下町ロケット・ヤタガラス
「あらすじ」
「第五章 禍福スパイラル」
-1-(鬼怒川流域にも台風が来るだろうとラジオが伝える)
収穫を間近に控えた稲穂を、湿り気を帯びた風が揺らしていく。
ラジオから台風が関東地方に軸足をのばし始めていると報じていた。
殿村は自宅倉庫にトラクターを入れた。父親は天井に括りつけられた"上げ舟"のロープを解き始める。
鬼怒川の流域に広がるこの辺りは、河川の氾濫に苦しめられてきた歴史がある。
読んで名の如く怒った鬼のように暴れ、猛威を振るった川は、時として百姓たちの血に滲むような努力をあざ笑うかのように田畑を水没させ、家を流し、水田に土砂を流し込んできた。
ゆえに、この辺りの古い農家は、倉を水の浸かりにくい高台に建てる一方、船大工に作らせた舟を納屋や倉庫の屋根に上げ、万が一に備えているのである。
父は倉庫を見回し、比較的高価な機械類を引っ張り出すと、倉庫から倉へと運んでいく。
殿村もトラクターと田植機、コンバインは倉庫内に並べ、変わりに奥に積まれていた土嚢を運んできて入口に並べる。
-2-(役員待遇で迎えられた島津は立派なリーダーシップを発揮する)
「すごい雨だな」
アキが窓辺まで見に行き、「道が川みたいになっている」、というので近くにいた軽部や立花も立って行って見下ろした。「よく降るなあ」と感心したように軽部がいう。
そんな中、自席のパソコンに向かい、周囲の会話など全く耳に入らないかのように集中している島津であった。舌を巻く集中力だ。
佃製作所の正社員として役員待遇で迎え入れられた島津は、トランスミッション開発チームを率いる責任者としての立場を与えられていた。
かつて島津が勤めたギアゴーストは企画設計に特化し、すべての製造をアウトソーイング、つまり外注していた。だが、島津がそれに満足していたわけではない。自ら製造に携わり、細部まで目を通す。それこそ、島津が長年希求してきたものづくりの理想だったのである。いまようやく、島津はそれを手に入れたのだ。
「カルちゃん、ここの設計、変更できないかな」
その島津がいい、どれどれとばかり軽部が覗き込む、それに立花とアキたちも加わり、島津の意見を聞き、議論しながら設計を見直していく。
島津が来てからのこのひと月余りで、指摘と改善点はすでに百を超えた。細かなものから、構造の根幹に関わるものまで様々で、佃製作所のトランスミッションの性能と信頼性は一気に底上げされ、しかもまだその途上にある。
この土砂降りの中、営業から帰った江原が情報を持ち帰った。
「全国の農家に呼びかけて『ダーウィン』のモニターを募集し始めたって。全部で30台。これから製造して来年からモニター期間をスタートさせるらしい」と開発チームら知らせた。
立花が、「ウチも早くしないと」と焦りを滲ませ、チームのひとりの上原が、「あくまでモニターなんだから、ウチでも出来るんじゃないか」という。
それまで背中で聞いていた島津がくるりと椅子を回していった。
「まだ早いよ。テストも十分できてないトラクターを農家の人たちに使わせるつもり? このトランスミッションに決定的に欠けているのは、テスト走行の総時間だよ。農家の現場は、北海道農業大学の実験農場とは違う。まずはどこかの田んぼとかで徹底的に使って、改善すべき点をすべて洗い出す。モニターに出すとしたらその後だよ。中途半端なものを出したら終わるよ」
有無を言わせぬ剣幕で島津はいう。
シマさんがいう通りだなと軽部がいったとき、佃が技術開発部に現れ、「大雨洪水警報が出ているぞ。今日は残業中止だ。電車が止まる前に帰宅してくれ」という。
-3-(鬼怒川の氾濫)
翌朝のことである。
「鬼怒川が氾濫したんだって」と、母と利菜が心配そうにテレビを見ていた。
佃は「こりゃ、酷いな」と言って殿村に電話したが、繋がらない。
会社に行くと、「社長、この映像、トノさんの家の近くみたいなんです。固定電話もモバイルも通じません」と、津野が心配そうにテレビと佃の間で視線を往復させる。
「午前中一杯は降り続くだろうって、さっき言ってました」との江原からの通報に、佃は、「無事でいてくれよ、トノ」と祈りながらテレビから目を離すことができなかった。
-4-(殿村の家は無事だったが、圃場は全面水没していた)
鬼怒川が氾濫危険水位に達したとの情報が入ったのは、前夜、午後9時過ぎのことであった。
殿村の住む地域にも避難指示が出され、年老いた両親とともに向かったのは、避難場所に指定されている高台の小学校だ。
………。
翌朝、殿村が見たのは、あたり一面の水であった。
午後になってようやく雨が小降りになり、クルマでいけるところまで行き、そこから20分ぐらいは歩いただろうか。
自宅の屋根を遠望し、建物は何とか無事だったかと安堵したのも束の間、両側に広がる惨憺たる光景に絶望し、気づいた時には涙を流している自分がいた。
見渡す限りの圃場が水没し、稲穂が水面下に沈んでいる。
-5-(佃たちは社用車で救援物資を運ぶ)
殿村との連絡がついたのは今朝方のことであった。
佃は若い営業部員と共に水や食料などの救援物資、段ボール五箱を社用車に積んで現地に向かった。
-6-(山崎と島津が殿村のことだと、社長室にある提案を持ってきた)
経理の迫田たちが募金箱を持って社内を回る。
佃は躊躇いつつも、「トノ、ウチに戻って来ないか」と電話で聞いてみる。
しかし、殿村は頑なな返事で佃の誘いを固辞した。
それから数日が経った日のこと、山崎と島津が、佃のところへ殿村のことで相談したいといってきた。
-7-(殿村は農林業組合の吉井から原状回復資金等の融資を断られる)
その後のある日、殿村が農林業組合の吉井のところへ田んぼの原状回復費と運転資金として500万円の融資をお願いに行った。
しかし、融資の条件が揃っている殿村に対して、かつての因縁がある吉井は融資の条件として、オリジナルブランド「殿村の米」の販売を中止することを要求する。
殿村は、「考えさせて下さい」と言って、組合を後にして他の金融機関を当たるつもりで歩いていると、稲本に呼び止められた。
「お前んとこは全滅か」
深刻な殿村とは違い、稲本はどこか他人事のような口調だ。
「ああ、お前んとこはどうだ」
「ウチは大丈夫だったよ。法人に加わっているメンバーの田んぼも大した被害がなくて済んだ」
少し間を置いて、稲本は続ける。「いやあ、お前が法人に加入していたら、お前んとこの稲が全滅していたのなら大赤字になるところだった。しかし助かったよ」、と稲本は高笑いともに背を向けて去った。
着信メロディが鳴ったのはそのときだった。
「トノ、話があるんだ。聞いてくれないか」
聞こえてきたのは佃の声であった。
-8-(財前達の要請で、殿村の父親は自宅圃場を実験農場として貸すことを了承する)
父親の殿村正弘を前に、「すいません、大勢で押しかけまして」、と佃は頭を下げて一通の提案書を差し出した。
殿村家の奥座敷である。
床の間を背に殿村と正弘、その向かいには佃をはじめ山崎と島津、帝国重工の財前、さらには北海道農業大学の野木も顔を揃えている。
財前が口を聞き、弊社では新規事業として無人農業ロボットの開発に取り組んでいて、現在、製品化の前段階まできておりまして、今後、実際の圃場や畑で耐久性、安全性や走行性能、作業機の正確性などを確認したいと考えております。従来、野木先生のところの北海道農業大学の実験農場、それに岡山の契約農場などを使っていて、効率が悪く、もっと近場でそうした場所を確保したいと思っていたことを説明し、「どうか、お宅の圃場をこのテストのために貸していただけないでしょうか」という。
正弘からの返事はない。
「オヤジ、いいんじゃないか。もう農閑期でもあるし」、と説得しようとする殿村に、「何するつもりか知らんが、田んぼは運動場じゃないんだ。トラクターで踏み荒らされたら、叶わねえ」と正弘が反対意見を述べる。
「たしかに、走行実験では圃場を走ることになりますが、そのあとの米作りに影響が出ないよう細心の注意を払うつもりです」
頷いた殿村が聞いた。
「社長、どの位の期間を考えればいいんでしょうか。農閑期だけだとうれしいんですが」
「少々言いにくいんだが」佃は膝を詰めた。「今年から来年一杯、貸してもらえないだろうか。全部とはいわない。三分の一でもいい。なんとか検討していただけませんか」
後半は父の正弘に向けた言葉だったが、正弘にとって、田んぼは命の次に、いや命と同じぐらい大切なものだ。それを実験やテストのために貸せといわれて簡単に首を縦に振るはずもない。
「いま日本の米作りは様々な問題に直面しています」そう切り出した佃が、「就労年齢の高齢化で離農する人が多く、そう遠からぬ将来、米作りは危機的な情器用に直面するでしょう。この無人農業ロボットは、夜でも働き、誤差数センチで耕耘し、均し、田植えをし、収穫まで可能にします。そのロボットに私たちが挑戦するのは金儲けのためだけではありません。日本の農業の力になりたいという大きな目標のためです。私も野木も帝国重工さんも思いは同じです。野木教授の試算によると、このロボットを導入することで農家の効率化は格段に向上し、年収を大きく引き上げることができるそうです。農業に興味があるが、経済的な理由で踏み切れないでいる若者たちにとっても願ってもない朗報です」、と日本の農業に未来をもたらすことになると力説する。
佃の話に耳を傾けてていた正弘は、「私も同じことを考えていました、佃さん。日本の農業のためにウチの田んぼが役に立つなら、こんなうれしいことはない。私からお願いします。どうか、日本の米作りを、農業を救ってください」と深々と頭を下げたのであった。
「第六章 無人農業ロボットをめぐる政治的思惑」に続く