[女敵討]
目付役・稲川左近は、永い江戸勤番の吉岡貞次郎が、国許に残した女房の不義密通を許して逃がすだろうことを見越したうえで、吉岡家が絶たれないようにする腹芸をやってのけた武士の情けの話。
「登場人物」
吉岡貞次郎: 配下の徒士組を引き連れて江戸勤番に就いて2年半となった奥州財部藩士。
稲川左近: 切れ者と噂されている奥州財部藩目付役。
吉岡ちか: 不義密通をした貞次郎の妻。
おすみ: 江戸で貞次郎の間に子をなした妾。
「あらすじ」
桜田門外の変があって、奥州財部藩でも藩邸の守りを固めることから、吉岡貞次郎とその配下30名を江戸勤番につけさせたのだが、幸いその懸念はなくなった。しかし、藩主の意向もあって、貞次郎と少数の配下は、2年半になるのに未だに江戸勤番のままであった。
定次郎について勤番交代がないのは、国許に妻のちかを残しているが、子はなく、老いた親もなく、身軽だろうと簡単に考えられているふしがあった。
しかし、貞次郎にとっても、2年半の期間は長かったのであろう。おすみという好きな女ができて借家に住まわせていて、赤ん坊が生まれていた。
そんなある日、江戸に上ってきた御目付役・稲川左近が、到着早々、貞次郎を御殿に呼び出した。
貞次郎は、幼馴染で同格でもある左近本人が訪ねてきて、永い勤番の苦労をねぎらってくれてもよさそうなものだと気分を害した状態で出向いた。
左近は、御殿に出向いてきた貞次郎に、国許に残してきたおぬしの女房殿が出入の商人と不義密通をしており、ことが公になって、役目のわしが女房殿にお縄を打てば吉岡の家が危ない。かくなる上は、わしがお縄にする前に、おぬしが国許に取って返して、女房殿を成敗し女敵を討ち果たさねばならぬと言う。
貞次郎は、左近が吉岡家のために心を砕いてくれ、この用件だけのために江戸に来たと知って、それまでの左近に対する気持を恥じ、かたじけないと頭を垂れた。
貞次郎は妾のおすみに、突然だが明日国許に帰ると言う。おすみが、後日、江戸に戻るのかと訊ねると、それは分からないが、赤ん坊の千太をててなし子にしとうはない、いずれ、千太を貰い受けたいと思っていると言う。
おすみは、貞次郎が帰った後、貞次郎のために途中まで縫っていた袷(あわせ)をほどいてしまい、乳房を抱えて泣いた。
貞次郎は、左近と一緒に国許に帰り、夜陰に紛れて左近の役宅に向かった。その夜、子の刻を過ぎたと思われる頃、吉岡家の老僕と女中が左近の役宅に来て、女敵が来ていることを告げた。
左近は、助勢すると言って貞次郎に同行した。
貞次郎は、ただいま帰ったと、低く虚ろな声で、下城したときと同じ声を出して玄関を入った。
部屋に入ってきた貞次郎に、女房のちかは、「どうぞ、ご存分に」と言う。
貞次郎は、ちかに、「わしへの意趣返しではないのか。あるいは無聊を慰め寂しさを紛らすための一時の迷い事ではないのか」と問うと、ちかは、「そのような事はございませぬ」ときっぱりと答えた。
ついで、貞次郎は、女敵に、「ちかを好いておるのか」と尋ねると、女敵は、「ゆめゆめ迷い事ではございませぬ。どうぞご存分に」と言う。
それを聞いて、貞次郎は思いがけないことを言った。「おまえを斬ることはできぬ。おまえの好いた男も斬れぬ。屋敷にある金は全て持って夜の明けぬ前に去れ」と。
ちかが、それではお前様のお立場がと言って俯くと、貞次郎は、「吉岡の家はわし限りに絶えればよい。どう考えようと、人の命より家の命のほうが重かろうはずはあるまい」と言う。
ひと呼吸の間をおいて、左近が、座敷の闇を窺い、歯切れの良い声で、「徒士組組頭吉岡貞次郎が姦婦を成敗し、女敵も討ち果たしたるところを、目付役・稲川左近が確かに検分いたした。吉岡は追って沙汰があるまで当屋敷内にて謹慎申し付ける。見事であった」と言った。
貞次郎が江戸を去って一か月ほどして、おすみが貞次郎との約束を果たすため、途中の宿で縫い直した袷を背にし、千太を抱いて国許の吉岡の家に来た。訪れを告げると、閉ざされた門の向こうから貞次郎の下駄の歯音が近づいてきた。
おすみは、千太と袷を手渡した後のことは、何も考えていなかったが、門前までの小路の後には粉雪の帳(とばり)が立てられていた。まるで、おすみの帰り道を阻むかのように。
(終)