「列藩同盟」
輪王寺宮は城を嫌い白石の近くの仙岳院に居住していて、そこで、江戸から帰った僧の情報により、慶喜は死を免れ駿河にいて家名も存続されたということを知った。
大総督府がもう少し早くそのような穏便な態度を取っていれば、上野の山の戦いもなく、奥羽一帯への戦乱も広がることは無かっただろうと、宮は改めて大総督府に激しい憎しみと憤りを覚えた。
間もなくして、宮のもとには、会津藩を残して、奥羽各藩が次々に降伏していったことがもたらされ、各藩は帰順を決定していき、列藩同盟も解体同然になった。
そのため、仙岳院の寺内は深く静寂が広がっていた。
宮は、抗戦を意図して結集した奥羽諸藩の期待のもとに、図らずも盟主の任に就いた。それは自然の成り行きであり、自らも一個の人間として朝廷軍に対抗しようと決意し、積極的に軍事指導に力を尽くしてきた。その行為は明らかに朝廷に対する敵意をむき出しにしたものとみられており、恭順すれば厳罰に処せられることは間違いないと心に決めていた。
「帰順」
宮は家臣や僧を前に帰順を発表し、9月20日、帰順書を亘理にいる奥羽征討総督に提出した。
そんなある日、榎本武揚が宮の許を訪ねてきた。宮の側近が、宮は少なくとも切腹を命ぜられるだろうから、榎本に宮を外国に逃がしてくれないかと相談に行ったことに対しての回答を持ってきたのだ。
榎本は、外国船への乗船は容易なことだが、宮様がそうなされるのは、我が国の恥辱です。皇族の御身としての生死は、この国で決すべきだと思うので、速やかに南にお帰りなさることですと強い口調で言った。
今は、奥羽列藩同盟の盟主として朝廷軍に反抗した宮はまさしく朝敵であり、皇族であるからこそ、その罪は果てしなく重く、皇族でありながら朝廷に反逆するという前代未聞の大罪を犯したのだ。
宮は、改めて限りない罪の深さを思った。榎本の言う我が国の恥辱であり、生死はこの国で決すべきだということに心から賛成し、榎本に礼を言い南へ帰ろうと言った。
宮は、10月上旬、大総督府がある東京に送られた。次いで到着後は麹町の観理院へ入るよう指示された。
「南帰行・幽閉の日々」
宮の一行が古河に着いたときに、行き先が東京から京都に変更され、千住に着いたときに、伏見宮邸で謹慎されよとの命が出た。
翌年、明治2年(1869)10月、謹慎が解かれ、伏見宮に復帰した。
「苦悩」
明治3年10月、24歳であった宮は東京在住の兄・東伏見宮嘉彰親王の勧めで東京の同邸に住むことになり、名も伏見満宮能久親王と称することになった。
しかし、兄がすぐにイギリス留学が許可され、太政官名で宮は有栖川宮熾仁親王の屋敷に移ることとなった。宮は胸の張り裂けるような驚きを覚え、顔から血の気が失せた。
新政府内で絶大なる権力を保持する有栖川宮の意識的な意向ではないか、宮は有栖川宮の底知れぬ怨念の深さに戦慄した。そのため、自ら命を絶ちたい思いであった。しかし、皇族に自殺は許されず、たとえ朝敵の汚名を負わされても生き続けてゆかねばならぬ身であった。
悶々と日を過ごすうちに、この国から離れたいと思うようになり、嘆願書を太政官の弁官に手渡した。
明治3年11月、プロシヤ(ドイツ)留学が承認され、年金5000円が下賜され、随行員等までつけられることになった。
宮は天皇に拝謁し、お礼を言上した。
「新しい道・日清戦争」
宮は留学中に北白川宮を継ぎ、父が亡くなった。
太政官からの連絡で、6年余の留学から明治10年帰国。明治24年、陸軍中将に任ぜられ、日清戦争が勃発するに及んで、この機会に自らが朝敵となった汚名をそそぎ、国恩に報いようと考え従軍を嘆願したが、叶えられなかった。
その後、近衛師団長を命ぜられた。
「台湾の戦場・終章」
明治28年5月、宮は近衛師団を率いて台湾事変に出征し、現地で熱病に罹っても前線を離れず担架に身を横たえて進撃したので病状が悪化し、10月28日48歳で死亡した。
国葬が発令され、これによって宮が負っていた朝敵の汚名は完全に拭い去られたのである。
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皇族の身にありながら(和宮は徳川家の人で少し立場が違う)、勅命を変更させるようなこと(天皇の命令に抗するようなこと)のために、自ら京都へ行く決断をして東征の大総督府に赴いた行動。
宮には戦さを収める権限、折衝できる立場(旧幕府を動かせる人間でない)になく、謝罪嘆願だけであれば朝廷軍は勅命が果たされない。そのような折衝を行うはずがなく、追い返された。宮の側近の僧たちは、上から目線の考えからも抜けきれなかった。
結果的に彰義隊を受け入れ、その中心人物になったこと。
そして、奥羽列藩の盟主になったこと。
それらが最終的に朝敵となっていった原因と思えるが、各面からの情報の収集、周囲の情勢・自分が置かれている立場を考えての情報の分析・判断の重大性について考えさせられる作品だった。