blog Donbiki-Style

筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

「不可能性」の追求

2008-01-10 23:11:53 | 日記
「可能性」という言葉は辞書にあるが、「不可能性」という言葉はない。
私が今考えた言葉だから当たり前である。
意味としては、「○○ができない可能性」とでも言おうか。

若さの特権とはよく言うが、最も大きなものは「時間」であろう。
残されている時間が長いから、人生において選択肢を多く持つことができる。
多少間違った道に進んでも軌道修正するチャンスは多いし、人によっては複数のことを一度に手がけながら自分のものにしていくこともできる。
自分の可能性を追い求めて、時には大きな回り道をあえて選ぶこともできる。

若いとはいえない年齢になってくると、自身の可能性の追求と言っても「今さら何だ」と言われそうである。
大部分の人間は、家庭を持ち、子供もできて、職場では肩書きを背負って大変な日々を送っているだろう。
今の自分に何かプラスしていくような活動をするには、日常生活の中での時間があまりにもないのが実情ではないか。

それでも、若くはない人間があえて「可能性」を追い求める活動をするならば、同時に「不可能性」の追求も行われてしかるべきだ。
何しろ若い人間と比べて時間がないのだから、対象をしぼって集中して取り組む必要がある。
裏を返せば、あれもこれもと欲張るのではなく、捨てるべきものは捨てる決断が求められる。
自分には○○ができるかもしれないと思ったら真っ直ぐにそこに突き進む一方で、××はどうしてもできないと思ったら速やかに撤退することである。

「不可能性の追求」を私を例に表現するならこうである。
一昨年に「総合旅行業務取扱管理者」という資格を取った。
しかし、資格を取れるくらいの知識は有しているものの、どうも私の人間性は旅行業界のようなお客さん商売には向いていない。
向いていないのだから、たとえ資格はあっても旅行を仕事として考えることはできない。
このような「できないものはできない」ということを認めていく作業が「不可能性の追求」ということである。

可能性と同時に不可能性も追求することで、目標はより明確となる。
馬券に例えれば、それは「買い目を絞る」作業ともいえる。
買い目を絞れば的中の確率は下がるが、当たったときの儲けは大きい。

できないことを強烈に意識するからこそ、できるかもしれないことで花を咲かせたい思いは強くなる。
お気楽な身分に甘えて、このトシでまだ夢を追っていられることの幸せを感じている。

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