スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&第二部定義一

2011-05-25 20:30:02 | 将棋
 紅白に分かれての第52期王位戦挑戦者決定リーグは今日が最終戦の一斉対局。白組で最も注目されたのは3勝1敗の羽生善治名人と4戦全勝の村山慈明五段の対局。過去は1戦のみで羽生名人の勝ち。
 先手は羽生名人。3手目に☗6六歩と角道を止め,相矢倉模様に進展。先手は早囲い,後手は飛車先不突きが主張点。先手の仕掛けに乗じて後手は玉頭に厚みを形成,先手がこれを目標に本格的な攻撃開始。その間に後手は攻めの銀を守りの金と交換することに成功。これは一応の成果といえると思います。そこから少し進んだ局面からの観戦。
                         
 飛車を取るのか馬を取るのかの二択。☗8二馬と飛車の方を取ったのは予想通り。☖2九馬☗8一馬☖5六馬☗7九銀(第2図)まですらすらと進みました。☗7九銀は考えていなかった手ですが,ここに銀を使って手番を渡すのでは先手が苦しいのではないかと瞬間的に思いました。
                         
 ここは飛車を打って攻めるかもしれないと思っていると☖5三歩で銀を受けたので落ち着いているなと感じました。ここは手が広そうな局面で長考となりましたが☗3四桂という最も厳しい手というか直接手が選択されました。☖同金☗同銀☖同馬までは一直線。さらに☗5四馬と切り,☖同歩に☗4三銀の打ち込み。☖同金もあったと思いますが☖4四馬の方が本線という感じはします。☗3ニ銀成☖同玉(第3図)は必然。
                         
 ここはだいぶすっきりした感じで,先手が攻めを続けるのは大変に思えました。なけなしの一歩を使って☗4五歩。取る一手に思えましたが十分な考慮の上で指されました。☗5三金は攻め続けるならこれしかないという感じ。☗4二飛を受ける必要がありますが☖4三金でした。☗同金☖同玉☗3五金までは予想通り。☖同馬か☖7八馬を想定していて,単に☖5六馬と逃げるのはあまり考えていませんでした。☗6三飛と王手して☖3ニ玉に☗4四金(第4図)の詰めろ。ここではまた大変になっているように思えました。
                         
 後手はここで☖4二歩と受けました。☗3三金打☖3一玉。ここは☗5三飛成なのかなと思っていると☗6一飛成の王手。☖4一銀の受けに☗2二金を考えていたら☗9一龍と補充。☖3三桂☗同金☖3二歩と進みました。ここでまた☗4三桂を考えていたらひとつ横に☗5三桂。☖3三歩☗4一龍☖2二玉は一本道。☗4二龍と王手して☖3二桂に入手した銀を☗3一銀。☖2一玉☗2二香☖1二玉☗3ニ龍(第5図)と想定通りに進んで後手玉は必至。
                         
 あとは先手玉が詰むかどうか。桂馬を使って詰むならば,第4図から第5図の過程で☖4一銀と打った意味があったということで,そうでないなら敗着だったということだろうと想定。僕ならば詰まされてもおかしくないような先手玉ですが,羽生名人がそんなミスを犯す筈もなく,逃げ切って勝利。同じ1敗だった佐藤康光九段が負けたので,4勝1敗で並んだ両者が挑戦者決定戦進出を賭して再び相まみえることになりました。再戦は今週の土曜日です。
                         

 では物体corpusの何たるかが『エチカ』においてどう基礎づけられているのかといえば,それは第二部定義一に示されています。
 「物体とは,神が延長した物と見られる限りにおいて神の本質をある一定の仕方で表現する様態のことと解する(Per corpus intelligo modum, qui Dei essentiam, quatenus, ut res extensa, consideratur, certo, et deterninato modo exprimit.)」。
 第一部定理二五系によれば,神Deiの本性を一定の仕方で表現する様態deteaminato modo exprimuntur,すなわち有限様態のことを個物Res particularesというわけですから,要するにこの定義Definitioが意味するところは,物体とは神の延長の属性Extensionis attributumの個物であるということです。そしてもちろんこの定義は,名目的にそういわれているというわけではなく,実在的な意味を有します。したがってすべての物体は神の延長の属性を一定の仕方で表現するということ,ならびに個物であるということでは一致します。これが,岩波文庫版第二部自然学①補助定理二を形式的に証明する際の,具体的な意味になってくるのです。
 そこで今度は,再び第二部定理三八に注目してみましょう。これによれば,すべてのものに共通omnibus communiaであるようなものは,十全に認識されるということになっています。したがって,人間の身体corpusもまた物体のひとつであるわけですから,もしも現実的に存在する人間の身体がそれ以外の外部の物体によって刺激されるということが生じるならば,その外部の物体と共通であるような上述の要素というのは,この人間によって十全に認識されることになるでしょう。そして岩波文庫版117ページ,第二部自然学②要請三は,現実的に実在する人間は,好むと好まざるとに関わらず,こうした経験をすることについては不可避であることを示していると思います。
 なお,これは実際には,現実的に存在する人間についてのみ該当するのではなく,たとえば人間によって刺激されるような外部の物体に関しても同じようにいえなくてはなりませんし,僕はそのようにいえるのだと考えます。ただこれをいう場合には,外部の物体の精神mensというものをどのように理解するべきかということの分析が不可欠で,このこと自体は現在の考察とは無関係である上に,かなり煩雑ですから,ここでは省略します。したがってここの部分に関しては,もしも納得できないのであれば,単に人間の精神mens humanaにのみ妥当するというように考えてもらっても構いません。
コメント
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