「信義を守る」
(⑨ 昌平の初公判)
102号法廷は重い空気に包まれていた。
法壇には裁判長の西條政明と両隣に陪審裁判官の二人がいた。
傍聴席から見て左側の席に佐方が、右側の席に弁護人の守岡高徳がいた。
午後1時、裁判長の西條が背筋を伸ばした。
「時間です。これより開廷します。被告人、証言に立てますか」
昌平は2回目の取り調べをした3週間前より、さらにやつれていた。
昌平の胃の細胞検査の結果が出たのは、10日前だった。結果は、ステージⅣの胃癌。ひと月後に摘出手術を行うことになっている。
西條が佐方に起訴状の朗読を促す。佐方が起訴状を読み上げた。
「被告人は、平成12年3月29日午前6時15分ごろ、米崎市大里町川名3丁目付近の人目につかない山際において、母親の道塚須恵さん、85歳の頚部を手で絞めて殺害し、その場に遺棄したものである。罪名および罰条……。以上の事実について審理願います」
昌平、森岡ともに間違いないと答える。
続いて公判は、検察側の冒頭陳述に入った。
佐方は昌平の生い立ちや職歴を述べたあと、事件発生時の説明に入った。
続いて弁護側冒頭陳述に入った。
「公訴事実は争いません。母親を殺害したことは、被告人も認めています。状況や物的証拠もそれらを裏付けたるものであり、被告人の自白が事実であることは明白です。私が法廷にいる皆さんに訴えたいことは、この事件はやむなくして起こったものであり、被告人と同じ立場なら、誰もが同じ過ちを犯しかねないものであるということです」
守岡は、昌平が地元へ戻って来たのは母親の介護のためであり、日々、献身的に介護を続けてきたと主張した。そして、須恵が認定されていたクラスⅢが、いかに症状が進んだ状態だったかも説明した。
最後に、もっと国の福祉施設を利用すべきだったが、それを求めず、ひとりで抱え込んだために事件が起きた。残念ですと言ってしめた。
ここで西條は30分の休憩を宣言した。
公判が再開されて、「証拠調べに入ります」と西條が告げる。
その後、法廷は証人尋問に移った。
弁護側からは畑中が証言台に立った。
畑中が道塚親子について語った内容は、佐方たちが尋ねたときとほぼ同じものだった。
検察側から証人台に立ったのは、米崎江南教会で神父をしている野崎高一郎だった。
江南陸上競技場の周辺で佐方が探していたものは、教会だったのだ。
佐方の質問に野崎は次のように答えていった。
昌平さんが自ら2年ほど前に教会にお出でなりました。
昌平さんは、須恵さんのことで悩んでいらっしゃいました。神に救いを求めてきたのです。
母親の認知症が次第に重くなっていき、福祉施設の利用は母親が嫌がるため難しく、働きたくても母親から眼を話せなくなっていきましたと話されました。
教会に訪れるのは毎週日曜の朝7時から8時10分まででした。
佐方は、なにかを信じている者ならば、自分が罪を犯したとき、信じている者に縋るはずだ、また、昌平の殺人に計画性はなく、なにかしらの出来事があり衝動的に殺した、と考えたのだ。
須恵を殺したあと、我に返った昌平はどうしただろうか。自分がしでかしたことに驚き、動揺し嘆いた。
そして、ある場所へ向かった。それは、ミサに通っていた教会だ、と佐方は睨んだ。
佐方の推論は当たっていた。
公判は続き、佐方は野崎に訊ねた。
「被告人は、母親を殺害したあと、教会を訪れ、神父である野崎さんにすべてを打ち明けた。そうですね。そのとき、被告はどんな様子でしたか」
「ひどく取り乱していました。なんとか落ち着かせて懺悔室で話を聞いたところ、母親を殺したと告白したのです」
事件当日、昌平はその日も昼夜を問わない須恵の徘徊に付き合っていた。前日の夜、須恵が一晩中暴れ、昌平は寝ていなかった。この頃の須恵は昌平のこともわからなくなり、意味不明なことを口走るようになっていた。
事件が起きた朝、須恵は殺害現場となった山際まで自ら歩いて行くと、付いてきた昌平に殴り掛かってきた。罵詈雑言を吐き、昌平を詰(ナジ)る。
お前なんか死んでしまえ、須恵のその叫びに、昌平の心の糸は切れた。気がつくと、息絶えた母親のそばにいた。
そしてもうひとつ、昌平には母親を殺した重大な理由(自分の酷い病)があった。
「告白したあと、被告人はどうしましたか」
「自分も母親の後を追うと言いました。昌平さんに逃げるつもりなど、最初からありませんでした」
「しかし、被告人は遺体を山中に隠しています。それは逃げる時間を稼ぐためではなかったのですか」
「違います。昌平さんが、須恵さんの亡骸を山中に隠したのは、懺悔したあとその場所へ戻り、母親のそばで命を絶つためです。私は、キリスト教は自殺を禁じている。生きて悔い改めるために自首を進めました」
西條が佐方に訊ねた。
「では、被告人は嘘の供述をしていたということですか。なぜ自分に不利になる供述をしたのでしょうか」
「私も、そこが最後までわかりませんでした。しかし、被告人が病に冒されていることを知って全てが繋がりました」
佐方は法廷内を見渡し、声を張った。
「被告人は、自分が命に関わる病を患わっていると知っていました。自殺を断念した被告人は、どうすれば、神の教えに逆らわずに一日でも早く母の元へ行けるか考えた。そして、刑務所に少しでも長く入所し、牢の中で息絶えようと思ったのです。もし、真実を告げたら、情状酌量で量刑が軽くなってしまうかもしれない。病で息絶える前に刑務所を出てしまったら、悔いに負けてキリスト教の教えに背いてしまうかもしれない。そう考えた。だから、少しでも量刑を重くなるように、自分に不利な供述をしたのです」
西條は何も言わない。陪審裁判官も同様だった。
野崎が退廷したあと、佐方は西條に向かって姿勢を正した。
「論告は以上です。いまお伝えした事情を考慮し、被告人に懲役2年、執行猶予5年を求刑します」
報道席にいる記者たちから驚きの声が上がる。
通常、検察側が執行猶予を求めることはない。皆無に等しいケースだ。
西條は公判を進める。
最後は被告人の最終陳述。
西條は、昌平に「最後に言っておきたいことはありませんか」と話しかけるが、昌平は何も言わない。
「いま母親に伝えることはありませんか」と訊ねる。
昌平の肩が震えた。
「母ちゃん、死なせてごめん。会いたいよ―—ーそう言いたいです」
昌平の嗚咽は法廷に響く。
◇
(⑩ 佐方は「自分の信義を守っただけだ」という)
法廷を出ると、矢口が佐方の前に立ちはだかり、睨んだ。
「いい裁判だった。明日の新聞には、大きく記事が載るだろう。見出しは『検察側異例の求刑』といったところか」
佐方は、「有難うございます」と会釈して歩き出す。その背に、矢口が吐き捨てる。
「検察に、泥を塗りやがって。検察の立場はどうなる。正義を守るべき組織の権威をお前は貶(オトシ)めたんだぞ」
佐方はひかない。
「立場なんて関係ありません。私は、自分の信義を守るだけです」
これ以上話しても無駄だと思ったのか、矢口は口を結んだ。
終