さんが振り向いたので、二人は腰をおろした。
「おとっつあん、やっぱりここだったんですか」と言う女の声がした。男も振り向き、佐之助も声のほうを見た。
白髪の爺さんのそばに、三十ぐらいの女が子供の手を引いて立っている。
「今日は飲みに出ないって、あんなに約束したんじゃありませんか。ほんとに情けない」
女は爺さんの手から邪険に銚子を取り上げ、それから板場から出てきた飲み屋の親爺に歩み寄った。
「すみません。おいくらですか」
女は金を払ってから言った。
「酒を飲ましちゃいけないって、医者から言われてるんですよ。だからお金持たせていないんですよ」
女は爺さんのそばへ戻ると、叱りながら邪険に腕を掴んで立たせた。
そして、子供の手を引いて先に外へ出ると、爺さんも後に続いた。
「どうですかね、さっきの話は」
「断るよ。いまの仕事でちゃんと食えるし、気に入っているんだ」
「そうですかね。あんたに仕事を回している奥村さんは、ひと仕事であんたの何倍もの金を懐にしていますよ」
「………」
佐之助には、眼の前の男がいよいよ得体のしれない男に見えてきた。
「四」に続く